知る喜びと、撮る喜びのつぶやき通信  (読める限り読み文章にする。 歩ける限り撮り続ける『花鳥風月から犬猫太陽』まで)

興味のあることは、何でも調べて文章にする。   写真は「光と影」と言われるが、この理解には、まだまだ、ほど遠い.

『日本の城郭 5ー2(石垣山一夜城散策)』ー80日間で造ったこの城から『秀吉をもっと知ることができる』と思ったー

2019-02-06 07:38:03 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 5ー2(石垣山一夜城散策)』

『80日間で造ったこの城から『秀吉をもっと知ることが出来る』と思った』

 

石垣山一夜城散策、箱根登山鉄道の入生田駅から石垣山一夜城に登る裏側ルートは、3度目で、車で登った表側ルート2回を加えると合計5回になりました。

 

この城から『秀吉をもっと知ることができる』と思ったのです。 今回は、2015年9月2日、11時頃、天気は、曇り時々小雨、気温27-29度、湿度90-100%の中、超スローペースで登り始めました。これが幸いし、一夜城の手前、スタジーの巨木の近くで、このルートにある『太閤林道』の出口を見つけました。この『太閤林道』の入口案内が一夜城表面の外側ありました。

 

この案内でスタートしたので、『笠懸山、後代の石垣山、262mの山頂に、延べ4万人を動員して築いた、『石垣山一夜城の惣構え』の散策ができました。

 

この絵が比較的、自分の想像に近い俯瞰図ですので、拝借しました。

 先ずは、南に『南曲輪跡』があり、北に向かうと、西北側絶壁の上に『西曲輪跡』、更に『天守跡』と『本丸跡』の北側を過ぎると、広い『二の丸跡』に出ます。

突然話が飛びます。

戦いに城など当てにしない、城は威厳・威圧目的の織田信長の安土城でさえも、もっと堅固に見えます。 信長は海抜199mの山頂の天主閣で生活していたといわれています。 信長だけは、なぜか、この城の天守閣天主閣と呼んだ。

信長は、生涯で城は5回変わったが、最初の2回は引き継いだもので、自分で築いた3か所の城はすべて山城でした。 信長の最後の築城目標は平城で、石山本願寺(当時は大坂本願寺)跡でした。

 

石垣山一夜城は、『やはり一夜に築いたよう』に北条氏側に見せて、戦闘意欲を失わせる効果を狙った。 秀吉と官兵衛が見た風景は、今のように、石垣山山頂付近は、鬱そうと木は茂っておらず、ましてや一夜城効果を狙って城近辺の木々は切り払っており、全く違った風景であったと思います。 ましてや、太閤と家康が『連れション』などはなかったでしょう。

 

更に、この城で茶会を開き、天皇の勅使や諸大名を迎えた。一方、山城であるが、平城の堀の代わりの山城の『堀切』一ヵ所『出丸の後ろに』のみである。  やはりこの城を頼る実戦などするつもりはなかったのでしょう。 城の南東面、小田原城側には可成り急峻とはいえ『堀切』はない。やはり戦う城よりも、戦う前に圧倒する秀吉・官兵衛の『兵力差で戦う』戦術でしょう。 

  

秀吉の『大阪城築城』も『朝鮮出兵』も、信長の『猿まね』と酷評もあります。 特に、朝鮮出兵の前に、『海賊法度』などを出して、海賊を当てにする気はなかった。 反して信長は海賊、九鬼嘉隆を織田水軍の海軍総司令官にして、鉄板張り、大砲搭載巨艦『大安宅船』で当時最強の毛利水軍を撃破ている。 

 

ご参考です。西洋でも、エリザベス一世は、海賊に私掠特許状を与え、また、海賊ドレイクやホーキンズを以って、スペインの無敵艦隊を破っています。

 

『一夜城築城』に原点があり、この後の朝鮮出兵時の大規模な九州の名護屋城と、その城下町建設へと突き進んだことで、財政豊かな豊臣家と傘下の大名を疲弊させ、臣下の信頼を失い、延いては豊臣家の滅亡へと繋がります。

 

どこかの国の一時期の『ハコモノ』とこの度の『高額建設費の新国立競技場』問題を想いながら、駿河湾を望む早川駅に、ボロボロに疲れて着きました。

                  (20150904纏め、20190206改 #066)

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『日本の城郭 3(堅城大阪城と攻めの真田丸)』ー幸村は真田丸(真田出城)から「赤備え」の揃いの鎧で家康の本陣を直撃!―

