『船舶設計技術者の著書から「元寇と神風」の謎に興味津々! 1』
―最近のノルマンディー上陸作戦迄は史上最大の上陸作戦は元寇・弘安の役―
最近、巡り合った本ですが、船舶設計技術者・播田安弘著『日本史サイエンス』―蒙古襲来、秀吉の大返し、戦艦大和の謎―、でした。 この中に、魅かれたキャッチフレーズがありました『蒙古軍は、なぜ一夜で撤退したか』、『ジャイアント・キリング、弱者が強者を制する、いわゆる番狂わせ』と。
モンゴル帝国の最大版図も東欧までで、西欧、ドーバー海峡の先の島国グレートブリテンまでは拡大できませんでした。 この巨大な帝国は、四ハン国、❶ジョチ・ウルス、❷チャガタイ・ウルス、❸フレグ・ウルス、❹大元ウルスの領域国家である、ゆるやかな連邦体制に移行した。 騎馬民族・大元ウルスが、江南・高麗の歩兵を大動員しても、東シナ海、玄界灘を渡海しての日本上陸作戦は無理だったようです。
博多湾(蒙古軍の上陸作戦失敗)
蒙古軍の元寇の上陸作戦が『文永・弘安の役』の二度とも失敗したのが博多湾です。 時代が違うと言え、博多湾上陸作戦の海岸は、ノルマンディー海岸・九十九里海岸のような遠浅で広大な地形と全く違います。
ウエブ情報から引用
ノルマンディー海岸(連合軍が上陸作戦成功)
『上陸作戦』で思い出すのは『WWⅡ ノルマンディー上陸作戦』です。 ノルマンディー海岸は、遠浅で海岸線の長さはおよそ70㎞を連合軍は選択しました。
ウエブ情報から引用
九十九里海岸(米軍が上陸作戦計画した上陸地点)
更に驚いた偶然の一致は、米軍が東京へ侵攻(史実は、その前に無条件降伏で実行はされず)を計画した海岸は東京湾ではなく、千葉県の九十九里海岸、遠浅で長さも、66㎞でした。
ウエブ情報から引用
文永・弘安の役の博多湾は海岸が複雑に入り込んだリアス式海岸で、湾は浅く、海底が複雑な地形でした。
文永の役・弘安の役
『元寇』(文永の役・1274年旧暦10月晩秋、弘安の役・1281年旧暦6月初夏)と『神風』のことは、歴史の教科書よりも、映画や小説であまりにも良く知られておりますが、実際には、失敗は複合原因であったようです。 蒙古軍が撤退したのは、『神風(発達した低気圧の季節風と台風)』だけではなさそうと、いつも頭の隅っこにありました。 (勝因を鎌倉武士ではなく『神風』にしたかったのは朝廷と寺社勢力にあったようです。 昭和の大戦中は、皆ご存じのように「神風に期待」は特に酷かったようです。 因みに遣隋使・遣唐使は、『盛夏季に、北太平洋高気圧(但し西縁)に覆われ、比較的穏やかな南東風 と晴天が続く時期』に渡航した。
文永の役、
ウエブ情報から引用
1274年 文永の役の鳥飼潟の戦い(『蒙古襲来絵詞』)
『神風』説
文永の役は台風シーズンからは外れていたようで、『神風』は台風でも温帯低気圧はなかったようです。 旧暦10月晩秋はユリウス暦・グレゴリオ暦でも11月中・下旬になり、台風ではなくこの季節に玄界灘に吹く暴風雨であったと想像できます。 厳しい冬の季節風の前に撤退したのが真相でしょうか。
『威力偵察』説
兵力数十万を動員した『弘安の役』に対して、『文永の役』の動員数は、数万であったために、『威力偵察説』が提唱されていますが、数万の上陸作戦が『威力偵察』であったとは、考えられません。 元・高麗軍3万は対馬、壱岐を襲うと10月19日、博多湾に集結。 翌20日には分散上陸を開始し、日本の武士団と壮絶な戦いを演じました。
弘安の役
ウエブ情報から引用
1281年 弘安の役の御厨海上合戦(『蒙古襲来絵詞』)
