知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『運河のこと 1(大運河・京杭大運河 vs スエズ運河 vs パナマ運河)』ー南船北馬の中国ですが、この大型の閘門式運河はパナマより大先輩ー

2019-02-12 07:59:10 | 河川・運河

    『運河のこと 1(大運河・京杭大運河 vs スエズ運河 vs パナマ運河)

    ー南船北馬の中国ですが、この大型の閘門式運河はパナマ運河より大先輩ー    

 

英語の運河(カナル)も、日本語・中国語の運河の意味も、ほぼ同じで、『船舶の航行、灌漑、給排水などのために陸地を、切り開いてつくった人工の水路』、英語のカナルには『管』の意味もある。
世界的に有名な運河には、水平式スエズ運河と、閘門式(ロック式)パナマ運河がある。 規模と歴史から見ても中国の大運河・京杭大運河はスケールが違う。

 

スエズ運河は、地中海と紅海の海面水位に『差(潮汐による)』ほとんどないので水平にできた。 

 

パナマ運河は大西洋側(海底が急峻)と太平洋側(海底が遠浅)で、海面水位に『差(潮汐による)』が大きく、さらに、パナマ地峡の分水嶺、海抜95ⅿの壁があり、水平式はできなかった。  

 

スエズ運河の中間には、グレートビター湖など4ヶ所の湖があり、パナマ運河の中間には、ガトゥン湖があり、どちらも途中は湖上航行ができる。 ガトゥン湖水を閘門(ロック)に揚水ポンプ不要で流し込む省エネタイプ。 閘門(ロック)には、湖水又は、河川水を使う以外に手はなさそうです。

余談です。
パナマ第二運河の建設プランには、ダイナマイトの代わりに『核爆弾使用案』もあった。  理由はパナマ地峡の分水嶺、海抜95mのカットの大工事であった。

現運河建設当時には、超大型土木機械もなく、この地峡の分水嶺の掘削には、当初は、アフリカ系労働者で進めたが、かなり難航したので中国系労働者の採用で、やっと乗り切れたという背景があった。


ここで、今回の『大運河』と『京杭運河』のウエブ情報です。

 

 

『大運河 1,794㎞ 横Y字形

604年に即位した第2代煬帝は605年、黄河と淮河を結ぶ通済渠(つうさいきょ)を築き、これによって長江から長安に至る運河が貫通した。さらに、長江の南岸から杭州に至る江南河を完成させ、長江デルタ地帯と結びつけた。また608年には黄河と現在の北京付近を結ぶ永済渠を開いた。これは高句麗遠征に利するためのものであった。
大運河の建設には、多数の人民が徴発され、その負担が隋の支配への反発となり、早い滅亡の一因となったとされるが、これらの洛陽を中心点とした「横Y字形」の運河網が、長安・杭州・北京地方を結ぶ動脈となって中国の経済的統一に大きな役割を果たした。また後の元や明・清も運河の整備に力を入れ、現在においてもこれらの大運河網は活用されている。→ 元の大運河

 

『京杭大運河 2,500㎞』

京杭大運河(けいこうだいうんが)は、中国の北京から杭州までを結ぶ、総延長2500キロメートルに及ぶ大運河である。 途中で、黄河と揚子江を横断(河床勾配が小さいため閘門が不要?要調査)している。 戦国時代より部分的には開削されてきたが、隋の文帝と煬帝がこれを整備した。 これを、さらに元のクビライ・ハーンによって軍事上の要地である琢郡だった大都(後の北京)が結合して、中国統一の基盤が整備された。この元の運河は、その後の歴代王朝でもおおいに活用され、現在も中国の大動脈として利用されている。

 

中国の国土の広さと、歴史の長さと、『大運河』と『京杭大運河』それぞれのスケールには驚くばかりです。 この超大型運河は、当然ですが水平式と閘門式(ロック式)の複合タイプでした。 正確には、閘門式(ロック式)がはいっているので閘門式(ロック式)です。 

 

南船北馬といわれる中国ですが、この度の大型の閘門式(ロック式)運河については、パナマより中国が大先輩でした。 

                              (20190212纏め #072)

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『日本は凄い・日本人は凄い 4(酒船石)』ー課題; 酒船石は、丘の頂上にあったものか、ここで加工、用途は?ー 

2019-02-10 22:38:36 | 技術

『日本は凄い・日本人は凄い 4(酒船石)』

『課題; 酒船石は、丘の頂上にあったものか、ここで加工、用途は?』

この酒船石は、麓から標高差、約30m程の丘の上にある。 両サイドは、

欠かれており、30-40%が欠損している。 片側は京都の野村邸に現存。

今までも、今でも、酒造り、薬作りに使われたかとの「説」、 松本清張氏の

拝火教の儀式用「説」がある。

 

この麓には、平成12年2月発見された、湧水から繋がった、小判形石と

亀形石遺跡がある。 この遺跡は、浄水機能はなく、小規模で宗教的な目的と

推察される。 この発見の前に。この酒船石は酒造り、薬作りではなく、宗教

目的と推察した、松本清張氏に感服。

 