2019-02-05 08:17:34 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 3(堅城大阪城と攻めの真田丸)』

『幸村は真田丸(真田出城)から「赤備え」の揃いの鎧で家康の本陣を直撃!』

ウキペデイアから引

『諸国古城之図』摂津 真田丸(広島県立中央図書館)蔵。 北(大阪城本丸方向)を上にして表示。

 

1615年、大坂の陣から400年、研究も進み、「石山」本願寺の呼称も「大阪城に由来」と表示。の説が、先日の日経の文化欄にありました。

 

大阪城は1583年、秀吉が浄土真宗の本拠地、石山本願寺の跡地に築いた。 しかし、石山本願寺の「石山」の呼称登場は、江戸期の文献からで、もともと大阪本願寺と呼ばれていた。

 

大阪城の別称としての「石山」の由来は;

①  博多の商人、神谷宗湛の日記に、秀頼に大阪城で会ったことが記され「大阪石山城にて」とある。

②  イエスズ会の宣教師、ルイス・フロイスが大阪城を「大小の様々な石を山のように集めた」と語った。(東西の城建築の違い、東は曲線の「野面積み」の石垣、西は垂直の城の壁)

大阪城は平地に本格的な石垣を積み上げた最初の城であった。 豊臣大阪城の石垣は自然石をあまり加工せずに積み上げた「野面積み」で徳川大阪城の石垣(現在の石垣)は加工石の石垣であった。 この「野面積み」がフロイスには「石の山のように」見えた。 古代ローマ時代にも「野面積み」の城らしい城はなく、あったのは北イングランドのハドリアヌスの「長城」や、スコットランドのアントニウスの「長城」くらいであった。

城を持たないバイキングの砦・集落の守りの「囲い」「野面積み」であった。

 

堅固な大阪城の堀のスケールも大きく、最近の発掘で、南北240m、幅24m、深さ5mで、二の丸西側の城門「大手口」を逆コの字で囲んでいたと判った。

 

大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。そこで幸村は、徳川との戦いに備えて、大阪城の弱点である南側で「防御」を高める備えとして、真田丸(真田曲輪・真田出城)を築いたと考えられてきた。

一般「 ・・曲輪も・・丸も」は城の惣構・総曲輪・総郭の中の構造物。これに対し、新たな見解を打ち出したのが、奈良大学の千田嘉博学長。「真田丸」 は独立した一城郭であり『攻撃』のために築かれたはず」と説く。その根拠は、当時、大阪城と真田丸の間には、大きな谷が広がっており大阪城の南部は巨大な谷が東西に走る天然の要害であった。 「この谷、現在は谷と呼ばれるほど深くはない。 また真田丸の所在地が、現在の大師山か清水谷の二説があるので、この確定が急がれる」。 が、真田丸は孤立無援の城郭で、あえてこの地に築いたのは敵の攻撃を集中させ、反撃するのが目的だった。

真田丸は「真田丸ではなく、真田出城」であった。

 

野戦を主張した幸村に対し、秀頼、淀殿、豊臣恩顧の諸将(一部を除く)の殆どが、堅城の大阪石山城を頼り、籠城戦に決まった。

 

幸村は、真田丸真田出城を築きながら、「赤備え」の鎧のユニフォームで、家康の本陣を直撃する以外に勝ちはないと考えていたのでしょう。

 

幸村が一番輝いたのは,丸裸の、すでに堅城でない大阪城を出て、討死覚悟で「茶臼山に陣を張り」その茶臼山で、3,000の部隊で15,000の松平隊を破り、家康本陣に迫り、家康をして二度も「自決」を覚悟させた戦いでした。

 

この輝きの背景には、幸村は、大野治房・明石全登・毛利勝永らと共に最後の作戦を立案する。それは『右翼として真田隊、左翼として毛利隊を四天王寺茶臼山付近に布陣し、射撃戦と突撃を繰り返して家康の本陣を孤立させた上で、明石全登の軽騎兵団を迂回・待機させ、合図と共にこれを急襲・攻撃させるというものだった』とされている。 家康はこのような危険な最前線の茶臼山に陣を張った幸村以上の『野戦』の達人でもありました。』

 

後に、家康が「あの世に行ったら真っ先に酒を酌み交わしたい人物である」と幸村を評した。 作り話でしょうがやはり信じたい『判官びいき』です。

 

