『縄文時代の土偶も土器も「凄い」、縄文中期:約5,500年前、後期:約4,700年前、晩期:約3,400年前の、日本列島のもの!』
『東アジア文化圏の一部ともいわれるが、でも、縄文文化を東アジア圏の遺跡と比較検証期待! 日本土偶・土器の芸術性は抜群』
『遮光器土偶が国宝に慣れないのはなぜ? 理由は二つウエブに』
- この亀ヶ岡から出土した遮光器土偶が国宝に指定されていない理由の一つとして、出土状況の記録が無い事が挙げられるようです。 つまり、明治20年に亀ヶ岡から出土したとされていますが、詳細な発掘資料が存在しないのです。 出土地点とされる場所も推定地なのです。 国宝に指定されている他の土偶については詳細な発掘資料が存在し、史料的価値が格段に違うこと。
- 完形ではなく、 つまり、むかって左足が欠損しているから。 国宝土偶5点は皆完形です。
国宝にはなっていませんが、これぞ国宝的価値があると依怙贔屓をしています。その著名な重要文化財は、
遮光器土偶
ウエブ情報から引用
縄文時代につくられた土偶の一タイプ。 一般に「土偶」といえばこの型のものが連想されるほど有名な型である。 目にあたる部分がイヌイットやエスキモーが雪中行動する際に着用する遮光器(スノーゴーグル)のような形をしていることからこの名称がつけられた(遮光器を付けた姿の表現ではなく、目の誇張表現と考えられている)。
遮光器土偶は主に東北地方から出土し、縄文時代晩期のものが多い。 一方で遮光器土偶を模倣した土偶は、北海道南部から関東・中部地方、更に近畿地方まで広がりがある。 その特徴は上述の遮光器のような目に加え、大きな臀部、乳房、太ももと女性をかたどっていることである。 また、胴部には紋様が施され、朱などで着色された痕跡があるものが多い。 大型のものは中が空洞になっている。 これは焼く際にひび割れをしないようにするためだと考えられている。
完全な状態で発見されることは稀で、足や腕など体の一部が欠損していたり、切断された状態で発見されることが多い。 多産や豊穣を祈願するための儀式において、土偶の体の一部を切断したのではないかと考えられている。 また、切断面に接着剤としてアスファルトが付着しているものも多く、切断した部分を修理して繰り返し使用していたと考えられている。
縄文時代の国宝と言えば、土偶ですが、両足がしっかりと付いています。
《土偶 縄文のビーナス》(前3000〜前2000)
ウエブ情報から引用
縄文時代中期に製作されたと見られる土偶。
妊婦を象っており、高さは27センチメートル、重さ2.14キログラムである。 粘土に細かい雲母片が練りこまれているために、肌がうっすらと輝いているように見える。 雲母片が練りこまれた土偶も例が少なく、ほかの土偶が体の一部を破壊されているものが大半であるのに対し、この縄文のビーナスはほぼ完全な形で見つかったことも珍しい。 「土偶」の名称で国宝に指定されている。 茅野市尖石縄文考古館所蔵。国宝になった中ッ原遺跡の仮面の女神も同館に所蔵されている。
《土偶 縄文の女神》(前3000〜前2000)
ウエブ情報から引用
縄文時代中期に製作されたと見られる国宝指定の土偶の通称である。
縄文の女神は、高さ45cm、淡い赤褐色をした土偶である。 縄文時代の人の姿が究極に再現された土偶であり、故意に壊された状態で発見され復元が不可能な土偶が多い中、完全な土偶は日本国内では珍しいとされる。
直径約2.5m、地下1mの範囲から左足、腰、頭、胴、右足など5つに割れた土偶が次々と出土。その後復元され、高さは45cmと日本で発掘された土偶の中で最大級とされる。 均整のとれた八頭身の美しい容貌から、縄文の女神と呼ばれるようになった。
《土偶 中空土偶》(前2000〜前1000)
ウエブ情報から引用
中が空洞に作られている土偶のことである。 縄文時代中期に出現する。
