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縦長長方形の形の奈良盆地の西南隅近くにあるのが御所市ですし、ここから24号線を南下すると、すぐに和歌山県に入ります。
第五代孝昭天皇陵から東へ3㎞、第6代孝安天皇の玉手丘上陵(タマテオカノエノミササギ)は御所にありました。
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第5代孝昭天皇の2番目の息子、大倭帯日子国押人命(オホヤマトタラシヒコクニオシビトノミコト)が即位し第6代孝安天皇として、葛城の室に秋津島宮(アキヅシマノミヤ)を置いたそうです。
姪(兄の子)のオシカヒメノミコトを妻として、二人の子をもうけ、123歳(日本書紀では137歳)で崩御と長命です。
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初期の頃の天皇はだいたい次男がなっていますね。
長男は神に仕え第2子が国を治める、というパターンは何故なんでしょうね?
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この陵は実際丘の上にあるので、麓に自転車を置いて、どこの陵もこんな感じの石畳の参道を上ります。
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坂道の上に冬の午後の陽を浴びて現れたので、なかなか荘厳な感じのする陵です。
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西に葛城の山並みも望めましたが、この陵も真正面には廻れませんでした。
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再び下に降りて、麓を廻って陵を見上げましたが、真下にある大きな寺の建物の影になって、陵は石柱ぐらいしか見えません。
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麓の交差点の看板の如く、高校ラグビーで今や奈良では天理高校よりも強いどころか、全国でも五本の指に入るぐらい強い奈良県立御所実業高校(ゴセジツギョウと読みますよ)は、ここにあります。
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今回は干支(えと・かんし)の勉強をします:
十干(ジュッカン)は現代ではあまり使いませんが、甲(コウ・キノエ)・乙(オツ・キノト)・丙(ヘイ・ヒノエ)・丁(テイ・ヒノト)・戊(ボ・ツチノエ)・己(キ・ツチノト)・庚(コウ・カノエ)・辛(シン・カノト)・壬(ジン・ミズノエ)・癸(キ・ミズノト)の十種類。
十二支は皆さんよくご存知の、子(ネ・シ)・丑(ウシ・チュウ)・寅(トラ・イン)・卯(ウ・ボウ)・辰(タツ・シン)・巳(ミ・シ)・午(ウマ・ゴ)・未(ヒツジ・ビ)・申(サル・シン)・酉(トリ・ユウ)・戌(イヌ・ジュツ)・亥(イ・ガイ)の十二種類。
干支とは、この十干と十二支を組み合わせた(10と12の最小公倍数は60)60を周期とする数を表わす語です。
すなわち、1甲子(キノエネ)2乙丑(キノトウシ)3丙寅(ヒノエトラ)・・5戊辰(ツチノエタツ)・・・・・・43丙午(ヒノエウマ)・・・・・58辛酉(カノトノトリ)59壬戌(ミズノエイヌ)60癸亥(ミズノトノイ)の60です。
最初の組み合わせは甲子(キノエネ)で、1924年(大正13年)はその甲子の年、その年に完成したのが甲子園球場です。
会津藩が涙が出るほどよく戦った戊辰戦争(ボシンセンソウ)は1968年(明治元年)の戊辰(ツチノエタツ)の年に始まったのでこの名が付いています。
大化の改新虫五匹と憶えた645年、今は大化の改新と言わず乙巳(イッシ)の変と言うようですが、645年は乙巳(キノトノミ)の年だからです。
だから有名な丙午の年も60年に1回来るのです。
そして61回目は又元の干支に戻るので、暦が還るということで、還暦になります。
ちなみに2週(120年)した時は大還暦と言うそうですが、我々の年代の何人かは大還暦を経験するかもしれませんね。
ということで、干支と言う言葉は十二支だけを表わしてるのではなく、十干・十二支で干支であることを私も知りました。
これを基本に、天皇陵巡りには大事な情報なので、又勉強は続きますよ。
返事
花水木さん:私は人情に厚く優しい人ではなく、
ひがみっぽくって、世の中を斜めからしか見ない人間のようですよ。
その年に生まれる女子は、気性が荒く、男をダメにするとかしないとか・・・
その年周りはどうこう言うのは、統計学なんでしょうか?
かなり前、いろいろあって、友人に連れられて、御殿場の占い師を訪問。
質問もしてないのに、家族の名前を書いたら「長男は家に戻らない」と言われました。
他にも数点・・今思うとギョッとすることを指摘されました。うーん。。
あーー話が逸れましたね。
毎回勉強になりますが、今回は特に難しいです。
しかし、古事記も日本書紀も何故にみんな長生き過ぎるのでしょうか?
123歳なんて、家の胃腸が丈夫すぎるばあさまでも無理な年齢ですよ。
先日、世界最高齢の方が亡くなりましたが、それでも137なんて超えてませんでした。
因みに、その方は、毎日生卵とビスケットを食べていたそうです。