 徳川方にも「赤備え」井伊直孝がいました。 真田隊も井伊隊も甲斐武田軍団の「赤備え」に繋がります。 当時「黒備え」もあり、 織田家の親衛隊である黒母衣衆、と伊達政宗の具足を黒の「仙台胴」でした。現在のユニフォームの「色・柄備え」も昔の武具の「色備え」も敵味方の区別のためでした。 ただ一色の「赤備え」も「黒備え」も敵を威圧もできます。

                                        (20150801纏め、2019205改 #065)

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『日本の城郭 2(古代山城・麴智城の不思議)』ー古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所ー

2019-02-03 18:48:47 | 城・城郭・城塞

『日本の城郭 2(古代山城・麴智城の不思議)』

『古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所』

 明治大学アカデミーホールで開催されたシンポジウム『鞠智城の終焉と平安時代~古代山城の後退~』を聴講しました。 学者先生の方々が、この忘れられた城の調査・研究に、どんどん、ハマっていく様子が、パネルディスカッションを通してよく判りました。『日本の城郭 3(古代山城・麴智城の不思議)』

 

 山城のことですが、鎌倉時代以降のいわゆる中世・近世の山城に、自分は、夢中になっていましたが、今回は古代山城と聞いて山城のルーツを知りたいと『おっとり刀』で参加しました。 古代山城ネットワークの構築コンセプトが、鎌倉時代以降、中世・近世の、山城の構築コンセプトと、全く異なることに、驚くと同時に、不勉強が解かりました。

 

 先ずはウェブ情報です。

日本列島には3万とも4万ともいわれる城跡が存在する。 それらの大半は14世紀から17世紀までの間に築かれたものである。 わずか300年間にこれだけの城が構えられたことは世界史的にみても日本だけであり、日本の中世は、まさに大築城時代であった。

 

日本の山城には、次の3種類がある。

 

古代山城 

飛鳥時代から奈良時代畿内から九州北部にかけて築かれた。

 

中世山城 

中世・戦国末期まで全国的に築かれた(戦国末期のものを戦国山城ということもある)。

 

近世山城 

安土桃山時代後期から江戸初期までに築かれた。

 

この古代山城ネットワークは、外国・唐の侵略に備えたものと判り『目から鱗…』でした。 その後の、中世山城も、近世山城も『国内の分割された領土の争奪戦』に備えたもので、中には詰め城機能もあります。

 

むしろ、古代山城ネットワークは、国際的な世界史の流れの中での国防ネットワークとして組まれたものでした。 

 

古代山城は、朝鮮式12ヶ所、中国式1ヶ所、神籠石式 16ヶ所で合計29ヶ所。 因みに、鞠智城は、朝鮮式山城、

 

中世・近世に築城された城は、3~4万ありますが、したがって日本の城の殆どが山城と、、平山城と言えます。 (平城は、名古屋城・二条城・駿府城・広島城など

 

この鞠智城は、東アジア情勢が緊迫する7世紀後半、朝鮮半島南西部に、おいて、開戦した白村江の戦い(663)に敗れた大和朝廷が、唐・新羅連合軍の日本への侵攻に備えて、西日本各地に防衛拠点として構築した古代山城の一つで、現在確認されている古代山城の中でも最南端に位置しています。

  巨大帝国、隋の1次~4次高句麗遠征と、唐の1次~3次高句麗遠征などを知った日本のできた防衛戦略だったのでしょう。 特に、隋はこの4回の遠征と大運河の構築費用の負担で疲弊し短期王朝に終わったようです。

 7世紀後半に築造された古代山城は、その大半が8世紀初頭までに役割を終え、廃城となっているが、この鞠智城は、10世紀半ばまで、存続が確認されており、この存続理由が、何であったかと、今回のパネルディカッションでも取り上げられました。   理由は山城として特別大きく、惣構えの周囲9kmあり、平らで広く、建物跡も多く兵站基地を兼ねたようです。

  正確な地図や航空写真のない時代に、唐・新羅連合軍の侵攻ルートを想定して、九州北部を主力に、大宰府の守りとして、また、山陽道と愛媛県・香川県にも古代山城を縄張り・構築し、大津京の守りとしたことにも驚きでした。

  山城への好奇心は、隋・唐の合計7回の攻めに耐えた、高句麗国防の城塞兵站ネットワークと、遠く離れた南米インカのマチュピチュを中心とした山岳山城の城塞兵站ネットワークに思いを馳せます。

(記事投稿日:2017/02/05、最終更新日:2019/02/01、#063)

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