知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『同郷・同世代の旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子氏のこと 2』 ―古里・飯岡のことを、いつも話題にされる詩人・エッセイスト―

2021-08-15 18:12:15 | 読書

   『同郷・同世代の旧飯岡町出身の女流詩人 高橋順子氏のこと 2』

『古里・飯岡のことを、いつも話題にされる詩人・エッセイスト』

先ずは、高橋順子氏のプロフィールです。 

経歴

千葉県飯岡町(現旭市)生まれ。東京大学文学部フランス文学科卒業。青土社などの出版社に勤務。1998~2004年、法政大学日本文学科非常勤講師。

1993年10月、作家車谷長吉と結婚。2005年、車谷、新藤涼子と世界一周の船旅をする。2008年2~5月、車谷と四国八十八ヶ所を巡礼する。

受賞歴

  • 1987年 『花まいらせず』で現代詩女流賞
  • 1990年 『幸福な葉っぱ』で現代詩花椿賞
  • 1997年 『時の雨』で読売文学賞
  • 2000年 『貧乏な椅子』で丸山豊記念現代詩賞
  • 2014年 『海へ』で藤村記念歴程賞、三好達治賞
  • 2018年 『夫・車谷長吉』で講談社エッセイ賞

先日(20210814)の日経新聞文化欄に、高橋順子氏のエッセイが、タイトルは『津波が生んだ文学賞』でした。 このエッセイを読んで初めて知ったのは『元禄大地震(17031231)、関東地方を襲った巨大地震、震源は相模トラフ沿いの、房総半島南端の千葉県の野島崎付近で、M7.9-8.5と推定』でした。 大地震や大津波の災害記憶は風化しやすいことがよく分かりました。

 

エッセイの抜粋・引用です。

『千葉県の九十九里浜に面した飯岡町(現旭市)が私の古里である。 弓なりの海岸線をもつが、それは海風が強くて、中心部がへこんだせいとかいう。 近隣には湿地帯が多かったことが地名で分かるが、それも風が強くて水は川となって流れることが出来なかったのだという説がある。』

屏風ヶ浦 南端に位置する刑部岬灯台、奥は飯岡漁港、上にへこんだ飯岡海岸』

ウエブ情報から引用

『利根川でもって東北地方とは分断されているが、べえべえ言葉や漁師言葉と言われる私たちの町の方言には、東京・下町言葉の類似とともに東北弁の濁りがある。 東北と地続きだったことの証しである。 

「ヒ」とフランスの人々は発音せず「イ」と発音するというが、下町でも私たちの町でも「ヒ」と言えず「シ」と発音した。 「エ」と「イ」も混乱している。 小学校の校長先生は「しょくんしつさいって、んぴつとってきて」と言っていた。

10年前の東日本大震災で飯岡も被災し、旭市では14人が犠牲になった。 「この浜に津波は来ねえ」と漁師までもが言っていたために、津波を見に行って命を落とした夫婦もいた。』

 

津波を見に行って命を落とした夫婦のこと、後で知ったのですが、中学時代の友人のお兄さん夫婦でした。 今回の飯岡津波については、ずぶ素人の自分が、いろいろ調べた結果です。

『2011年3月11日の東北地方三陸沖地震の飯岡津波の被害が、「入り江もなく遠浅」の飯岡海岸で、大きかったのは、津波の第一波が九十九里の西端の大東岬で反射し、その反射波(というより、むしろ海岸流が正しい、土地の人々が津波は西からも来たといった)と第三波(東から来た)が飯岡港沖でぶつかり合成波になり、波高7.6ⅿにもなった。 一般に、津波の合成波は,岸とは平行になりますが、飯岡の場合は、ほぼ直角でした。この合成波は、幅が狭く、合成部分が盛り上がり、飯岡津波の被害は下永井地区の狭い範囲に集中した。

地震津波の合成波が飯岡津波のケースのように起こることは「稀有」のことと、いまだに信じています。飯岡津波の合成波再発がないことを祈っています。』

 

エッセイの抜粋・引用戻ります。

『神社や寺に伝わる古文書には、元禄年間に大津波があって、70人以上の犠牲者がこの浜から出たことが記されていた。 それが今に伝わっていなかったことに地域のNPO法人「光と風」の人たちは衝撃を受けた。 耳で聞く方言だけなく、目で見る言葉にも親しむ風土にしなければと壮大で必死な夢が語られたのだった。』とありました。

 

今回の飯岡津波は、東からと西からの津波の合成波が、波高7.6ⅿでしたが、元禄大津波は西からのもので、波高5-6ⅿであったようです。 この元禄地震について調べてみました。

元禄地震

元禄地震は、元禄16年(1703年)12月31日、関東地方を襲った巨大地震。

震源は相模トラフ沿いの、房総半島南端の千葉県の野島崎付近にあたる。M7.9-8.5と推定,元禄大地震と呼ばれる。 大正12年(1923年)に起きた関東大震災と類似のタイプの海溝型地震である上に、震源分布図も類似することから相模トラフ巨大地震と考えられている。 

ただし、地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった。 大規模な地盤変動を伴い、震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、噴火が続発した時期であり、本地震の4年後の宝永4年(1707年)にM8.4-8.6と推定される宝永地震、および宝永大噴火も発生している。

旧飯岡町(現旭市)の死者は三ヶ所の浜(下永井浜、飯岡浜、平松行内浜)で70余人と記録がある。

 

『天災は忘れたころにやってくる』を肝に銘じて、相模トラフ巨大地震や首都圏直下型地震に備えたいと思います。

(記事投稿日:2021/08/15、最終更新日:2022/02/11、#372)

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