酒船石は、推定重量約30トン、これが酒造り、薬作り目的であれば、標高差

30mを持ちあげず、麓の湧水の場所で使うはず、従って、最近の説「天空を

象った占星台の未完成「説」有力。

この丘の周囲は10km余離れた場所で切り出された石で、造られた石垣に

なっている。この運搬のために運河まで作っている。

これも占星台「説」の裏付けか

 

備忘録―2で触れる、石舞台の天井石、77トンや60トンをコロと麻縄で

丘に、上りこう配を引き上げるのは、関西大学の実験で、かなり困難という

より不可能ではと言われる。

世界中で、墓、神殿除いた巨石遺跡は、雨乞いと宗教儀式の関連が多い。

 

課題① 酒船石は、丘の頂上に有ったものか。引き上げたものか

課題② 酒船石は何のため使われたか

                  20170402纏め、20190210改 #072)

 

 

 

 

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『写真の魅力 2(思わぬ結果に驚き 3)』ーこの写真のキャプションは「でっかい犬! びっくりした!」ー 

2019-02-08 11:26:24 | 

    『写真の魅力 2(思わぬ結果に驚き 3)』

『この写真のキャプションは「でっかい犬!びっくりした!」』 

 

狙い通りと言いたいとこですが、連写モードであれば、もっと厳しいか、又は、怯えた表情の瞬間も撮れたハズですが、残念ながら連写モードにはセットされてなく、これでは作品とは言えませんが、この貴重なチャンスでは、狙い通り、に近いと納得せざるを得ませんでした。

この写真は、上野公園の不忍池の『鵜の池』で撮ったものです。  

 

不忍池は、遊歩のための堤で3つの部分に分かれており、それぞれ、『一面がで覆われる蓮池』、『ボートを漕いで楽しむことのできるボート池』、『上野動物園の中に位置しカワウが繁殖している鵜の池』の3つがあります。

 

この日は珍しく、茶虎の地域猫(別呼称は野良猫)が水鳥を狙って水辺にいました。 そこに自分の後方から、『鵜の池』に向かって『でっかい犬!! セントバーナード犬』が飼い主に連れられてやってきました。 『茶虎猫』が『セントバーナード犬』に鉢合わせした瞬間の驚きの表情を狙ったものです。この大型犬は、まったく茶虎猫などは、気にしていませんでした。 普通猫は、地域猫でも、家猫でも、散歩中の犬に遭遇した時は、遭遇のかなり前から気が付く、野生を残しているようです。 

 

この話ある先輩から伺ったのですが、ずーっと、頭の隅っこに残っていました。 当然、撮影は、ファインダーを覗けない『ノーファインダー撮影』になります。 こんな時のためにアクセサリーの『アングルファインダー』は持っていますが、取り付ける時間がありませんでした。 カメラは遊歩道路面に直置きで、広角レンズ用のフードで、レンズが支えられて、撮れました。

 

この写真には、後日談があります。 この写真を自分が所属する、写真同好会の作品展に展示した時のことです。 写真展では受付当番の日には、展示会場で、自分の作品への来場者の声を、それとなく聞くことにしています。 この写真への『母子の会話』です。 女の子『この大きな犬は、なぜ頭が写っていないの』、母親『こういう撮り方もあるのでしょう』と言って頂きました。 撮った本人は、広角レンズは最大広角になっていましたので、この瞬間では、これ以上の画面構成はできませんでした。 母親の『女武士の情けに深謝』です。  

                                                                           (20190208纏め #069)

 

 

 

 

 

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『日本の城郭 7(大阪城には、第二・第三の真田丸?!)』ー茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も堅固な陣地ー

2019-02-07 23:52:31 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 7(大阪城には、第二・第三の真田丸?!)』

『茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も堅固な陣地』

 

歴史ドラマ・ドキュメンタリー番組全盛期とは言え、この表題のキャッチフレーです。 先日、NHK総合テレビの歴史秘話ヒストリア 緊急報告“真田丸”を掘るで、『第二・第三の真田丸』という表現で、学術調査を指揮された奈良大学教授の千田嘉博先生から紹介されていた。

 

『真田丸』は大坂の陣の後の江戸時代初期の絵図には、真田出丸・丸馬出とあり、その後、江戸時代中期以降 の絵図には、真田丸・真田出丸・丸馬出が混在した(丸馬出は真田出丸の一部)。  私見ですが真田丸は、江戸時代中期・後期の軍記物・漫画に登場、そのまま市民権を得た。 今では先生方も使う。 言語は生きていて成長・変化するが、定義も生きていて、成長・変化するのか。

 

『丸馬出』の元祖は、城も持たず、館で戦国時代を戦いぬいた武田流軍学から。

 下の地図は『豊臣後期(17世紀初頭)の古地理図の模写』

 

 

