知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

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『悲劇の二代目(秀頼は秀吉の実子か? などとは詮索しない時代があった)』―戦国大名が子孫繁栄を継続するには、正室と、大勢の側室に大勢の子供を―

2024-09-06 17:05:58 | 歴史・日本

『悲劇の二代目(秀頼は秀吉の実子か?などとは詮索しない時代があった)』

『戦国大名が子孫繁栄を継続するには、正室と、大勢の側室に大勢の子供を』

  豊臣秀吉の子宝に恵まれなかったことは記録残っています。 愛した女性と言えば、北政所や淀殿が有名ですが、全員を合わせると20人ほどの側室がいたそうです。 公家や大名等の名門出だけでも13人もおりました。 手を付けた女性や、妻たちのお世話をする女性を含めるとかなりの数になり、『日本史』を著したルイス・フロイスの目には300人もの愛人がいるように映っていました。

 

天下統一を成し遂げた男は、どんな女性を愛したのでしょうか。 正室、北政所には実子はありませんでした。 又、秀吉の側室になる前には子をなした例や、側室では子に恵まれず、秀吉の側室の後で嫁いだ先では、子をなした例は多々ありますので、秀吉本人は子宝にはあまり恵まれなかったようです。

 

茶々が秀吉の側室になったと言われるのは1587年ころ。 この時1537年生まれの秀吉は50歳。 1569年生まれ(説)の茶々は18歳。 32歳の年齢差の二人には、親子以上の年齢差があります。 しかし、側室を幾人も置いた当時としては、珍しいことではありません。 たとえば1543年生まれの徳川家康の側室の一人である「お六」は、1597年生まれであり、その年齢差は54年でした。

 

側室淀殿は、天正17年(1589年)、捨(鶴松)を生む。この懐妊を喜んだ秀吉から山城淀城を賜り、以後「淀の方」と呼ばれるようになった。 鶴松は天正19年(1591年)に死亡するが、文禄2年(1593年)に拾(秀頼)を産み、秀吉の死後は秀頼の後見人として政治に介入して大蔵卿局・響庭局らを重用して豊臣氏の家政の実権を握った。

 

16113月、徳川家康は61歳、身長160㎝弱(当時小柄ではない)」は、成人した豊臣秀頼を、京都二条城に、呼び会見し臣下の礼をとらせた。 秀頼18歳、身長190㎝前後鎧・具足や衣類から推量、それにしても大きい、宮本武蔵より大きい)の、美丈夫・偉丈夫であった。

この秀頼18歳、身長190㎝前後の美丈夫・偉丈夫の血筋は;

    織田信長       大伯父 身長170㎝前後(鎧・具足から推量)

    信長の妹お市の方   祖母  身長165㎝前後(衣類から推量)

    浅井長政       祖父  身長180㎝前後(鎧・具足から推量)

豊臣秀吉       父   身長150㎝前後(鎧・具足から推量)

淀君         母   身長168㎝前後(衣類から推量)

 

大野治長 淀君の乳母の息子  身長170㎝前後(鎧・具足から推量)

 

秀頼の祖父母、母も偉丈夫です。 更に、噂というか、本命とも思える大野治長も、当時としては大きい方です。

 

さて、二条城での家康と秀頼の会見ですが、関白の子だから、帝王(公家)教育を受けており、家康に堂々と臣下の礼をとった。 家康の驚きは、いかばかりであったか。 これを引き金に、家康の『鳴くまで待とうホトトギス』が実践され、75歳まで、15年かけて、外様大名を手なずけ、豊臣家を滅ぼした。 『外堀を埋める』の意味が二つ、❶豊臣側大名の離反、➋天下の堅城、大阪城の外堀どころか内堀まで埋めた。 

 

徳川家康               豊臣秀頼

1542誕生              1593年誕生、秀吉57歳のとき

1603征夷大将軍 61

1605征夷大将軍退位 63

1611二条城で秀頼と会見 69歳    18

 

「秀吉を父とする子」を産んだのは、晩年に側室になった淀殿ただ一人。

 歴史学者の服部英雄九大名誉教授は2012年刊行した『河原ノ者・非人・秀吉』で、長男の鶴松はもちろんのこと、次男の秀頼の父親が秀吉ではないと断言しています。

 こんな歴史の秘密がつい最近まで封印されていたのです。 最初に確認しておきたいが、秀頼の父親が秀吉である確率は、医学的にいえば限りなくゼロなのである。 この二人の組み合わせのみに、それほど都合よく子どもができるものなのか。 秘密があるとみるべきだろう。 秀吉との間では子ができなかったが、別の男性との間ならば子を産めた女性が少なくとも三人は確認できる。

 

 また、又一説には、秀頼の誕生日から、逆算すると、秀吉が朝鮮出兵で九州の名護屋城にいた時に、淀殿が名護屋城に同行していなければ、秀頼を身籠ったことは計算が合わないと言われており、その同行していた記録が現在まで見つかっていない。 

 

 戦国大名が、二代、三代・・・と繁栄を継続するには、正室には勿論のこと、大勢の側室に大勢の子供を授かることができる『精力絶倫』であることが必要な・重要な条件になるようです。 実子かどうかなど悩むこともないようです。

              (20200622纏め、20210131追補、#207


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