『武家政権を京都で創始した初代征夷大将軍足利尊氏と室町幕府』
『古代の邪馬台国・出雲・大和、と室町・南北朝時代で調べて天皇制の理解を』
『日本史上の幕府のうち、鎌倉幕府の鮮烈さ、江戸幕府の堅牢さに比較し、その間の室町幕府は地味で安定しない印象が、否めず?』
『明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。』
日本史の中で、南北朝・戦国・安土桃山時代へと、続く重要な時代にもかかわらず、最も難解だったのが『室町時代』! 理由は後醍醐天皇と足利尊氏を理解することの難しさでした。
南北朝時代の天皇系図(両統迭立で始まり最後は両統鼎立で終焉に)
両統迭立;鎌倉時代後半、後深草天皇系(持明院統)と亀山天皇系(大覚寺統)の両統から交互に皇位につくとされた皇位継承の原則。
ウエブ情報から引用
足利尊氏家系図(地味で不安定な室町幕府は意外に長く230年)
ウエブ情報から引用
室町幕府は1336年11月、足利尊氏が幕府の基本的法令となる「建武式目」を作成した時から始まり、3代将軍義満が、京都の室町に「花の御所」と呼ばれる大邸宅を造り、そこを中心に活動するようになったので、室町幕府と呼ばれ、1573年、15代将軍義昭の時に滅亡します。
一方、室町幕府の成立は1338年。 足利尊氏が征夷大将軍に任じられた事によって成立したと見られています。 1333年の鎌倉幕府の滅亡から5年後の事。 尊氏は、はじめ後醍醐天皇を助け、鎌倉幕府を倒すことに尽力しますが、後醍醐天皇による建武の新政が武家勢力を排斥したことから離反、自ら武家政権の樹立をめざします。
鎌倉時代は、初の武家政権とも言われますが、それ以前の政治体制を全否定した革命政権ではなく、多分に旧勢力と並存するバランスの上に成り立っていました。 その二元性から、朝廷一元化を目指したのが後醍醐天皇であり、武家一元化を目指したのが足利尊氏と言えます。
しかし、室町幕府の始まりの時期は、将軍家である足利氏そのものが一枚岩ではありませんでした。 幕府の発足直後に発生した『観応の擾乱』において、尊氏・直義兄弟による骨肉の争いが幕府方を二分してしまいます。 また、後醍醐天皇が開いた南朝の勢力が奈良の吉野を中心として全国に存在しており、政権が安定するには3代将軍、足利義満の時代を待たなければいけない状況でした。
室町幕府は不安定な状態が続いたのは、足利義満の時代に最盛期を迎えた室町幕府でしたが、その統治は不安定な状態が続く傾向にありました。 室町幕府が不安定だった理由、守護大名の力が強かったのです。
鎌倉時代の守護は、赴任した土地の軍事を司る存在だったのに対して、室町時代の守護は南北朝時代の混乱を通して、その領地の政治までも担う存在へと成長。 このため、幕府はその領地は守護を通して支配する他なかった。
力を持ちすぎた守護大名を幕府が討伐し、三管領(細川・斯波・畠山)や四職(赤松・一色・京極・山名)といった制度を創設して、有力大名を相互に牽制させ、結局は有力守護大名の連合政権のような不安定な政権運営を続けた。
財源の問題、室町幕府の収入は足利家の所領であった『御料所』に依存していたのですが、この直轄地が少なく、また日本各地に点在、金額は決して多くなかったは。 また、将軍家の直轄軍である『奉公衆』の数も1万人前後と、圧倒的な軍事力を持っていなかった事も、室町幕府が不安定だった要因。
興味の尽きない足利尊氏と室町幕府と時代、今後の勉強のために、ウエブ情報の抜粋と引用を備忘録にしました。
室町幕府が滅亡した3つの原因
①直接の原因は、1573年に織田信長が将軍・足利義昭を京都から追放した事。 ただし義昭は毛利家が治めていた備後国に移り1588年まで将軍として在位していたため、この年を室町幕府の滅亡年とする見方もあります。
②間接的な原因としては、1467年から10年間に渡って続いた応仁の乱の影響も見逃せません。 この戦争によって足利将軍家は二つに分かれただけでなく、結果として幕府やそれを支えていた守護大名の衰退も、室町幕府が滅亡した大きな原因。
