知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』 『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

2022-06-21 10:23:12 | 城・城郭・城塞

『世界の城郭・宮殿 16(海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市)』

『イタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがる6つの城塞都市)』

 

ヴェネチアよりは、『ベニス』が親しみやすい

ヴェネチアよりは、『ベニス』と呼ぶ方が、より親近感がある傘寿爺です。 

ベニスは、北イタリアのアドリア海の最も奥まった所にある潟の上に形成された水の都で、ベニスは英語であり、イタリア語ではベネチア(ヴェネツィア)と呼ばれます。 堤防のように延びるリド島によってアドリア海と隔てられ、その途中3ヵ所にある自然の水門から出入りする海水によって絶えず浄化されています。 あの映画『ベニスに死す』で有名な「リド島」もあります。

 

江戸時代には『水の都』と言われた江戸・東京も、関東大震災と東京大空襲の後、水路が廃棄物処理場として使われ、下町の市街地の濠はかなり埋め尽くされて、元の姿を完全に残しているのは皇居の内濠です。

 

東ローマ帝国の自治領として誕生した『ヴェネツィア・ベニス』の波乱万丈(元祖は波瀾万丈)の、今まで続いた長い歴史と、『江戸・東京』の歴史との比較という楽しみな課題ができました。 そのために貴重なウエブ情報を抜粋引用しました。 どちらも『湾の奥の葦の原の大湿地帯』を干拓・造成したものです。

 

10世紀ころのヴェネツィア共和国の領域

ウエブ情報から引用

 

15世紀から16世紀にかけてのヴェネツィア共和国の領域

 

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、

現在はイタリアのヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都

ウエブ情報から引用

ヴェネツィアは、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。 ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。 ベネチアと表記されることもある。

中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名を持つ。 英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。 

 

ヴェネツィアの土地は、大陸からの川の流れに乗ってくる土砂、そしてアドリア海の波と風の力によって作られた湿地帯。 古代、ヴェネツィア周辺の地域にはウェネティ人が住んでいた。 伝説では、アクイレイア、パドバヴァなどの北イタリアの都市の住民が、5世紀のフン族やランゴバルド人のイタリア侵攻からのこの湿地帯へと避難してくることから、452年にヴェネツィアの歴史が始まる。 

 

このとき避難してきた先が現在のトルチェッロ島である。 足場が悪い湿地帯のため、侵入者は追ってくることができず、避難した人々はここに暮らし続けるようになる。 干潟に住むメリットを保つため、干潟を荒らしたり干拓したものを極刑にするという法を作る、普段は船が通れる道を杭で示していたが非常時にはその杭を抜くなど、干潟を守り、かつ有効に利用していた。

 

彼らは12のおもな島からの護民官たちを中心とした政府を組織し、アドリア海沿岸地域はもともと東ローマ帝国の支配下にあるため、名目上は東ローマ帝国に属したが、実質的には自治権を持っていた。 697年、ヴェネツィア人は初代総督を選出して独自の共和制統治を始めた。 これがヴェネツィア共和国の始まりである。 

 

つづく1世紀間は政府内部の不和のため不安定な政治が続いたが、外敵の脅威に対して結束し、836年にはイスラムの侵略を、900年にはマジャールの侵略を撃退した。 10世紀後半からはイスラム諸国と商業条約を結んだが、これはイスラム教徒と戦うよりも貿易をしようというヴェネツィア人の現実的な政策によるものである。

 

9世紀始め、フランク王国がヴェネツィアを支配下に置こうとして軍を派遣したため、トルチェッロにいた人々はさらなる避難を余儀なくされ、現在のヴェネツィア本島へと移り住むことになった。このときにたどり着いたのが今の「リアルト地区」である。 810年に東ローマ帝国・フランク王国間で結ばれた条約で、ヴェネツィアは東ローマ帝国に属するが、フランク王国との交易権も持つこととなり貿易都市への布石が置かれた。

 

