『「護天涯」の碑、立山カルデラの土砂災害から富山湾の深さ維持』
『維持された富山湾の深さが深海性・回遊性ホタルイカを呼ぶ』
いくら憬れても非力な山男には、縁が遠かったのは『穂高連峰の岩壁』であり剣・立山の岩壁』で、これらは『夢のまた夢』の世界でした。 時は経ち、世界的な規模のカルデラが沢山ある日本の中で、急峻な山岳地帯の立山連峰の立山にある立山カルデラ(南北約5km、東西約7km)を知りました
世界には、『噴火の冬・氷河期』を起させるほどの、巨大火山噴火の痕跡・カルデラはあります。 トップ5;)
❶南北約70km、東西約50km 米国のイエローストーンカルデラ
➋南北約100km、東西約32km インドネシアのトバカルデラ
❸南北約32km、東西約37km 日本大崩山(コールドロン))
❹南北約26km、東西約20km 日本の屈斜路カルデラ
❺南北約25km、東西約18km 日本の阿蘇山カルデラ
これらに続くのは、南北約11km、東西約8km日本の箱根カルデラです。
以前、立山カルデラは約10万年前の称名滝火砕流を噴出する噴火によって形成された陥没カルデラであると考えられていたが、現在では浸食カルデラであると考えられているほど、この浸食による土砂・土石流との闘いは大変であったと想像がつきます。
護天涯
天涯とは「天のはて、極めて遠く隔たったところ」という意味です。 この碑は、富山平野の土砂災害を防ぐために人里を離れた立山カルデラを守ることは、あたかも地の果て天涯を守ることに通じる、という意味で使われており、大正4年、当時の浜口恒之助知事により刻まれました。
ウキペデイアから引用
立山(たてやま)は日本の飛騨山脈(北アルプス)北部、立山連峰の主峰で、中部山岳国立公園を代表する山の一つであり、雄山(おやま、標高3,003 m)、大汝山(おおなんじやま、標高3,015 m)、富士ノ折立(ふじのおりたて、標高2,999 m)の3つの峰の総称で、雄山のみを指して立山ということもあるが、厳密には立山連峰に立山と称する単独峰は存在しない。 剱岳、鹿島槍ヶ岳、唐松岳とならび、日本では数少ない、氷河の現存する山と知られています。
昔、山岳部で『ヤマヤ』だったころに憬れの『立山連峰の剣・立山』は高望みせず『後立山連峰』の代表的な山々を、一番天候に恵まれた初夏に、白馬岳から鹿島槍に縦走をしたことがありました。 白馬岳は、お世話になった会社の厚生課が主催した夏季行事の『白馬岳登山』を山岳部で支援し、その後、山岳部は厳冬期に鹿島槍北壁をアタックする計画があり、その偵察で鹿島槍への縦走でした。
表題の立山カルデラある『立山』が『立山連峰の本家』で、壮大で関東から見れば『後立山連峰』は分家のように感じていました。 理由は『後立山連峰』飛驒山脈の北東部,黒部川中流部(黒部峡谷)の東側を南北にはしる連峰で,主稜線が長野県と富山県の県境をなし、名称は富山県側からみて立山連峰の『うしろ』にあることです。
白馬岳付近から望む立山連峰
右後方に霞んでいるのが白山、ほぼ中央左寄りに剣岳と、その左に別山と立山、
立山と別山の間の大きな雪渓が立山カルデラ
ウキペデイアから引用
立山連峰遠景(中央の大きな窪みが立山カルデラ)
ウキペデイアから引用
立山火山(弥陀ヶ原火山とも)の地形図
左へ伸びる平坦部が弥陀ヶ原…中央右の窪地が立山カルデラ
ウキペデイアから引用
立山砂防(富山湾を土砂からきれいに・深いを維持)
安政5年(1858)2月26日の八つ時(新暦4月9日午前2時ころ)、跡津川断層の活動によるマグニチュード7.0~7.1の大地震が飛越地方を襲いました。 この地震で、立山カルデラは大鳶・小鳶の両山をはじめとして各所で崩壊し、その土砂が常願寺川の上流をせき止めました。
一般の被害はおよそ100カ村に及び、全壊家屋140~150戸、半壊家屋300~400戸と伝えられています。そのほか、城の石垣や家の壁、土蔵や土塀が崩れるといった被害や、地割れ、水の噴き出しなども記録されています。 それ以来、富山藩・富山県は砂防事業に尽力をしてきました。
明治39年から富山県が工事を開始したが、度重なる災害のため、大正15年から内務省(当時、その後建設省)による国直轄事業になりました。
ウキペデイアから引用
自然;巨大カルデラと地震と砂防との共存は大変です。
(記事投稿日:2021/04/11、#311)