第96代(南朝初代)後醍醐天皇(1288~1339)(在位1318~1339)の第7皇子で、母は阿野廉子(新待賢門院)の義良親王(ノリヨシ・ノリナガシンノウ)(初名は憲良)の生涯は戦乱の渦中にありました。
奈良時代に役行者が開き、弘法大師の弟子実恵(ジツエ)が872年に創立した観心寺(カンシンジ)に行ったのは紫陽花の季節です
1333年父後醍醐天皇の建武の新政では、5歳の義良親王は北畠親房(チカフサ)・顕家(アキイエ)父子に擁せられ陸奥多賀城に赴き、1335年に足利尊氏が新政から離反したので、北畠父子と共に西上、8歳で比叡山で元服、再び奥州に戻りました。
1338年には戦いながら吉野に戻り、その後三度奥州を目指すも暴風雨に会い伊勢に漂着、1339年吉野に帰って皇太子になり、父後醍醐崩御直前に義良親王は11歳で皇位につき、第97代(この時は南朝2代)後村上天皇(ゴムラカミ)(1328~1368)(在位1339~1368)として即位しました。
写真は観心寺の奥にある御陵への参道です
後村上天皇を擁する南朝方は1348年に高師直(コウノモロナオ)に攻められ、紀州の山奥に逃げた時もありましたが、1351年正平一統によって一時的ながら南北朝は合一され、後村上天皇は南朝の天皇から全日本の天皇になり、北朝崇光天皇は廃されて三種の神器も接収されました。
その後足利軍の巻き返しにあい、三上皇などを拉致した南朝軍は大和賀名生(アノウ)に陣を構えました。
その後も北朝方と戦い続け、短期間ですが京都を占拠した時もありましたが、ほぼ劣勢の中、和睦交渉にはなかなか応じずに5歳の時から戦い続け、在位30年間の間も第一線に立っていたわけではないでしょうが、いつも鎧兜ぐらいはつけていたような、ほかには類を見ない天皇だった後村上天皇、生きて戦う目標や信念は何だったのでしょうね。
写真は落ち葉一つなかった参道ですが、それもそのはず、この小屋にずっとボランティアをしてるおじさんが座っていました
戦いに明け暮れた生涯を41歳で大阪の地で終え、観心寺のこの檜尾陵(ヒノオノミササギ)(大阪府河内長野市寺元観心寺内)に葬られています。近くには母廉子の墓といわれてる参考地が2か所もありました
返事
Toitennさん:H病院の院内報、
私の写ってた白黒の頃から奈留島まで送ってもらったカラーの号まで、
10号以上持っていますので、
焚書された今、メルカリに出せるかな。