このころヨーロッパ各国では、その国の存在をアピールする目的でその国の守護聖人を求める風潮にあった。 ヴェネツィアも同様に守護聖人を求めていたところ、福音書著者聖マルコの遺骸がエジプトのアレキサンドリアにあり、ムスリムに奪われる恐れがあることを聞きつけ、838年、それを奪い取りヴェネツィアに運んだ。 このときよりヴェネツィアは聖マルコを守護聖人とすることになった。

 

10世紀後半からはイスラム諸国とも商業条約を結び交易を拡大した。 さらにアドリア海沿岸への支配地域の拡大に努めていった。 ジェノヴァ共和国などの同じイタリアの貿易都市とは違い、都市の周辺海域が大国・東ローマ帝国の制海権内にあったために、イスラム勢力による海上からの直接的脅威を感じることが少なかったことも、イスラム諸国との関係を積極的に進める要因となった。

 

11世紀、弱体化した東ローマ帝国の要請でアドリア海沿岸の海上防衛を担うことになり、その代償として東ローマ帝国内での貿易特権を得た。

 

工廠正門ポルタ・マグナ

1104に工廠(アルセナーレ)が創られ軍船の修理を始めた。 1320年には軍船や大型商船の造船所となり、最大1万6,000人が従事し、船のロープ・帆桁などを個別に生産し、一貫作業で1日1隻の造船能力があった。 1370年代以降は銃器も生産され、16世紀には世界における造船・兵器製造の一大拠点となった。 1797年のナポレオン支配終了まで繁栄が続いた。 1593年にはガリレオ・ガリレイが技術顧問に就いている。

 

1204、第4回十字軍とともにヴェネツィア艦隊は東ローマ帝国首都のコンスタンティノープルを攻略、援助への代償としてクレタ島などの海外領土を得て東地中海最強の海軍国家となり、アドリア海沿岸の港市の多くがヴェネツィアの影響下に置かれた。ヴェネツィア共和国は東ローマ帝国分割で莫大な利益を獲得し、政治的にも地中海地域でヨーロッパ最大の勢力を誇るようになった。

 

東地中海から黒海にかけての海域が、コンスタンティンいわば「イタリア商人の海」ともいうべき状況になったことは、同じ13世紀に、ヴェネツィアのmsる子・ポーロが黒海北岸から中央アジアを経て元へ向かうことを容易にさせた。

 

富裕な貴族たちは政治の支配権の獲得をくわだて、13世紀末ごろには寡頭が行われるようになった。13  14世紀には商業上の宿敵であるジェノヴァとの戦いが続いた。 1378-81年の戦いで、ジェノヴァはヴェネツィアの優位を認めた。

そのあとも侵略戦争で周辺地域に領土を獲得したヴェネツィアは、15世紀後半にはキリスト教世界でも屈指の海軍力を持つ都市国家となった。

 

15世紀半ばのオスマン帝国の進出により、ヴェネツィアの海外領土が少しずつ奪われていき、最盛期は終わりを告げた。 1538年におけるプレヴェザの海戦で、オスマン帝国は地中海の制海権をほぼおさえ、さらにヴェネツィアにとっての圧力となった。そのうえ、大砲の登場により干潟に住むメリットがなくなってしまった。 

 

その後の諸外国の侵略や、ほかのイタリア都市の攻撃で、ヴェネツィアの力は弱まった。 また、1497-98年にポルトガルの航海者ヴァスコ・ダ・ガマが喜望峰をまわるインド航路を発見したため、貿易の対象がアジアに移り、アメリカ大陸が発見され、時は大航海時代へ遷るとともに貿易の舞台はアドリア海から大西洋や太平洋に移り、ヴェネツィアの貿易に対する影響力は低下、衰退は加速された。

 

これに対してヴェネツィアはガラスやレースなどの工芸品を作ることで対処した。 1508年、ヴェネツィアに対抗して神聖ローマ帝国、教皇、フランス、スペインは同盟を結び、ヴェネツィア領土内にある財産を没収した。1516年、ヴェネツィアは巧妙な外交でイタリアでの支配権を取り戻したが、海洋国家としての地位は回復できなかった。

