『海外の古文書が日本史の謎を解く(手紙・日記等)から解る 2』
『信長の先取性・先見性に、刺激受けた秀吉の無理難題の半島・大陸進攻へ』
『洋の東西でも元は、異なる宗教間、宗派間の戦争、今は政治対宗教の戦争に』
NHKスペシャルのタイトル『戦国~激動の世界と日本~第1集 秘められた征服計画 織田信長×宣教師』を見ました。 島国日本の中世・近世に興味津々、益々調べたくなります。
『キリスト教勢力が世界制覇、信長は石山本願寺をキリスト教で鉄砲を得、キリシタン大名高山右近の力借りた。
聖職者の宣教師たちが なぜ、軍事物資を利用してまで、布教を行っていたのか? その背景にあったのは、世界の覇権を巡る争いで、スペインなど、ヨーロッパの強大なキリスト教勢力に対して、オスマン帝国に代表される、イスラーム教の勢力。
両者が激突し、キリスト教勢力が勝利を収めたのが、1571年『レパントの海戦』。
日本にやって来た宣教師たちは、軍事物資の取引を通じて、天下統一にまい進する信長と、タッグを組んだ。
『レパントの海戦』
ギリシャ西岸のレパント(Lepanto)沖で,スペイン・ローマ教皇・ベネチアの連合艦隊がオスマン帝国海軍を撃破した戦い。
戦国時代 仏教勢力の中心となったのは、大坂の石山本願寺。 信長の、最大の敵となり、10年に及ぶ死闘を繰り広げます。 石山本願寺は、各地の大名と連携し、信長包囲網を形成。 その勢力は 信長軍を、はるかにしのいでいました。
リスボン大学 ペドロ・コレイア
過激な理論だが、改宗は精神を征服すること。つまり心を支配することで、ヨーロッパ型の思想や社会を広めようとした。 『我々には、日本を征服する権利がある。 日本布教長 フランシスコ・カブラル。 信長をキリスト教に改宗させる。 そうすれば日本人を素早く、キリスト教に改宗させられる。 布教の妨げになる仏教勢力を排除し、日本人を改宗させようとしていました。デウス様のみが国を支配する力がある。』
セビリア大学 ファン・ヒル
信長をキリスト教に改宗させることは、信長にとって、それは天下統一のためでした。 キリスト教勢力が力を増すことは、秩序も乱すリスクでもあった。 信長は、仏教勢力に対抗するための駒として、リスクに目をつむっていた。一方の宣教師は、仏教勢力を倒す策を巡らせていました。 聖イグナシオ洞窟教会のレリーフに描かれているのは、キリストの信仰に人生を捧げた人です。 フランスの国王、スペインの総督、日本の右近殿。 カギを握った日本人が描かれていました。 キリシタン大名 高山右近。 右近は 石山本願寺に近い、大坂の摂津の領主。
ウエブ情報から引用
1614年、加賀で暮らしていた右近は、徳川家康によるキリシタン国外追放令を受けて、人々の引きとめる中、長崎から家族と共に、マニラに追放された。
記録によれば、1578年、宣教師は 右近に接触し、苦戦を続ける信長を支援するよう、説得していました。 右近を中心に1万人を超える、キリシタンの援軍を得た信長軍。 最大の敵をついに破り、天下統一へ まい進してゆくのです。
宣教師は 予想を超える、日本の軍事的発展を、驚きをもって記しています。 その最大の変化は、ヨーロッパから伝わった鉄砲。 国産化が進む中、急速な技術革新が生じていました。
昭和女子大学 田中眞奈子
こちらは、国友の火縄銃です。 放射線で透視した銃身の断面を比較すると、海外産と比べ国産は、不純物が均等に分散し、銃身の強度が安定している。 その秘は鍛造と呼ばれる、技法で日本刀の製作で、磨かれたものでした。 弾を発射する時、火薬を大量に詰めても、銃身がゆがむことはなく、その爆発力を弾丸に伝えます。
更に日本では、この進化した鉄砲の大量生産も、進められていました。 堺の町で鉄砲の製造について記された、2万点の古文書が見つかりました。 注目したのは 鉄砲を作っていた職人たちのリスト。 銃身から 台座 火蓋まで、パーツごとに分業制がとられ、鉄砲の大量生産が行われていたと考えられています。 戦国日本にあった鉄砲の数は、30万丁といわれ、世界一の銃大国になったとされています。
宣教師たちは、強大な軍事力を持っている、日本の力は利用する価値がある。 戦国日本をより大きな世界戦略に、組み込もうとしていたのです。 「スペインの征服王と呼ばれた フェリペ2世が、ポルトガルを併合し、巨大な帝国が誕生した。」 当時スペインは 無敵艦隊と呼ばれる、130隻の軍艦を持ち、世界有数の海軍力を、誇りました。
解読が進む宣教師の機密文書。 スペイン帝国に宛てた報告書が、残されていました。
「我々の最大の目標は、明と呼ばれた中国の征服(*)である。 アジア征服のため、日本の軍事力を利用しようとする宣教師。 宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長。 しかし 両者の蜜月は終わりに近づいていきます。」
スペイン帝国に宛てた報告書が、残されていました。
「我々の最大の目標は、明と呼ばれた中国の征服(*)である。 アジア征服のため、日本の軍事力を利用しようとする宣教師。 宣教師がもたらす軍事物資を使って、天下統一を目指す信長。 しかし 両者の蜜月は終わりに近づいていきます。」
明と呼ばれた中国の征服(*)
信長はこのスペインの『明と呼ばれた中国の征服(*)』を知っていたかどうかが興味津々、今後の課題です。 この一見、気宇壮大に見えた秀吉の『「信長の先取性・先見性に、刺激受けた唐・天竺までと、無理難題の半島・大陸進攻へ」』で、豊臣政権の崩壊に進みました。 徳川政権は、鎖国(貿易を管理・統制・制限の)へと転換しました。 ここにも『織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川』の狂歌に尽きます。 徳川を『徳の川』と気遣っています。
(記事投稿日:2022/09/26、#577)
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