写真の地図は、また竹内康之さんの「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。
下方の出町柳から赤→とは逆に、やや高野川から離れるように大原通に沿って北上します。
1908(明治41)年に竣工した鐘ヶ淵紡績(鐘紡)京都工場の跡地が、大原通が北大路に達する前に見えてきました。
赤レンガの建物の一部が残されて、公園になっています。
1975年に閉鎖された工場跡は、1978(昭和53)年に、川崎清さん設計の公団東大路高野住宅として生まれ変わりました。
工場があったことは知りませんが、公団が出来たのは、私たちが松ヶ崎に引っ越してきた頃なので、憶えています。
今では日本に沢山の外資系ホテルが有りすぎるぐらいですが、日本初のホリデイインがこの高野川沿い✖に出来たのは、1973(昭和49)年私が働きだした年です。
泊ったことは有りませんが、併設されたボーリング場の京都スターレーン・スケート場の高野アリーナは子供たちと使ったことあります。
今そこは、島に行く前には「カナート」と言う商業施設になりましたが、島から帰ってしばらくすると、より近代的な「洛北阪急スクエア」と言う商業施設に鞍替えしていて、近場の買い物場所として利用していました。
○産に地方から働きに来られていた時代がありましたが、○産の人は胃潰瘍で病院に来る人が多かったなと。ふと、思い出しました。
さすがですね。
鐘紡が「鐘ヶ淵紡績」の略と初めて知りました。
その工場の「汽缶室」とは何なのでしょうか?
たぶんボイラー室のことだと思いますし、糸を紡ぐには蒸気がいるような気もしますので。
私は潰瘍の出血や穿孔で飯食っていた時代の外科医でしたね。薬で商売あがったりになりました。