知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『大女優 原節子さんの凄さ 2(知らなかったことが多すぎる)』―16歳の新人女優を一躍スターダムにのし上げた日独合作映画「新しき土」―

2021-08-24 22:22:26 | 映画

『女優原節子さんの凄さ 2(知らなかったことが多すぎる)』

   ―16歳の新人女優を一躍スターダムにのし上げた日独合作映画「新しき土」―

 

原節子さん16歳の新人女優を一躍スターダムにのし上げた日独合作映画「新しき土」と、この映画の製作背景には、日本とドイツの政治的・軍事的接近の目論見があったことには本当に驚きました。

 

その後の写真家・秋山正太郎氏とのエピソードなどを思い出すと、やはり原節子さんは稀代の大女優でした。 このエピソードは投稿済み『大女優 原節子さんの凄さ 1(写真家・秋山庄太郎氏は同い年のこの女優を撮りたくて、近代映画社へ入社)』をご覧いただければ幸いです。

 

『新しき土』は1937年公開の日独合作映画。 

ドイツ語版のタイトルは『Die     Tochter des Samurai』(『侍の娘』)。

 

ウェブ情報から引用

映画の一シーン、大和邸でゲルダ(右、ルート・エヴェラー)に箸の使い方を教える光子(左、原節子) ウキペデイア情報から引用

 

ウェブ情報「ときめきとぴっく」の抜粋引用です。

「新しき土」では、アーノルド・ファンク監督によってヒロインに大抜擢された原節子さんは、大和光子役。 留学から帰った婚約者の気持ちの変化に絶望する少女を初々しく演じた原さんは、世界公開のためドイツやフランス、アメリカなど世界を巡り、ヒトラーもこの映画を絶賛したそうです。』

『新しき土とは 満州 のことを指しており、唐突なラストシーンも日本の満州進出を喧伝するものになっている。  一方でこの映画の製作背景には、 日本 と ドイツ の政治的・軍事的接近の目論見があった。』

『神奈川県出身、1920年6月17日生まれ。 日本一の美人女優として誉れ高く、戦前から戦後にかけて活躍し、「永遠の処女」とも呼ばれています。 女優になったきっかけは映画監督をしていた義兄・熊谷久虎のすすめだったそうです。 日活や東宝の看板女優として、また独立した際にも精力的に活動し、女優生活28年間で108本の映画に出演しました。』

『銀幕の世界から退いたのが42歳の時。何も語らないまま突然引退し、隠遁生活を送り、2015年9月5日に95歳でその生涯を終えました。 謎が多く、ベールに包まれたままの昭和の大女優・原節子さんは凄いです。』

 

原節子の代表作『東京物語』

1953年の『東京物語』は、家族の絆や人と人とのふれあいを丁寧に描くことで定評のある小津安二郎監督の傑作です。 原さんは、義理の両親に親身になって接する紀子役を好演。 作品自体も日本のみならず海外でも高く評価され、当時小津は英国のサザーランド杯を受賞し、2012年には英国の映画専門誌において「世界映画史上ベスト作品」の第1位に輝くなど、原さんにとっても小津監督にとっても一番の代表作となっています。

原さんを度々ヒロインに起用した小津監督は、容姿ばかりに注目されがちな原に関して、お世辞抜きに日本の映画女優として最高であり、演技にも信頼を寄せていることを語っていたそうです。

 

原節子のハーフ説やマッカーサーとの噂話は本当?

華やかな西洋風の顔立ちのため、ハーフ説が囁かれた原さん。 一部ではハーフではなくクォーターという話も出たそうですが、どちらも違うようです。 実家の会田家は、代々日本橋で問屋を営み、両親ともに日本人。 外国人の血が入っているということはないそうです。 

もうひとつの大きな噂。 原さんが20代の頃にマッカーサーがGHQ最高総司令官として日本に来ていますが、当時原さんとマッカーサー大将が親密な関係であると巷で語られていたそうです。 これは、世界公開された映画『新しき土』を観ていたマッカーサーが、原さんのことをチャーミングと言ったことが外国人記者の耳に入り、いつの間にか歪曲されて伝わってしまったのが真相だとか。

 

晩年は鎌倉で過ごしていた?

小津監督が1963年に亡くなり、その通夜に出席したのを最後に公式の場に姿を見せなくなった原さんは、鎌倉でひっそりと暮らしていたと言われています。 鎌倉には原さんを映画界へ誘った義兄の家があり、その傍で余生を過ごしたのだとか。 原さんのもとへ足を運んだマスコミ関係者やファンもいたそうですが、 原さんの身内は決して本人に会わせなかったそうです。 人目を避けるため散歩をするにも裏口から出入りしていたという原さん。 80代の頃までは、そうした姿が稀に目撃されるものの、90歳を超え体調を崩し入院したことをきっかけに全く見かけなくなったといいます。

その後の2015年9月5日に肺炎で95歳で亡くなりますが、本人の意向により公表はされずマスメディアに伝わったのは約2か月半後でした。 長年表舞台に姿を見せなくても原さんの人気は根強く、現役時代の活躍をまとめた特集本の発行のほかイベントなどもしばしば各地で行われ、他界する数か月前にも大阪で「銀幕デビューから八十年 女優 原節子のすべて」が開催されていました。

これは、40本以上の原さんの出演作が上映された大規模企画だったそうです。 2000年にはキネマ旬報による「20世紀の映画スター・女優編」で第1位を獲得し、時代を超えて愛され続けている原節子さん。 人々を魅了した「永遠の処女」は、謎の引退で「伝説の女優」となり、その人生を全うしたこの先は「永遠の女優」としても語り継がれていくことでしょう。

 

繰り返しになりますが、『原節子さん、16歳の新人女優を一躍スターダムにのし上げた日独合作映画「新しき土」』と、 その後の写真家・秋山正太郎氏とのエピソードなどを思い出すとやはり原節子さんは稀代の大女優でした。

(20210824纏め ♯378)

 

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