知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『古代の日本は・日本人は凄い 4(沖ノ島は日本の歴史の原点!)』『なぜ、この島に国宝8万点’(1件)もあったのか、それも20%の発掘で』

2025-02-28 15:17:45 | 歴史・日本

『古代の日本は・日本人は凄い 4(沖ノ島は日本の歴史の原点)』

『なぜ、この島に国宝8万点(1件)もあったのか、それも20%の発掘で』

『この島の宝物は、「どこから来たのか」、「だれが集めたの か」、「だれが維持保管できたかが分かれば、日本の古代史の、さらなる解明できるはず!』 


沖ノ島は、福岡県宗像市に属し、大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、九州本土から約60㎞、韓国の釜山までも145㎞。

神の宿る島・沖ノ島は、「海の正倉院」との異名を持ちます。 奈良の正倉院には約9,000点もの宝物がありますが、沖ノ島からはなんと約10万点とも言われる宝物が出土しているからです。 そして、そのうちの8万点(1件)が国宝に指定されています。

日本書紀には『天照大神と素戔嗚尊との契約によって、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の宗像三女神嗚尊との契約によって、田心姫神、湍津姫神、市杵島姫神の宗像三女神がお生まれになりました。 天照大神は三女神に対して神勅を下し、市杵島姫神は九州本土の辺津宮、湍津姫神は大島の中津宮、田心姫神は沖ノ島の沖津宮に降り立ち、祀られるようになりました。』とあります。

沖ノ島の国宝は、日本の国宝の数1,125件のうちの1件で、点数は、8万点余になります。 国宝の数は「件数」であって、「点数」ではない。 福岡県・宗像大社所有の宗像大社沖津宮祭祀遺跡出土品約8万点、京都・醍醐寺の醍醐寺文書聖教69,393点、京都府立京都学・暦彩館が保管する東寺百合文書24,067通のように員数の多いものも件数としては「1件」と数えています。 国宝の括り方・纏め方も興味は尽きません。

 

 沖ノ島から出土した国宝「金製指輪」

ウエブ情報から引用

 

沖ノ島から出土した国宝「三角縁神獣鏡」

ウエブ情報から引用

 

昔、日本史より世界史をとったとはいえ、半世紀以上も、日本の歴史に興味を持ってきましたが、縄文時代から弥生時代にかけては、ほとんど勉強してなかったように反省しています。 日本史の中世から近代より縄文時代~弥生時代を勉強すれば、もっと日本を理解できそうな感じがします。

 

沖ノ島

沖ノ島(おきのしま)は、福岡県宗像市に属する、九州本土から約60キロメートル離れた玄界灘の真っ只中に浮かぶ周囲4キロメートルの島。福岡県最北端の地である 。宗像大社の神領(御神体島)で、沖津宮(おきつぐう)が鎮座する。 2017年(平成29年)、「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群の構成資産の一つとして、ユネスコにより世界文化遺産に登録された。

 

その手掛かりを沖ノ島と海人族に;

ウエブ情報から引用

 

宗像大社の線形配置も凄い

ウエブ情報から引用

 

宗像三女神とアマテラス・スサノヲ

「宗像三女神と海人族」ウエブ情報からです。

日本書紀によれば、宗像大社に祀られている神々は、アマテラスの子・3人の娘でした。 この三人の女神は、宗像市にある大社と大島、沖ノ島にそれぞれ祀られ、総称して「宗像大社」があります。この3つは一直線上にならび、玄関灘の海の道として守られています。
宗像市田島「辺津宮」には、三女「市杵嶋姫-いつきひめ」が祀られ、身を清め海にでるという意味を持ち、神に仕えるといわれています。 大島「中津宮」の次女「端津姫-たぎつひめ」は、激しい潮の流れをつかさどりといわれており、
そして沖ノ島「沖津宮」の長女「田心姫-たごリ姫」は、 海上の深い霧をつかさどるといわれています。

 ウエブ情報から引用

 

この沖ノ島の「社」は、実は「沖津宮」でした。「沖津宮」におおいかぶさるように巨大な岩があり、社を取り囲むようにたくさんの巨大な岩が並んでいます。
中には高さ20メートルを超えるものもあるといいます。 全ての巨石が神の霊がよりつくものとされ、神が宿るものとして信仰の対象になってきました。

 

原生林の中にぽっかりと広場があり、そこにはたくさんの古代の土器が無造作に散らばっています。 欠けていない土器も見つかります。 まさに「枯葉をどければ国宝が出てくる」といわれる由縁です。

沖ノ島の発掘は、まだ島全体の20%にも満たないそうです。にもかかわらず8万点の国宝。どれほどの国宝がいまだに眠っているのでしょうか。 沖ノ島では鉄製品の出土がかなりを占めるようです。 鉄の剱に描かれた模様や農耕具から推測して、かなり高度の技術を持っていたようです。

そして沖ノ島は、「宗像海人族」と深い関係があったようです。 「海人族」とは北九州に王国を築いた一大勢力でした。 紀元前1世紀、中国の後漢から金印が贈られているくらいで、まさに先進国だったのです。 「海人族」は海の道案内人のみならず、優れた製鉄という文化も持っていました。

「海人族」は「奴国」滅亡のあと、奈良県吉野で鉱山にたずさわり2万5000人もの人々が暮らす、黄金の都を築いたといわれています。 彼らは莫大な黄金の富と金属加工技術を持つ強力な集団でした。 日本古代最大の内乱・壬申の乱で天武天皇は、この「海人族」の力を借りて勝利したようです。 この沖ノ島は、「海人族」の信仰の対象であり、「海人族」の聖地でもあったようです。 

「神の島」 と呼ばれ、島全体が宗像大社沖津宮の御神体で、今でも女人禁制の伝統を守っている。また、男性でも一般人は毎年5月27日の現地大祭以外は上陸を基本的に認められずその数も200人程度に制限されてきた 。 世界遺産登録に際して、島への接近・上陸対策の強化をユネスコから要請されたため、2018年からは研究者らを除く一般人の上陸は全面禁止とすることを宗像大社が2017年7月に決定した 。 島は時の大和朝廷と朝鮮半島を結んだ海の道「海北道中」の中間地点に位置し、韓国の釜山までも145キロメートルしかない。 元寇後の1297年に編まれた『夫木和歌抄』に「うつ波に 鼓の音をうち添えて 唐人よせぬ 沖ノ島守り」と詠まれており、沖ノ島が神国思想の拠り所として最前線の防波堤の役割を担っていたことがうかがえる。 1885年に作成された『皇国総海岸図』には「御号島」と記載される。 無人島であるが、現在は宗像大社の神職が10日交代で派遣され、常時滞在している。

エジプト考古学者の吉村作治が提唱し、九州全土、特に宗教地方を中心に沖ノ島を世界遺産にする運動が行われ、2009年に「宗像・沖ノ島と関連遺産群」(現在の名称は「『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群」)の構成遺産の一つとして世界遺産暫定リストに追加掲載され、2016年受理された。

 

これからは、日本人のルーツを少しでも理解できるように、縄文から弥生時代を勉強します。

      (記事投稿日:2021/02/13、最終更新日:2021/03/12、#286


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