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E・コッカーと戯れる浪費派リーマンのゆるい生活

由無し事をつれづれに…の巻

2017-09-22 11:16:26 | 日記・エッセイ・コラム
秋から冬にかけ、この2017年は記憶に残る年、社会のターニングポイントになるかもしれない。

それをもたらすのは、カープの連覇でもなく総選挙でもない。

いわゆる「北」の彼の国をめぐってだ。




かたや「四つの島(日本)を核爆弾で沈める」、かたや「やむを得ない場合、(北の)完全破壊も」。

ロケットマンと金髪の大男のやりとりはエスカレートするばかりだ。


もはや慣れっこになってきた感もあるが、字面を見れば凄まじい言葉の応酬である。

これだけを捉えれば、宣戦布告とさえ思える。

国際社会において、乱暴者はこれまでも少なからずいた。

しかし今回、より深刻なのは、諍いの突端にUncontrollableな「核」が存在することだ。




「いやいや、これは外交上の取引。ブラフだよ」と論ずる向きもある。それもあるだろう。

冷戦時の米ソものど元に核を突きつけ合ったが、結果、戦争はなかった。

ただ現況、北を軸とした国家間に、最低限の信頼関係があるとは思えない。

熟慮の上での挑発的言辞とも受け取りにくい。

であれば、チキンゲームが暴発に向かわない保証はどこにもないのだ。


そんな今、私たちはこの広島の地に過ごす。

そしてつらつら考え、思い至る。


この地から今、訴えるべきは、核被害の悲惨さであり、核使用の愚かさだろう。

71年前、広島と長崎は地獄と化した。

その夏からずっと、二つの都市は核がもたらす人間的悲惨を訴えてきた。


「核兵器が使われると、こんなことになるんだよ」。それが言えるのはヒロシマとナガサキしかない。

ここで起きたことをあらためて明示し、悲劇をわかりやすく届ける必要があるだろう。

それは失われた命に対する義務であり、人間の未来に対する責務であると思う。




一方で、こうも思う。

諍いを助長するものに、排外主義や偏狭なナショナリズムがないだろうか。

閉塞感に囚われ、格差への諦念が漂う現代。

自信が失われたとき、先行きに不安を感じたとき、人は自分を取り戻そうと無意識に攻撃的になる。

それは世の習いであり、見渡せばそんな御仁は周りにいくらでもいるだろう。

ヘイトだのなんだのとまで言わずとも、「ニッポン再発見」「日本人ってすごいよね」系の書物の売れようは不安の裏返しとしか思いようがない。


不安は不満となり、「敵」を見つけることにつながる。

そこで出てくるのは、白か黒か、極めて単純な峻別である。

右か、左か。対話か、圧力か。

総選挙はそうなりかねないし、俯瞰的に見れば世界でもそんな「二者択一」が闊歩する


しかし、本当にそうか。

思想、生き様の方向性は誰しもあるが、一方で括られるほど単純なものではない。

リベラルであったり保守的であったり、それぞれの局面で私たちは判断するし、行動する。

どちらかに決めてかかるのは思考停止であり、それは楽であるのかもしれないが、人生を豊かにするとは思えない。

他者を攻撃することで得られるものよりも、理解し合うことのほうがより大きな果実を結ぶはずだ。

絵空事だとか、お花畑に生きているのかなどと、そんな声もあるだろう。
しかし、複眼的思考こそが大切であり、極論が狂気を招いてきたのは歴史が証明しているのではないか。




喫緊の課題である「北」との向き合い方もしかり。

対話と圧力は相反するものではないだろう。

いろんなレベルでのそれぞれのチャンネルで今、着地点を探っているはずだ。


指導者ともあれば、そんなことは先刻ご承知だろう。そうであってほしい。

信念は誰しも尊重されるべきものだ。

ただ、もし自分の自己実現と市民の願いは相反するとわかったとき、その矛を収めてほしい。


そして私たちは彼らの勇ましい言葉を冷静に咀嚼したい。

社会で広がりつつある分断や起きかねない核被害を、まずは自分に引きつけて考えるべきだろう。

自分やこどもたち、大切な人々の身の上に起きたら…

最後に羅針盤になるのは、そんな極めてささやかな想像力だと思う。




他人事ではない危機。

言葉の強さや届きやすさが先に立つ昨今、それは目に見えぬ形ですでに私たちを包んでいる。