『最新技術が歴史の謎を解く 1(関ヶ原の戦いの東西両軍の布陣』
―衛星画像・航空写真・宇宙線(ミューオン)観測・DNA鑑定で―
数年前のベストセラー『日本史の謎は「地形」で分かる』竹村公太郎著や、最近では『宇宙考古学の冒険』サラ・パーカック著があります。 前者は地図から、後者は衛星画像からの解析です。 今回は、赤色立体地図(2002年に航空レーザの標高計測結果を表現・可視化するために開発)からのアプローチです。
昔から地図を見るのが好きでした。 小中学校時代は図書室や音楽室に掛けられた日本地図を飽きずによく見ていました。 特に、故郷千葉県の旧海上郡三川村は背後・北側には関東ローム層の台地が東西に広く横たわっていました。この大地を地元では『デー(台地の台のこと)』と呼んでいました。 この台地は水捌けがよく大きなうねりの起伏の麦畑は雄大で、北海道の富良野を思い出させるほどでした。
山男の時代は、紙の地図のトップは、北に向ける習慣になり、その後はタブレットの操作で地図の向き(トップがいつも北)には苦労しました。 傘寿の今は、遠出も、ままには、なりませんので、国土地理院地図や、グ―グルマップの航空写真とストリートビューで、昔いったことのある27か国を、センチメンタルジャーニーの『地図上ハイキイング』を楽しんでいます。 前置きが長くなりましたが、表題に戻ります。
表題『最新技術が歴史の謎を解く 1(関ヶ原の戦いの東西軍の布陣)』
―衛星画像・航空写真・宇宙線(ミューオン)観測・DNA鑑定で―
先ずは、ドイツ将校も一見して、西軍の勝利と見た関ヶ原合戦の東西両軍の布陣です。
ウキペディアから引用
日本の陸軍大学校に教官として招かれていたクレメンス・W・J・メッケルです。 布陣図では西軍がほぼ完全に東軍を包囲しています。メッケルはそれを見て、即座に西軍の勝ちだと言いました。 ところが実際には東軍が勝ったこと、かつその詳細な理由を聞いて、「ああ、それは政治の話だ。実際の戦いとはまた別の次元の問題だ」と言ったそうです。
関ヶ原盆地で、三つの山城からの鶴翼陣で、その上『逆落とし』攻めで、野戦得意の徳川家康の東軍と迎えようとした、西軍の石田三成は、武闘派でなく文知派と言われていますが、武闘と文治の『文武両道』のようです。
この度の歴史探偵は、関ヶ原の合戦には西軍が事前に準備した迎撃体制;
❶関ケ原の『西側奥の玉城(城山)』と、
❷関ヶ原の『北側の菩提山城』と、
❸関ヶ原の『南側の松尾山城』で、東軍を鶴翼陣で包囲攻撃する計画
であったと予想して、これらの山城を赤色立体地図で作成し、石田三成たち西軍が築いたとみられる巨大山城の跡を確認した。 敗れたはずの西軍は、鉄壁の防衛網を築き上げ、家康を迎え撃とうとしていた。 玉城を取り囲むように松尾山城、菩提山城を配置され、鶴翼陣の両翼の先端に位置し鉄壁の布陣で、機能すれば、歴史が変わっていたと番組の中でいっておりました。
秀吉だからこそ、数カ月できた小田原の石垣山一夜城は、野戦ではなく小田原城攻めのためです。 野戦用に三つの山城を短期間に大規模増改築は無理。
❶秀頼の出陣に備えたと推測していますが、西軍の総大将毛利元就が大阪城に控え、淀殿は、秀頼傘下の三成と家康の内紛とみており、秀頼の城山(玉城)への出陣はありえなかったと思います。 玉城は、南北朝時代にもあったそうで、その頃の城であれば関ヶ原の戦いとは無関係になります。 関ヶ原の戦いの前には、西軍が持っていた領地です。 西軍は徳川軍に負けた敗者でしたから、記録が残っていません。 赤色立体地図によると、東西15km、南北7kmの大土木工事で造られたことがわかります。 切岸は最大20m、堅堀も無数見つかりました。 本丸の大きさが実に256m、普通は100mですから、玉城は圧倒的大きさで一夜城ではありません。 千田教授によると、豊臣秀頼のための城ではないかといいます。
❷1600年竹中重門は関ヶ原の戦いでは、東軍につき徳川家康に『菩提山城』を提供していました。
❸さらに現地調査で、関ケ原合戦のキーマン、小早川秀秋の裏切りの痕跡(西軍を攻める造作)も発見とありましたが、この松尾山城は三成と秀秋が合意で事前準備しており、標高差200ⅿほど逆落としで攻めるのは『対東軍』、『対西軍』でも同じ最高の戦術です。
では、なぜ西軍は負けたかですが、 理由を聞くと「ああ、それは政治の話だ。実際の戦いとはまた別の次元の問題だ」と言ったそうです。
関ヶ原合戦布陣(別図再掲)
今回の三つの山城の位置関係がわかります。 もっとも重要な松尾山城は東軍、西軍のどちらへも横腹を『逆落とし』で攻められます。 城山(玉城)は東軍を殲滅の決め手になる好位置です。 この地図には表示できないほど(右上部)、道沿いで10数km離れた『菩提山城』は関ヶ原合戦には遠すぎて備えの城であっと考えてます。
ウェブ情報から引用
菩提山城
伊吹山系の東端にある菩提山(402m、関ヶ原の標高100-150ⅿ)山頂に築かれた東西150メートル・南北300メートルの山城。 1600年竹中重門は関ヶ原の戦いにて東軍につき徳川家康に菩提山城を提供した。
ウェブ情報から引用
玉城・城山、関ヶ原奥(西中央の)
縄張りは、南北に延びる城山(307ⅿ、関ヶ原の標高100-150ⅿ)の山頂部に主郭を置き、南側の尾根筋を堀切で断ちきって防備を固めている。 主郭西側に一段下がって曲輪があり、この下から南側の堀切までの間には畝状竪堀と土塁。
玉城は、築城年代や築城者について定かでないが、南北朝時代に佐竹義春が足利尊氏に追われここに砦を築いたと伝えられ、戦国時代には岩手城主竹中氏の家臣杉山内蔵之介が居城とした。
関ヶ原の合戦の折には城山の東麓に大谷吉継が布陣。
ウェブ情報から引用(赤色立体地図)
松尾山城
関ケ原を一望できる松尾山城(290ⅿ、関ヶ原の標高100-150ⅿ)松尾山にあり、関ケ原の戦いの際、小早川秀秋が布陣し、ここから西軍の側面を突いて、一気に東軍を勝利に導いた場所。
ウェブ情報から引用
徳川家康の戦略は、本当にすごい。 この時点で、14年後の大阪城攻め『冬の陣』・『夏の陣』を想定していた可能性があります。
(20210426纏め #321)