『山の正倉院・高野山が焼き討ちを避けられたのは、明智光秀の本能寺の変』
『高野山の宝物を拡充させ、後世に残せたのは、豊臣秀吉の功績』
歴史には『タラ・レバ』はありませんが、正倉院の宝物の管理・維持の歴史の凄さには驚いていました。 さらに最近分かったことですが、『山の正倉院・高野山』の歴史には、信長・光秀・秀吉等の歴史上の千両役者が絡んでいることに驚きました。 もともと、歴史上の大巨人と尊敬してやまない『空海』との関連で記憶してきました。
高野山霊宝館(こうやさんれいほうかん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある博物館相当施設。 財団法人高野山文化財保存会が運営している。 国宝21件(4,686点)、重要文化財142件(13,884点)、和歌山県指定文化財13件(2,850点)を含む約50,000点が収蔵されている。
ウキペデイア情報から引用
国宝 阿弥陀聖衆来迎図 有志八幡講
ウエブ情報から引用
沿革
1910/01/20、宿老会で宝物館の建設が決定された。高野山霊宝館の建物は1920/09/30に竣工し、翌1921/05/15開館。 初代館長には金剛峯寺座主の土宣法竜が就任した。
- 1967/09/16 – 財団法人高野山文化財保存会が設立され、高野山霊宝館がその管轄下に置かれる。
- 1961/05 - 当時日本最大とされた「高野山大宝蔵」が完成。
- 1984/04/02 - 新収蔵庫完成。
- 1998/09/02 - 高野山霊宝館紫雲殿、玄関・北廊・中廊、放光閣、南廊及西廊、宝蔵が登録有形文化財に登録される。
- 2003/06/30 - 平成大宝蔵完成。
収蔵品 国宝
絵
- 絹本著色仏涅槃図 1幅(金剛峯寺)
- 絹本著色善女竜王像 1幅(金剛峯寺)
- 絹本著色五大力菩薩像(金剛吼、竜王吼、無畏十力吼)3幅(有志八幡講)
- 絹本著色阿弥陀聖衆来迎図 3幅(有志八幡講)
- 絹本著色阿弥陀三尊像 1幅(蓮華三昧院)
- 絹本著色勤操僧正像 1幅(普門院)
- 絹本著色伝船中湧現観音像 1幅(龍光院)
- 紙本著色山水人物図 10面 池大雅筆(遍照光院)
彫刻
- 木造諸尊仏龕 1基(金剛峯寺)
- 木造八大童子立像 6躯(附指定2躯)(金剛峯寺)
書跡典籍・古文書
- 聾瞽指帰(ろうこしいき)(金剛峯寺)
- 金銀字一切経 4,296巻(金剛峯寺)
- 法華経 巻第六 1巻(金剛峯寺)
- 宝簡集・続宝簡集・又続宝簡集 全298巻15冊(金剛峯寺)
- 紫紙金字金光明最勝王経 10巻(龍光院)
- 大字法華経 7巻(龍光院)
- 細字金光明最勝王経 2巻(龍光院)
- 不空羂索神変真言経1巻(三宝院)
- 文館詞林残巻 12巻(正智院)
- 文館詞林残巻 1巻(宝寿院)
工芸品
- 沢千鳥蒔絵小唐櫃(さわちどりまきえこからびつ) 1合(金剛峯寺)
比叡山と高野山に対する信長の対応はウエブ情報が参考になります。
高野山という「山」はない! 高野山といえば、名前に「山」がついているので、山のイメージを持っている人も多いかも知れませんが、実際は「高野山」という山があるわけではありません。 一般的に「高野山」とは、和歌山県の紀伊山地の一部で、およそ1,200年前に弘法大師「空海」が高野山を切り開いた、日本に広めた真言密教発祥の地として有名です。
織田信長の残虐な比叡山延暦寺の焼き討ちですが、宗教に対する否定ではなく、宗教を隠れ蓑にした権力の悪利用と堕落した世俗まみれとなった僧侶に対する嫌悪、信長に対する敵対行為に対する行為だったと解釈できます。
織田信長が侵攻していた高野山では?
織田信長が高野山を攻めたのも、前述の比叡山延暦寺と同様、武将同士の戦さの落武者を高野山が庇い、信長の要求に対して応じなかったことが原因です。
高野山を攻めるきっかけとなったのは、信長の家臣であった荒木村重が、交戦中であった石山本願寺に内通し、居城の有岡城に篭ってしまい、信長の説得を拒否したうえ、逃走した荒木と側近の数名を高野山が匿います。
比叡山延暦寺の焼き討ちが起きた状況と酷似していますが、織田信長の使者を高野山が殺害したために、出兵して捉えた高野聖や僧侶たちを処刑しています。
しかしながら、高野山は人質をあっさりと引き渡し、織田信長との対話を継続したために、延暦寺のような焼き討ちという結末にはならなかったようです。
とはいえ、本能寺の変で織田信長が自害に追い込まれていなければ、高野山の運命も変わったかもしれません。
織田信長が対立した寺社勢力とは?
織田信長による延暦寺の焼き討ちは、その残虐な結果から魔王的な戦国武将のイメージが信長に残っていますが、実のところは、敵となった相手に対する戦国武将の攻撃だったといえます。
天下統一に向けて、織田信長は既得権益を排除しようとしていたと考えられ、政治や軍事力を備えていた寺社勢力を毛嫌いしていたこともあり、自身への敵対行為に対する処罰を与えた結果が延暦寺の焼き討ちであり、高野山への攻撃もキッカケは延暦寺と酷似していますが、その経過が異なります。
高野山への攻撃の本当の結末は、織田信長の本能寺の変での自害によって、焼き討ちとはなっておらず、信長の墓が高野山奥の院にあることも因縁を感じさせます
京都に行くときは、よく比叡山にお参りしました。 今までに、高野山のお参りは一度だけだった思います。 今回は高野山霊宝館(山の正倉院・高野山が新たな発見でした。 目下のターゲット『出雲』の行きかえりにはお参りをさせて頂きます。
(記事投稿日:2022/02/15、#477)
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