『地形を見ると、歴史が面白い 1 「大阪城vs江戸城」』
『大阪城(半島状の上町台地北端立地で水城の如し)対して、江戸城(凹凸武蔵野台地東端で個々の掘の水面標高差最大15ⅿに苦心!』
縄文時代、上町台地は大阪湾の海に突出した半島でした。 戦国時代の海面は下がっていましたが、満潮時には海流が淀川・大和川の奥まで逆流し、雨が降れば一面水浸しの湿地帯でした。 そういう意味では名古屋城と立地条件が極似しています。 ちなみに浪速や難波という地名は、文字通り海の波にさらされていた場所という意味です。 当時の大阪、摂津地方で唯一この石山の上町台地だけが乾いた高台だったのです。
織田信長が1570年から11年もの間、一向宗と戦っていたことは有名な話ですが、実は一向宗の本山があったのは大阪の石山本願寺。 現在大阪城が建っている場所でした。 石山とは大阪市中央区の上町台地を指し、そこには本願寺の総本山があったのです。
さて、江戸城ですが、
なんでもランキングする昨今ですが、世界中の難攻不落と呼ばれる機能美溢れる城郭や城塞を歴史上の防御実績をもとに、ランキングした情報がありました。
トップ10の中に、大阪城6位と、熊本城9位が入っていました。 最大規模の江戸城がこのランキングに入っていないのは、江戸城は築城以来一度も『城攻め』されてないことが理由でしょうか。
『大阪冬の陣で城は淀川を堰き止め、水城のようにしたが、徳川方に堰を破壊され、さらに上町台地北端の大阪城天守閣に大砲を撃ち込まれ落城!』
ウエブ情報から引用
秀吉の文禄堤
大坂城の水没防御策、今回は「大坂冬の陣について新事実が分かった」と千田嘉博氏が大活躍している。 その新事実とは秀頼がとった大戦略。 大坂城は水没防御策をとったというのである。
その方法とは淀川の堤防を決壊させて、大坂城下を水浸しにするという方法。籠城戦の場合、完全に囲まれることで回りからの補給を断たれるという問題が生じるのだが、城下を水浸しにすれば、敵はそこに陣を置くことは出来ず完全包囲が出来なくなる。
では実際に淀川の堤防を決壊させた場合にどの程度の浸水が起こるかを、地形データに基づいて、古気象学によって導き出した当時の降雨のデータを組み合わせることによって推測している。 その結果として判明したのは、大坂城の北から東にかけての地域でかなり広範囲に浸水が起こり、その水深は2メートルにも及ぶというものである。 こうなると滞陣はおろか攻め込むことさえ不可能となる。
寄せ手が攻めあぐねると長期戦は必死。 そうなると大軍である徳川軍はやがては秤量などにも事欠くようになる。 それに対して豊臣軍は船を使って外部からの輸送も可能(といっているのだが、実際にこの時に外部から補給を行ってくれる勢力があるのかが私は大いに疑問だが)なので、状況的に徳川を不利に追い込んで有利な条件での講和なども可能となるという読みだという。
この作戦も、家康の百戦錬磨の戦績には対抗できず、淀川の北側から大阪城の天守閣に大砲を撃ち込まれ、淀殿と秀頼が降伏します。
秀吉時代の大坂城を「豊臣大坂城」、徳川時代の大坂城を「徳川大坂城」と言う。 豊臣家は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で敗れ、大坂城とともに滅亡する。 その後、大坂城の地には、新たに徳川幕府によって盛り土され、徳川大坂城が築かれた。 現在見られる 大阪城はこの時の城で、秀吉の大坂城は地下に眠っている。
徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。
築城以来不戦の江戸城は、最後は無血開城
江戸城は武蔵野台地の東端に位置しており、築城には武蔵野台地特有の凹凸地形が活用された。内郭内の高低差が最大25メートルもある。かつては本丸の前まで入江が広がっていて、現在の東京駅や日本橋は「江戸前島」と呼ばれる半島にあった。江戸城は天下一の巨大な城郭となり、城下町は当時世界一の大都会へと発展した。
ウエブ情報から引用
徳川家康が江戸幕府を開いたときから、人口は膨張している。 関東ローム層だから、井戸を掘っても、さして水は出てこない。そこで、神田上水や、玉川上水がつくられた。
玉川上水は、奥多摩・羽村の堰(せき・堤防)から延々と水を引いてくる。
基本的な考えは、現在の水道管と同様に、木樋(もくひ)や石樋を地下に埋め込み、上水を引いているのだ。
豊臣大阪城 vs 徳川大阪城(西国外様大名に備えたか、浪速っ子に見せた?)
秀吉時代の大坂城を「豊臣大坂城」、徳川時代の大坂城を「徳川大坂城」と言う。 豊臣家は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣で敗れ、大坂城とともに滅亡する。 その後、大坂城の地には、新たに徳川幕府によって盛り土され、徳川大坂城が築かれた。 現在見られる 大阪城はこの時の城で、秀吉の大坂城は地下に眠っている。
徳川幕府は「大阪城」を再建する際、豊臣時代の石垣に盛り土を施し、地下に埋めてしまい、その上に建造するという荒行を行いました。 淀川など河川の整備を行う際に出た土などを使用したと言われています。 その後、地下に豊臣時代の名残があることは忘れ去られてしまいました。
ウエブ情報から引用
江戸城の豪華で巨大な天守閣が復元されない限り、日本人は豪華で巨大な大阪城の天守閣に魅せられる続けることでしょう。 江戸城天守閣再建は以前話題になりましたが、また立ち消えました。
(記事投稿日:2024/11/24、#979)
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