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『金(ゴールド)の不思議と、人の歴史と、英雄たちのこだわりと、』 『欧州では「金産出はほとんどなく」にもかかわらず、宮殿の壁・天井にまで金で、飾られて金ぴか宮殿が、なぜ?』

2023-06-21 18:18:25 | 歴史・世界

『金(ゴールド)の不思議と、人の歴史と、英雄たちのこだわりと、』

『欧州では「金産出はほとんどなく」にもかかわらず、宮殿の壁・天井にまで金で、飾られて金ぴか宮殿が、なぜ?』

 

先ずは、金のことについて再確認です。金は、光沢ある黄色の金属。酸に侵されないが、王水には溶ける。王水は濃塩酸と濃硝酸との混合液で、金や白金を溶かすので王水と呼ぶ。だが何と言っても金は貴金属中随一とされ、宗教の世界もこれを最高の存在になぞらえる。仏教では仏の体を金山といい、仏の言説を金口という。古代ギリシャの詩人ピンダロスは『金はゼウス神の子、染みも錆も金を滅ぼすことはない」とうたった。英語goldはサンスクリットの〈輝く〉という意味の語に由来するとされ、金はまた権力や富の象徴ともされ、古代エジプトのツタンカーメン王の黄金の棺や、古代中国の錬金術師たちの存在が、これを物語っています。

 

世界の金の歴史

人類は、紀元前の古代から「金」の放つその圧倒的な輝きに惹かれ続けてきました。それは「権力の象徴」でした。また金はその輝きや長く続く美しい品質から「不老不死」の象徴として、権力者にとって「お守り」や「魔除け」の意味も持っていました。

 

紀元前6000年頃 人類と金の歴史の始まり

人類と金との歴史が始まったのは、紀元前6000年の昔、チグリス川とユーフラテス川の辺りにあった『メソポタミア』で文明が栄えていた時代まで遡ります。謎に包まれた部分も多いシュメール人ですが、『「アヌンナキ (Anunnaki)」は金を採掘するために別の星から地球に来た』と粘土板に残しています。

メソポタミア

エジプトに比べて、メソポタミアの黄金について知られていることは少ないが、紀元前四千年紀(前4000~前3001年)のウルの時代から、金が使われていたと推測されるし、紀元前三千年紀の半ばのものと考えられる、サー・レナード・ウーリ(1880~1960)が発掘した「ウルの王墓」からは、優れた金細工が出土している。

 ウエブ情報から引用

アヌンナキ (Anunnaki)

アヌンナキは パンテオンでも最も強力な神々で、天空の神アヌと大地の女神キの子孫であり、人間の運命を司った。

 

紀元前3100年頃 古代エジプトと金

古代エジプトでは金の所有量が国の繁栄を左右するほど、金は国家にとって重要なものだったのです。エジプト王朝と言えば、紀元前1300年ごろに作られたツタンカーメンの棺やマスクを思い浮かべますが、そのマスクは王の威光と国家の繁栄の象徴として、23金(純度95.8%)と言う非常に純度の高い金を使って装飾がされ、さらに棺にも約100キロを超す量の金が使われています。その時代、金はその希少価値から特に高貴な存在であったファラオのみが装飾として利用することを許されていました。 

ツタンカーメンの墓からは、他にも2000点以上ものの、金や宝石を使った装飾品が発見されていますが、中でもこのマスクはその歴史的な価値も含め時価300兆円とも言われています。エジプトは特に、「太陽信仰」が行われていたため、光輝く金は太陽神ラーの一部と考えられていました。そのため、宗教儀式やファラオのみが使用出来ていたのです。

ウエブ情報から引用 

絶対的な立場を持つ者以外は基本的に所持しないものとされましたが、資産としての金塊「インゴット」は古代エジプトで既にあったようです。今はインゴットといえば延べ棒ですが、古代エジプトではドーナツ型であり、またそれが金を表す象形文字としても残っています。 

神聖視されていた金は国家によって徹底管理され、一般市民はかけらを持つことも許されていませんでした。

当時の金採掘は、川でザルを用いて砂金を集める「パンニング」で行われており、1人が集められる量はごくわずかなものでした。この膨大な労力を考えても、当時のエジプト王朝が絶大な権力を保持していたことがよく分かります。

 

12~13世紀|中世ヨーロッパと金

ヨーロッパには銀鉱山はあったものの、金産出はほとんどなく、他国からの輸入に頼っていました。大航海時代になって、他国との交易が盛んになると、金は、身分の高い人物を飾り立てる宝飾品として、王の王冠や、地位の高い人が身に着ける装飾品に多く使われました。『金産出はほとんどなく』にもかかわらず、宮殿の壁・天井にまで金で飾られて金ぴか宮殿が、実に多かった。

ウエブ情報から引用

 

