『日本は凄い・日本人は凄い (石舞台古墳、天皇家と蘇我一族)』
『蘇我入鹿は影の天皇とまで!(系図は稲目―馬子―蝦夷―入鹿)』
『更に凄い系図、孝元天皇・・武内宿祢・・蘇我満智・・蘇我高麿―蘇我稲目』
今こそ『頑張らなければいけない、日本は・日本人は』ですが、やはり『古代日本は凄かった・古代日本人は凄かった』特に縄文人は、それに続く天皇家と蘇我一族についても知りたいことが沢山あります。
古墳時代では、古墳が権力の象徴のように見えますが、最近は、形と大きさだけで、権力の大きさ、判断はできないことが分かりました。 先ずは蘇我馬子の石舞台古墳です。 本来なら石室の上に土盛りがされていますが、今は石室の上部が出ており、石舞台などと呼ばれていますが政敵にあばかれたものです。 日本史上、最大の石室を持った蘇我馬子古墳を再現して頂きたいとものです。
先ずは、77トンと、60トンの石材を天井石に積み上げた、石舞台古墳・蘇我馬子古墳を、初めて見た時、特に石室内部を見上げた時には、その構造に驚いた記憶があります。
石舞台古墳全景
ウキペデイア情報から引用
石室側面
ウキペデイア情報から引用
石室出入口
ウキペデイア情報から引用
石室内部
ウキペデイア情報から引用
日本史には、弥生時代と飛鳥時代の間に、世界でも珍しく古墳時代と呼ばれた時代がありました。 古墳時代は、3世紀中頃 ~ 7世紀頃ですが。 およそ16万基は建設されたようですが、当時の日本の人口は500~600万人ですので、この古墳建設のエネルギーはどこから来たものか、楽しみな今後の課題です。 古墳と蘇我一族の凄さを少し調べました。
古墳の時期区分
時期 前期 中期 後期
3世紀後半 4世紀末 5世紀末
~4世紀後半 ~5世紀後半 ~7世紀
分布 近畿中央部 近畿中央部から 全国に拡大
各地へ
形態 近畿中央部は大規模な 前方後円墳巨大化 近畿中央部は大規模な
前方後円墳 周囲に堀や陪塚 前方後円墳
内部 竪穴式石室 竪穴式石室 横穴式石室が
構造 粘土槨・木棺・石棺 木棺・石棺 全国に普及
実例 ホノケ山古墳 大仙陵古墳 石舞台古墳
(奈良県) (大阪府) (奈良県)
箸墓古墳 誉田御廟山古墳 藤ノ木古墳
(奈良県) (大阪府) (奈良県)
主な ヤマト政権成立 5紀の初めから 527年 磐井の乱
出来事 約1世紀の間、
倭の五王が中国の
に朝貢
391 倭軍が百済・ 592年 推古天皇即位
新羅を破る
石舞台古墳;権力者・蘇我馬子(墓説)は前方後円墳ではなく方墳
箸墓古墳(奈良県):卑弥呼の墓と推定されるが、邪馬台国北九州説?
磐井の乱;磐井の乱は、527年に朝鮮半島南部へ出兵しようとした近江毛野率いる大和朝廷軍の進軍を筑紫君磐井がはばみ、翌528年11月、物部麁鹿火によって鎮圧された反乱、または王権間の戦争。
日本の古墳の形は大きく分けて前方後円墳、前方後方墳、円墳、方墳の4つに分類されます。 古墳時代は大和政権により墓制(埋葬の風俗・風習)が敷かれていてこの中で最も高いランクに位置付けられていたのが前方後円墳です。 前方後円墳は3世紀中ごろに成立した形で大王やその一族、大和政権と密接な関係の地方の有力首長が埋葬されています。 前方後方墳は3~4世紀に流行した形でルーツは東海地方西部と言われています。
前方後円墳は3世紀ごろから造られ始めて5世紀には岩手県から鹿児島県までに広まっていきます。 そして前方後円墳は7世紀初め頃には造られなくなります。 大きさは墳丘長、10mのものから数百mのものまであります。
大阪府大山古墳(仁徳陵古墳)の大きさは墳丘長、486mもあって面積ではエジプトのクフ王のピラミッドよりも大きいのです。
身分の差と時期によって異なる古墳の種類 ウエブ情報から引用
古墳は、時代によって築造された、その形状が異なる。 前方後円墳や前方後方墳は古墳時代の初期から見られ、後期にあたる6世紀まで築造されていた。また帆立貝(ほたてがい)式古墳は、前方後円墳の変形あるいは円墳の変形であるが、5世紀を中心に築造されたものであった。 円墳と方墳は初期から古墳時代の終末期である飛鳥時代まで続くものである。 ちなみに最も多い形は円墳であり、全国に20万基ともいわれる古墳のほとんどを占める。
その他には、数が少ない特殊なものがいくつかあげられる。双方中円墳(そうほうちゅうえんふん)は前方後円墳の変形で、前方後円墳に方の段が取り付いたものであり、前期に見られたもの。一方、双円墳(そうえんふん)には後期の例がある。上円下方墳や八角形墳は時代が下った7世紀代に見られる形で、八角形墳は天皇陵と見られるものであった。
蘇我一族の系図
(日本史を選択せずとも知っていたこの系図、稲目―馬子―蝦夷―入鹿)
ウエブ情報から引用
政権争いの結果、政敵に破壊されてもこれだけ残った別名『石舞台』の巨石の方墳墓、大化の新政権は蘇我宗本家の旧政権否定から始まり、飛鳥京の上方部の馬子の巨大墳墓の破壊から開始された。
蘇我馬子墓、『説』、と言われるが三重中京大学のコンピュータ―画像解析で、石室内部の羨道の玄門上部に、馬と子の字の半分が読めた。大宝律令条文にも、『墳墓には碑文を立てよ』とある。
欽明天皇(571年2月没)の円墳が先で、蘇我馬子(626年5月没)は後で方墳。 これも馬子墓説の裏付けの一つ。 著名の考古学者曰く、『歴史に確実はないが、定説でいえば、・・・』、とあり、これは蘇我馬子の墓が確実に近い、定説と言えそうです。 蘇我一族の祖先の渡来人説調査は楽しみな課題です。
(記事投稿日:2022/11/20、#602)
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