土偶は、高さ41.5cm、幅20.1cm、重さ1,745gで、中空土偶としては国内最大である。 作りが極めて精巧で写実的であり、表面がよく研磨されている。 非常に薄づくりで紋様構成も優れていることから、縄文時代における土偶造形の頂点とも評価されている。出土した南茅部の「茅」と、中空土偶の「空」をとって「茅空(かっくう)」という愛称がつけられている。
《土偶 仮面の女神》(前2000〜前1000)
ウエブ情報から引用
高さは34センチメートル、重さは2.7キログラムあります。顔に仮面をつけた姿を思わせる形であることから、一般に仮面土偶と呼ばれるタイプの土偶です。今から約4000年前の縄文時代後期前半に作られました。
土偶は、右足が壊れた状態で出土しました。しかも、割れたときにできた破片のひとつが、胴体の割れ口にはまり込んでいました。 それ以外の破片も胴体内部や右足の内部に入っていました。もし、この破損が埋めている最中か埋めたあとにできたなら、破片は割れたところかそのすぐ近くにあるはずです。これに加えて、出土したときの向きで胴体と足が接合せず、足を90度以上回転させたところで接合することもわかりました。このため、上で述べたように、わざと足を壊して(取り外して)埋めたのではないか、と考えられるのです。
《土偶 合掌土偶》(前2000〜前1000)
ウエブ情報から引用
縄文時代後期後半。年代:約3500年前。 寸法:高さ19.8cm、幅14.2cm、奥行15.2cm。
備考:「合掌土偶」の愛称で知られる。足や腰の割れ目には天然アスファルトを接着剤のように塗った跡があり、修復しながら使っていた可能性もある
《火焰型土器》(前3000〜前2000)
ウエブ情報から引用
縄文時代中期を代表する日本列島各地で作られた土器の一種。 燃え上がる炎を象ったかのような形状の土器を指す。 縄文土器の中でも特に装飾性豊かな土器である。
火焔型土器は殆どが深鉢形土器で、胴部は粘土紐を貼り付けてS字状、渦巻状などの文様を施す。 縄文(縄の回転による施文)による装飾はほとんど見られない。上部には原則として4か所に大ぶりの把手(突起)を付す。 把手は複雑な形状で、粘土紐によって装飾され、把手以外の口縁部は鋸の歯状に形作る。 これらの装飾が何を表したものかは不明だが、全体の形状が燃え上がる炎を思わせることから「火焔型」土器と呼ばれている。 集落内の特定の場所で発見される傾向はなく、またオコゲがついているものも出土することから、煮炊きに使われたと考えられる。しかしその形状から見て何らかの祭祀的な目的に使われることがあったとする考えもある。
十日町市の信濃川右岸段丘上に位置する笹山遺跡からは、1980年~1986年にかけて実施された発掘調査により火焔型土器が出土している。 「新潟県笹山遺跡出土深鉢形土器」57点は1999年、国宝に指定され、火焔型土器が14点含まれている。教科書等に掲載されることの多い代表的な火焔型土器は「縄文雪炎」(じょうもんゆきほむら)と愛称が付けられ、国宝指定品の中でも中心的存在として扱われている。1982年7月8日出土。高さ約46.5センチメートル、最大幅43.8センチメートル、重さ約7.4キログラム、残存率95パーセント。 山遺跡の国宝指定土器は、現在十日町市博物館が所蔵している。
表題の、
『縄文時代の土偶も土器も「凄い」、縄文中期:約5,500年前、後期:約4,700年前、晩期:約3,400年前の、日本列島もの!』
『東アジア文化圏の一部ともいわれるが、でも、縄文文化を東アジア圏の遺跡と比較検証期待! 日本土偶・土器の芸術性は抜群』
に感心して、今後も縄文時代に夢中になっていくようです。
(記事投稿日:2024/08/23、#764)
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