島の医者になって、た頃もあった

70代男の日記風ブログです。新連載「京都へ、京都から」も始めました。

大原街道8.

2024-05-19 | 京都へ、京都から

 写真の地図は、また竹内康之さんの「京へと続く街道あるき」からの無断借用です。

下方の出町柳から赤→とは逆に、やや高野川から離れるように大原通に沿って北上します。

 1908(明治41)年に竣工した鐘ヶ淵紡績(鐘紡)京都工場の跡地が、大原通が北大路に達する前に見えてきました。

赤レンガの建物の一部が残されて、公園になっています。

 1975年に閉鎖された工場跡は、1978(昭和53)年に、川崎清さん設計の公団東大路高野住宅として生まれ変わりました。

工場があったことは知りませんが、公団が出来たのは、私たちが松ヶ崎に引っ越してきた頃なので、憶えています。

 今では日本に沢山の外資系ホテルが有りすぎるぐらいですが、日本初のホリデイインがこの高野川沿いに出来たのは、1973(昭和49)年私が働きだした年です。

泊ったことは有りませんが、併設されたボーリング場の京都スターレーン・スケート場の高野アリーナは子供たちと使ったことあります。

 今そこは、島に行く前には「カナート」と言う商業施設になりましたが、島から帰ってしばらくすると、より近代的な「洛北阪急スクエア」と言う商業施設に鞍替えしていて、近場の買い物場所として利用していました。


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6 コメント

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Unknown (Toitenlabee)
2024-05-19 15:16:42
鐘紡が京都にあったとは、、、。京都は大企業が少ないという勝手なイメージがあって、、、。
○産に地方から働きに来られていた時代がありましたが、○産の人は胃潰瘍で病院に来る人が多かったなと。ふと、思い出しました。
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Toitenlaさんへ (島の医者になって)
2024-05-19 17:24:34
 〇産の人が患者さんにいたことも知りませんでした。
さすがですね。
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一乗寺と見れば (大雪男)
2024-05-20 06:51:37
あの武蔵の下り松の決闘が浮かぶのは仕方無いですね。
鐘紡が「鐘ヶ淵紡績」の略と初めて知りました。
その工場の「汽缶室」とは何なのでしょうか?
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大雪男さんへ (島の医者になって)
2024-05-20 07:26:27
 内田吐夢監督、中村錦之助の宮本武蔵一乗寺下り松の決闘では、延々田んぼの中で戦っていたので、この辺り人家も無かったんでしょうね。
 たぶんボイラー室のことだと思いますし、糸を紡ぐには蒸気がいるような気もしますので。
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Unknown (Toitenlabee)
2024-05-20 20:22:21
昔は、先生の島の県から来られていた方も多くて、慣れない生活のせいか、胃潰瘍になって、入院して、帰る、、、など数件ありましたよ。薬で治る前の時代です。笑
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Toitenlaさんへ2. (島の医者になって)
2024-05-21 06:43:59
 なるほど!私が島に居た頃もトヨ〇に就職する人多かったです。
私は潰瘍の出血や穿孔で飯食っていた時代の外科医でしたね。薬で商売あがったりになりました。
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