この中の茶臼山、御勝山、大阪城の、位置関係が明確です。 この御勝山、大坂の陣以前は岡山と呼ばれた古墳。 大坂冬の陣では、茶臼山に家康が、岡山に秀忠が陣を張って徳川方の勝利、『真田出丸』は、破壊された。 6ヶ月後の夏の陣では、野戦以外に戦う術のなかった豊臣方が茶臼山に主力を置いて、茶臼山―岡山(御勝山)間に防衛ラインを引いて、勝機があると信じていた。  戦上手・野戦上手の幸村が、開戦前から『死に場所を得た』との説は半信半疑。

 

上記NHK秘話のキーワードの抜粋です。

冬の陣のあと、徳川軍が壊してしまったと、もうあとは残っていないんじゃないかと思われてきたんですよね。それで今まで発掘は行われてこなかったんです。今まで大坂夏の陣というのは野外で両軍が戦ったというイメージだったんですけども、実は第二、第三の真田丸が大坂方の戦力の要になっていたんです。

 

茶臼山(陣地で一部破壊され、古墳要件満たせず)も御勝山も夫々海抜27mと12m、当時、大半を堀に囲まれた古墳で、野戦の陣地には最適であった。

冬の陣では、徳川方の陣地に、夏の陣では豊臣方が陣地を築いた。 特筆すべきは、真田幸村はこの二つの陣地に『丸馬出』を構築。 描かれた古図がある。 これが冬の陣の徳川軍陣地と異なり、この縄張りが『真田丸』と誤解させる。

 

それでも、幸村指揮の夏の陣の豊臣方の(両軍の総石高はさて置き)各論での敗因は; 惣濠(内・外堀)を埋められては、堅城大坂城に頼れず、更に、

❶幸村を総大将にせず、総指揮をとらせず

➋初戦の大野治長が五人衆に比べ、全くの力不足、初戦で躓き

❸天王寺の戦いでは濃霧で真田隊が遅れ、これで五人衆の二人が戦死

❹秀頼の出馬催促に真田大助が大阪城に到着、これを野戦で敗戦と誤解。

歴史にも、ゴルフにも、『イフ・タラレバ』は禁句です。 残念無念。

 

 五木寛之と塩野七生が言っている、歴史の真実、特に歴史上の人物の頭の中は覗けず想像するのみで、作家は自由に書けると。 幸村の頭の中は覗けない。 又、歴史と歴史小説の境目はどこ? 一般的に歴史は、勝者側が書いてきた。 

                 (20170426纏め、20190207改 #068)

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『日本の城郭 6(久留里城 尾根がY字に交叉、そこに天守・本丸が)』ー8ヶ所の堀切は「一般にいわれる空堀」で、尾根のキレットを掘ったものー

2019-02-07 10:14:15 | 探検

『日本の城郭 6(久留里城 尾根がY字に交叉、そこに天守・本丸が)』

『8ヶ所の堀切は「一般にいわれる空堀」で、尾根のキレットを掘ったもの』

」に

 久留里城は山城ですが、独立峰ではなく、急峻な、痩せ尾根がY字に交叉するところに、天守・本丸(海抜約155m)、二の丸(海抜約130m)がある。  

 

 尾根の麓に、三の丸、この三の丸をお互いに近接した大手門と搦め手門が囲む。両門の外に、侍屋敷がある全盛期に、3万石の禄高の大名の本拠。 これらの遺跡は、今は、ほとんど残ってはいない。

 

 両側が切り立った尾根に、堀切8ヵ所以上あり、1ヵ所は今回踏査、駐車場の奥から資料館に上る山道の途中にある。 この堀切は、『一般に言われる空堀』で、 尾根のキレットをさらに掘り下げたもの。 これが、攻め難く、守り易くできており感服。 刀槍での侍の戦闘の凄さを実感。

 

 本丸・天主の約20m直下に、男井戸・女井戸がある。籠城に役立ったとの看板あり。 湧水量がさほどあるとは思えず、縄張り・築城時点で、湧水量の確認命ぜられた家臣は大変だったろう。

 麓の内堀も、外堀も自然の川を利用、河岸段丘でかなり段差(約5-10m)あり。 内堀の近くに、平成の100名水の一つあり、久留里地域は水に恵まれている。

                           

 北条軍、二万余と戦って、里見軍は守り切った戦いは、大手門と搦め手門の目の前で戦われた。 久留里城は『戦う山城』、当然、籠城戦に強い城でした。 北条軍とは二勝一敗。 二回戦目は敗れ、占領されたが、のちに奪還。 

今後の課題:戦闘指揮所と戦闘推移の調査

         

 今の千葉県は、当時、安房国、上総国、下総国で、久留里城のあった上総国は複雑で天領も入り組んだ統治下にあった。    

今後の課題:近くにある、本多家10万石の大多喜城と、里見家9万2千石の居城、館山城を要再調査。 馬琴の創作『里見八犬伝』の舞台でもある館山城は、江戸の湾口の要衝であり、且つ、9万2千石という領地に比して経済力・戦力が優っていたのは、やはり海上交通を抑えていた経済権益が想像を越えて大きかったのでしょう。

しかしそれは家康の謀略によって、里見家の伯耆へ配流。  房総に名を馳せた戦国大名・里見氏は事実上、滅亡する。

                     (170402纏め、190207改 #067)

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