目を奪われる美しい装飾の数々は、金細工師によるもので、金細工技術の発達が、後にその保管方法や加工技術の発展につながり、これが銀行業の始まりとされています。 

金細工師は金を保管しておく保管庫を持っており、金を保有する人々がその保管庫に金を預けるようになりました。その際に金細工師が、金の預かり証を発行し、それが紙幣として購買力を持つようになったのです。金細工師は、預かった金を運用して増やしたり、また預かり証を発行して代わりに金を貸し出したりもしました。正に今の銀行と同じことが行われており、その始まりにも金が関わっていたのです。

錬金術の起源は古代ギリシャや古代エジプトにあるとされていますが、12世紀に文献がラテン語に翻訳されると、ヨーロッパでも研究が盛んになります。この「錬金術」は現代では不可能であることが実証されていますが、当時の錬金術師たちが試行錯誤した研究の成果は化学の発展に大きく貢献しました。「万有引力の法則」を発見したイギリスの物理学者アイザック・ニュートンも密かに錬金術の研究を行っていたとされます。

 

1533年|インカ帝国の滅亡と金

マチュピチュ遺跡で有名な、アンデス山脈に栄えた巨大なインカ帝国もまた、金で有名な国でした。「黄金の国」と呼ばれたインカ帝国は、歴史の中でも特に金を多く所有していた国として知られ、その量はおよそ10万トン以上、推定320兆円以上とも言われています。非常に金に恵まれた豊かな国であったのですが、それが理由で多くの国に狙われ、1533年インカ帝国はスペインの軍人フランシスコ・ピサロによって滅ぼされました。13世紀から16世紀にかけて特に、金の取り合いによる国の侵略が行われていたといいます。 

捕虜となってしまったインカ帝国の皇帝アタワルパは、『もし、私を自由の身にしてくれるのならば、この部屋を黄金でいっぱいにして見せる』という取引を持ちかけ、スペイン軍のフランシスコ・ピサロはこの提案を受け入れます。皇帝アタワルパは即座に何百人もの使者を各地に送り、貴族・僧侶・地方の長官はインカ皇帝の命ずるままに黄金をカハマルカの地に送ってきました。部屋いっぱいの黄金、それは金額にして約2億7000万ドル(約250億円)にも達していたといわれています。

 ウエブ情報から引用 

皇帝アタワルパは、このプレートの真下に引かれている赤い線までこの部屋を金銀で満たすと約束した。

 

日本の歴史と金

金は日本の歴史においても、権力と富を象徴するものでした。5世紀の前半に書かれたとされる「後漢書」東夷伝によると、後漢王朝の光武帝が西暦57年倭(わ=日本)の奴国(なこく)の王に「漢倭奴国王」と彫られた金印を授けたとあります。

 

当時から金は、権力者のみが所有する特別なものでした。豊臣秀吉は1586年(天正14年)、黄金色に輝く茶室を作らせ、天皇に披露しました。自らの権力を誇示するためと言われ、壁、天井、柱、障子の腰、のすべてを金で貼り、黄金の台子と皆具を置いたと記録されています。

ウエブ情報から引用

黄金の茶室は容易に運搬可能な組み立て式の茶室であった。 秀吉が関白に就任した翌年の1586年1月、年頭の参内で御所に運び込まれ、 正親町天皇 に披露された。 

ヴェネツィアの探検家マルコ・ポーロは著書「東方見聞録」の中で「ジパングは、カタイ(中国北部)の東の海上1500マイルに浮かぶ独立した島国で莫大なゴールドを産出し宮殿や民家は黄金で出来ているなど財宝に溢れている。」と書きました。これは日本がその当時は世界でも有数の金産出国で、奥州平泉の中尊寺金色堂の絢爛豪華な金装飾を目にした外国人が、事実を誇張して伝え、「黄金の国ジパング」として伝わったのではないかと言われています。

 

「東方見聞録」の記録はあまりにも大げさなものではありますが、海の向こうの黄金の国の存在に、当時の海外の人々はロマンをかき立てられたに違いありません。東方見聞録』に出てくる金でできた宮殿とは、平安時代後期の1124年、岩手県平泉に建てられた「中尊寺金色堂」だと言われています。当時「奥州」と呼ばれていた東北地方では、砂金を豊富に採掘していました。

 

現代の世界の金産出量

現在もっとも金の産出量が多いのは、年間およそ400トンを産出する中国です。これに300トンあまりを産出するオーストラリア、ロシアが続きます。ここでも中国が凄い。日本最大の菱刈金山が年間6トン、かつて日本最大の金山だった佐渡金山ですら400年あまりで83トンの産出量ですので、世界的に見ると日本の金産出量はわずかです。しかし、日本近海の海底には手つかずの金脈が眠っているともいわれています。技術が進歩し、海底にある鉱床の開発が進めば、マルコ・ポーロが描いた「黄金の国ジパング」のように、日本が金の産出国として知られる日がやってくるのかもしれません。

(記事投稿日:2023/06/21、#664)


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