『「暗」から「明」へ反転した「正岡子規死生観・仰臥漫録」』
―子規の時代、感染症の対策(検査・追跡・隔離)は『国民の安全ファースト』と万全を―
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今回は『「暗」から「明」へ反転した死生観・正岡子規「仰臥漫録」をたどる』でした。 有名な作家の大作には、高名な俳人・文学者・文豪が登場します。
『昭和史発掘』と芥川龍之介
松本清張「昭和史発掘」の中に記された「芥川龍之介の死」はすぐれた芥川 龍之介論である。 清張は芥川をこう論じている。 「自分をさらけ出すことの出来ない作家。 自意識の強い男」彼の作品世界はまさにそれであった。
『坂の上の雲』と正岡子規
『旧伊予国(愛媛県)松山出身で、日本陸軍における騎兵部隊の創設者である秋山好古、その実弟で海軍における海戦戦術の創案者である秋山真之、真之の親友で明治の文学史に大きな足跡を残した俳人正岡子規の3人を主人公に、彼らの人生を辿りながら物語が進行する。』
正岡子規と野球
この写真を見た時は、文学と野球の文武両道の『二刀流』と思いましたが、そこまでではなかったようです。
子規は日本に野球が伝わったころから熱心にプレーをしていたといわれています。 しかも、他のスポーツにはまったく興味を示さなかったにもかかわらず、野球だけは夢中になったのだとか。 そんな正岡子規は、このような俳句を詠んでいます。 「まり投げて 見たき広場や 春の草」 春の草が生えてきた広場をみて詠んだ句です。
感銘を受けた『「暗」から「明」へ反転した死生観・正岡子規「仰臥漫録」をたどる』の『抜粋』と感想を備忘録に纏めました。
ウエブ情報より引用
『34年と11カ月と、明治時代、短い生涯の間に、俳句や短歌、文章表現の世界に革新をもたらした正岡子規は、当時、死に至る感染症だった脊椎カリエスに襲われ、寝たきりになる。
死の一年前から書き始めた日記『仰臥漫録』などの行間からは、死が近づくにつれ、「暗」から「明」への死生観の変化が読み取れる。 一体、何があったのだろう。』
『「暗」あの世で古白が呼んでいる』
『子規が亡くなったのが明治35年(1902年)9月19日、そのほぼ1年前の明治34年9月2日から翌年の9月3日まで、『仰臥漫録』と題した日記2冊の中に、死に向かう人間の揺れ動く心理を書き残していた。
明治34年10月13日付けの墨で描いた図だ。 原寸大の小刀と千枚通しが正確に描写され、その上に「古白日来」の謎の墨字が書き込まれている。 「古白」とは子規のいとこで、明治28年に、ピストルで自死した文学者、藤野古白。「日来」は「いわくきたれ」と読む。 つまり「あの世から古白が、おいでーな、と招いている」という意味だ。 自死を暗示する図なのである。』
藤野古白 明治4年8月8日(1871年)-明治28年4月12日(1895年)は日本の俳人・劇作家・小説家。本名・藤野潔。 従兄弟に正岡子規と服部嘉香がいる。 自殺した。没後、正岡子規が『古白遺稿』(1897)
ウキペデイアより引用
『「明」今を楽しむ境地に至る』
『「仰臥漫録の第一部は小刀千と千枚通しの図で終わる。 よほど体調が悪化したためか、10月29日で日記は中断し、翌年の3月10日に再開。 麻痺剤(モルヒネ)を使うようになったことを記している。
余談です。 『脊椎カリエス』の発作時の激痛のこと、鎮痛はモルヒネだけと、本で読んだことがあります。 自分も半世紀も昔のことですが、香港に赴任してすぐに、まだホテル(国泰酒店)住まいの時に、香港大丸の寿司カウンターで食事をした後、夜中の2時頃に、慢性盲腸炎の発作を起こし、ベッドの縁にブル下がった格好で「激痛」に耐えながら、ホテルのマネージャーに状況を説明して「医者(中医でなく西医)とモルヒネを」と頼みました。 モルヒネを打った後は『正に夢心地』で、7時間後の翌朝10時には手術が終了でした。 生涯一度の経験ですが、モルヒネの鎮痛効果は凄いと思いました。
『3日間続けた日記はまた中断。 ところが、彼が明治35年5月5日から死の2日前の9月17日付けまで、新聞「日本」に、書いたコラム「病床六尺」や、水彩で描いた「果物帖」「草花帖」は明るい光彩が放たれ、内面が安定してきたことがはっきりと感じ取れるのだ。
ウキペデイアより引用
例えば「病床六尺」6月2日付け。
「余は今まで、禅宗のいわゆる悟りという事を誤解していた。 悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬる事かと思っていたのは間違ひで、悟りという事はいかなる場合にも平気で生きて居ることであった。」
「病床六尺」7月26日付け。
「病気の境涯に処しては、病気を楽しむということにならなければ生きて居ても何の面白みもない」
「病床六尺」8月6日付け。
「この頃はモルヒネを飲んでから写生をやるのが何よりの楽しみになって居る」 で始まり「草花帖」が段々に描き塞がれていくのが嬉しい」と結ぶ。
根岸界隈を訪ねた日、休館中の子規庵をのぞかせてもらった。 子規が仰臥していた部屋の庭の棚にぶら下がる細いヘチマと黄色いヘチマの花の上に明るい空が広がっていた。
多くの人がコロナ禍の暗いトンネルの中で不安を深めがちだ。 そんな時代だからこそ、子規の「暗」から「明」への死生観の転換に学ぶべきものがあるのではないか。』
コロナ禍の長い・暗いトンネルの中で不安を深めています。 正岡子規の時代、感染症の対策(検査・追跡・隔離)は、『国民の安全ファースト』と万全を尽くしていました。
(20200810纏め #203 )
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