1281(弘安4)年 、元軍は東路軍(兵4万、兵船900艘)、江南軍(兵10万、兵船3500艘)の二手に分かれて、日本侵攻に向かいました。 朝鮮半島を発した東路軍が先に日本に着き、5月21日に対馬に、6月6日には博多の志賀島に上陸します。
これに対し日本の武士団は、関東から動員された者も含めておよそ6万5000。侵攻に備えて築いた防塁に拠り、敵を睨みました。そして夜に入ると、日本の将兵は果敢に小船で夜襲を仕掛け、敵兵船に斬り込みます。 敵の首をあげ、兵船に火をかけて暴れまわれました。
一方、元軍(東路軍)は、昼間は防塁に拠る日本軍を攻めあぐね、夜には夜襲を受けて消耗し、主力軍の江南軍の到着を待ち望みます。 その江南軍の大船団がようやく姿を現わしたのは、6月の末でした。 東路軍と江南軍が合流し、14万もの大軍勢となった元軍は、6月27日、肥前の鷹島に集結。 いよいよ上陸して本格的な侵攻を始める準備7月下旬までに整えます。 日本軍も激戦となることを覚悟したことでしょう。
ところが閏7月1日(現在の8月23日)の夜のこと。 猛烈な台風が九州を襲い、鷹島に集結していた兵船は、風雨に翻弄されて大破、次々と荒波に飲み込まれていきます。 4000艘もの兵船はほぼ全滅し、14万の元軍将兵の約80%が海中に没しました。これでは日本侵攻どころではなく、辛うじて沈没を免れた兵船は撤退するより他はなくなります。 また鷹島に取り残された元の将兵は、ことごとく日本軍に討たれることとなりました。
かくして日本は、元の本格的侵攻を撃退することに成功しました。 台風を「神風」と呼んだのも、この状況下では当然だったのかもしれません。 もっともこの時点ではまだ元は日本征服を諦めたわけではなく、鎌倉幕府は臨戦態勢を解くことはできません。 それによる御家人の負担と、恩賞の少なさが、やがて幕府への強い不満につながっていくことを思うと、元寇はやはり大きな影響を日本の歴史に及ぼしたといえそうです。 元王朝も元寇の後は衰退に向かいます。
特に、元寇・弘安の役が、これほど大規模であったことを本当に理解できていませんでした。 時代はずっと後になり現代で、兵站用の艦船と装備の発達が全く異なりますが、『史上最大の作戦・WWⅡノルマンディー上陸作戦』のスケール・動員兵員数は1,332,000人余、守るドイツ軍は380,000人余でした。
ウエブ情報から引用
連合軍の揚陸(19440606)
一方、鎌倉時代の弘安の役の蒙古側の兵力は、総数 540,000〜556,989人(数不詳の江南軍水夫を除き)と、中国側に記録が残っていることに驚きます。
東路軍 40,000[〜56,989人
- 蒙古・漢軍 30,000
- 高麗軍 9,960
- 水夫 17,029
江南軍 100,000人
- 水夫 人数不詳
軍船 4,400艘
蒙古軍 400,000人(*)
(*)『元史』巻一百二十九 列傳第十六 阿剌罕「十八年,召拜光祿大夫、中書左丞相、行中書省事,統蒙古軍四十萬征日本,行次慶元,卒于軍中」(『元史』に記載ですが要検討課題、十数万か数十万の差があるので)
東路軍軍船 900艘
江南軍軍船 3,500艘
日本の鎌倉幕府側の兵力不明。 江戸時代に編纂された『歴代鎮西要略』によると25万騎。 なお同書は、対する元軍の兵力を『幾百万とも知らず』(実際は数十万)と記載してあり、これこそ日本版『白髪三千丈』の世界です。 元寇と神風の調査はこれからも続けます。
(20210407纏め、#310)