③1493年に勃発した明応の政変、この出来事は、10代将軍であった足利義稙を管領であった細川政元や、前将軍足利義尚の母親であった日野富子がクーデターによって廃嫡し、11代将軍に足利義澄を就任させた出来事です。 こうした足利将軍家の内部分裂が、信長が1568年に足利義昭を上洛させる前には見られました。
室町幕府の始まりや不安定だった理由、そして滅亡の原因は、吉野の南朝の存在や観応の擾乱の勃発、滅亡の原因として挙げられる応仁の乱や明応の政変でも、将軍家が二つに分かれる状態が続いた室町幕府。 こうした失敗を学んだ徳川家康は、幕府の直轄地を増やし、大名統制においても抜かりありませんでした。
足利尊氏について
【北条氏への不信】
1331年、父の貞氏の服喪中の尊氏は、執権の北条高時から笠置討伐の命を受け、上方に向かいます。 笠置は簡単に落ち、後醍醐天皇は隠岐に配流されました。
それから2年後の1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出して伯耆で兵をあげます。 その時尊氏は病気にかかっていましたが、またも出征の命を受け、北条高家とともに伯耆に向かうことになりました。
2度の事情を顧みない出征命令に、尊氏は北条氏に異心を抱いたといいます。1333年4月、尊氏は北条に対し公然と反旗を翻し、人質の妻子を鎌倉から脱出させます。 翌5月、尊氏は六波羅探題を攻め落とし、新田義貞は鎌倉を陥れ、北条氏が政権を担っていた鎌倉幕府が滅びました。
【建武の新政】
政権を獲得した後醍醐天皇は、まず内裏の造成に取り掛かります。 税を課したため民心を失い、恩賞は公家に重く武家に軽くしたため、武士たちを失望させました。 この時尊氏は、諸国から到着する武士の名を帳簿にとどめ、その労をねぎらい彼らの心をつかみます。 1336年、建武の新政に不満を持つ武士の集団を率いて、尊氏は入京します。そして後醍醐天皇を追い落とし、政権を奪取しました。
【室町幕府】
尊氏は、持明院統の光明天皇を擁した後、施政方針として17条からなる建武式目を制定し、武家政権の基本姿勢を示しました。そして1338年、征夷大将軍に任命されると、弟の直義とともに政権を主導します。
尊氏は恩賞の給与や軍事指揮といった武士の統率者としての権限、直義は裁判、本領安堵といった統治者としての権限を持っていました。
【観応の擾乱】
尊氏、直義兄弟によって運営された二頭政治は争いの時代を迎えます。その争いが激しかった時期が観応年間(1349年~1352年)であったことから「観応の擾乱」と呼ばれています。ちなみに擾乱とは内紛のことです。
1349年、足利家の家宰である高師直(こうのもろなお)が、直義の排除を尊氏に求めます。 尊氏はこの要求を入れ 、直義は政務を返上、直義派の上杉重能と畠山直宗は殺害されました。すると直義の養子、直冬が九州で一大勢力圏を打ち立てます。 これを討つために尊氏、師直が進発しますが、その留守中に直義は京都を脱して大和に入り、南朝に接近して尊氏追討の宣旨を得るのです。ここで兄弟の対立は決定的になります。
数度の決戦で尊氏、師直は敗れ、師直、師泰兄弟は上杉重能の養子、上杉能憲に殺害されました。 高一門の滅亡で直義の執政が再開されますが、その半年後、身の危険を感じた直義は京を出奔して鎌倉に入ります。 尊氏は南朝と講和を結び、自ら駿河まで出陣し、勝利しました。 捕縛された直義はその後死亡しますが、毒殺されたともいわれています。 一方、九州にいた直冬の勢力は、西中国に活動の場を移しました。1353年に南朝から尊氏の息子、義詮追討の綸旨を得ます。直冬は京都に入り、尊氏、義詮軍と戦いますが敗れて敗走。これにて観応の擾乱が終わりました。
【尊氏の死】
1358年4月、尊氏は京の二条万里小路の館で亡くなりました。死因は悪性の腫瘍だったといわれています。
武家文化の発展
【北山文化】
室町幕府の全盛期であり、文化の栄えた3代将軍義満から、その子義持の代にかけての約半世紀を、義満の弟にちなんで北山時代といい、その文化を北山文化といいます。 北山文化の代表的なものとして、北山第にある金閣が挙げられます。公家社会の阿弥陀浄土信仰、鎌倉時代から交流した禅宗信仰をひとつに融合した構造は、将軍と公家、禅宗との融合を表していて、まさに北山文化を象徴する建造物でした。