 

1797、ヴェネツィア共和国はナポレオン・ボナパルトに侵略され、ついに崩壊した。 カンポ・フォルミオ条約により、ナポレオンはその領土をオースト

りアに引き渡した。 オーストリアは1805年にフランスが支配するイタリア王国に譲ったが、1814年には奪回。 オーストリアは港湾都市としてヴェネツィアよりトリエステを重視したため、ヴェネツィア経済は衰退した。 

 

その翌年、ヴェネツィアとロンパルディアはロンバルド=ヴェネト王国を作った。ヴェネツィア人はイタリアの政治家ダニエール・マニンの指導のもとで、1848年にオーストリア支配に対する反乱(1848年革命)を起こし、ヴェネト共和国を建国した。しかし、その翌年にオーストリアの攻撃により降伏した。 1866年に普墺戦争が始まると、イタリア王国はこれを第三次イタリア統一戦争としてオーストリアに宣戦布告し、この結果ヴェネツィアとヴェネト地方はイタリア王国に編入された。

1987、世界遺産(文化遺産)に『ヴェネツィアとその潟』として登録された。

 

海洋国家ヴェネチアの防御のための城塞都市

ヴェネチアの海の交易路を守る海上要塞都市

今回の世界遺産は、海洋国家ヴェネチアが防御のために築いた6つの城塞都市で、これらかイタリア、クロアチア、モンテネグロの3国にまたがっている。

ヴェネチアからアドリア海を南に300キロ進んだ先、狭い海峡の奥にある町がシベニク(クロアチア)である。ここは海の交易ルートの拠点で狭い海峡の入口には聖ニコラス要塞が設置され、砲台が行き交う船に睨みを効かせていた。 16世紀頃からヴェネチアが各地に築いた防御都市の一つである。オスマン帝国の進出に備えて、クロアチアの海岸の複雑な地形を防御に利用したのである。

防御が容易な半島に築かれた町がザダル(クロアチア)。 町を丸ごと城塞で囲んで防御したヴェネチア最大最強の城塞都市である。 城壁は高さ10メートルもある分厚い壁で、町への入口は数カ所のみである。 3万人がこの都市で暮らしていて、内部には多くの交易商人が住んでいた。 ヴェネチアから派遣された行政官がここを支配し、アドリア海全体の交易を管轄し、税関では外国の商人はここで莫大な税を徴収された。

さらにモンテネグロにあるコトルは15世紀にヴェネチアが領土にした都市である。背後には垂直な断崖があり、ここには何重もの壁がある。また海側には強大な城壁を備えた

 

陸の防御のための都市も

しかしヴェネチアの敵はオスマン帝国だけではなかった。ハプスブルク帝国やフランスなどの陸上勢力も力をつけていた。そのためにヴェネチアは陸も守る必要に迫られる。ヴェネチアの北方の大平原にある星型の城壁に囲まれた都市がパルマノーヴァである。ヴェネチアの穀倉地帯であるこの地を守るために築かれた。星型の出っ張りは9つあり、入口は3箇所のみ。これらの出っ張りは砲台を備えた陣地であり、死角をなくして入口に迫る敵などを砲撃できるようになっている。これはこの時代の最先端の構造であったという(五稜郭なんかもこれを参考にしたと思われるが)。

さらにアルプス越えの交易路を守るための都市も築かれた。ベルガモはヴェネチアの西の玄関口だった。岩山の上に築かれた町は全長5キロの城壁で守られている。アルプスを越えた商人はこの街を通ってヴェネチアに運ばれた。さらにアルプスを望む湖岸に築かれたのがペスキエーラ・デル・ガルダ。ここは湖が川に流れ出す場所で水運の要であった。湖上の都市はまさに湖のヴェネチアであった。

これらの都市は16~17世紀の要塞の姿を伝えるものとして世界遺産となった。

東ローマ帝国の自治領の時代から今まで、外交と防御で、国体を維持してきた『ヴェネツィアベニス』は凄いです。

(記事投稿日:2022/06/21、#543)


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