義満は能の大成者となる、観阿弥、世阿弥親子を支援します。 世阿弥は貴人の好みに合うように、能を大成させました。 彼の理念とした「幽玄」は、情緒的、ロマン的な余剰を漂わせることでした。
【東山文化】
東山時代は、8代将軍足利義政が1443年に将軍についてから、1490年に亡くなるまでの約半世紀のことで、この期間の文化を東山文化といいます。 この時代は一揆が頻発し、京都では「悪党」と呼ばれる不満分子の跳梁、また全国では守護大名に分裂が起こり、やがてそれは応仁の乱を引き起こすことになるのです。 義政はこの社会情勢に目を向けることなく、東山山荘の造営に力を入れます。 山荘の中心は銀閣と東求堂です。 銀閣の完成は義政没年の前の年で、銀を塗る計画は間に合いませんでした。
東求堂は寝殿造りと書院造を含む構造で、義政はここにこもり、美術品のコレクションに励みました。この蒐集品を東山御物といいます。 東山時代には、禅の精神を融合させた侘茶や、生け花が創出されます。 また造園法では「枯山水」という岩と白砂で自然を表現する作庭がおこなわれました。竜安寺の石庭や、大徳寺大仙院庭園が有名です。
室町幕府を創った兄弟の争い
観応の擾乱とは、室町幕府創世記に起こった、足利尊氏とその弟直義の争いのことをいいます。 後醍醐天皇を追い落としてから始まった室町幕府ですが、当初は尊氏、直義の職務を分けた統治がうまくいっていました。 彼らは同腹の兄弟です。 それが一転、家臣や息子を巻き込んだ戦いは、互いに復讐合戦の様相を見せ、泥沼化していきます。
中公新書から『応仁の乱-戦国時代を生んだ大乱』という大ベストセラーがあります。 本書とあわせて読むと、室町幕府についての理解はよりよく進むでしょう。
足利将軍の政治
室町時代の寺院や大規模建築の造営をとおして、時の政治や朝廷との関係がわかります。 その一例として、『大塔』があります。 3代将軍足利義満は報国寺に大塔を建立しましたが、その高さはなんと100mもありました。 父義詮の法要のために建立したといいますが、それ以上に義満の権勢を誇るのに役立ったことでしょう。
大塔(相国寺の大塔、「塔マニア」には魅力たっぷりのアイテム)
金閣寺(北山鹿苑寺)で、室町幕府3代将軍足利義満が建立した「北山大塔」
室町幕府は鎌倉幕府と同様の武家政権から脱却し、公家社会まで支配下におさめるようになります。 そしてその支配は宗教界にもおよびました。 歴代将軍の大規模な法要は、幕府の権威を世に知らしめる場になるのです。 室町幕府の拠点は京都です。 この京都中心の政治が、後に地方の支配がおざなりになり、下克上の要因になっていきます。
暗殺された室町幕府6代将軍義教は、くじ引きで決まった将軍でした。 彼はいかなる政治をおこなったのでしょうか。そしてなぜ暗殺されてしまったのでしょう。 義教暗殺の「嘉吉の乱」までの史実を描きます。 僧から還俗して6代将軍になった義教の政権移行は、たやすいものではありませんでした。 当初は管領や重臣の意見をよく聞き、政策を進めていましたが、しだいに「恐怖の世」といわれるほどの強権政治になっていくのです。
室町幕府は意外にも長く、230年ほど続きます。しかし3代将軍足利義満時代が最盛期で、中期以降は一揆や応仁の乱、それに続く戦国時代など、ほとんど幕府の影響力がおよばない時代になっていきました。
京都に地盤を築いた室町幕府、その影響は、後に群雄割拠する下克上の時代を引き起こします。
昔、歴史教科で教わり、ずっと気になっていた『明治時代に天皇への忠誠心を煽る為に「足利尊氏は天皇に反旗を翻した、不忠の者」と宣伝、江戸時代にも徳川家の正統性を強調するのに利用された。(新規情報でした。)』このことを、これからも調べていきたいと思っています。
(記事投稿日:2023/03/19、#637)
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