『同郷の飯岡の助五郎は、悪役でも・ヒール役でもなかった。』
『飯岡村の漁業の掘り起こしの立役者で晩年は穏やかな人生を』
当然のことですが、日本には、悲劇的な最期を迎えた人物を英雄視することがあります。 例えば、
判官贔屓(ほうがんびいき)とは、第一義には人々が源義経に対して抱く、客観的な視点を欠いた同情や哀惜の心情のことであり、さらには「弱い立場に置かれている者に対しては、あえて冷静に理非曲直を正そうとしないで、同情を寄せてしまう」心理現象を指すとあります。 耳に痛い話です。
これを日本特有のことと、捉えた外国人が著した本が『高貴なる敗北』です。 これのウェブ情報の引用です。
日本史の中で悲劇的な死を迎えた九人と一戦闘団を外国人の視点から書かれている本。 彼らの末路を“もののあわれ”という日本人の視点と、彼らの死に対する意味をアイバン・モリスという外国人の視点で語られている処に意義があるのではないだろうか?
欧米人は勝利者を高らかに語っても、敗者の悲劇はあまり感動を呼び起こさない。 せいぜいシェークスピアの悲劇(創作物)でしかないというが、モリスの語りは彼ら日本人の敗者に対しても手を差し伸べようとしている。
米国にもありました。 『リメンバーアラモのアラモの砦』の悲劇もあります。 ジョン・ウエインの扮した、デイヴィッド・クロケットはアメリカ合衆国の軍人、政治家。 テキサス独立を支持し、アラモの戦いで戦死した。 アメリカの国民的英雄で、一般にはデイヴィー・クロケット(Davy Crockett)として知られる。
余談が長くなりましたが、表題に戻ります。 非業の死を遂げた笹川の繁蔵と、御上から十手を預かった、二束のわらじの飯岡の助五郎の対決は、小説・芝居・映画にはぴったりの物語だったと思います。 今後の勉強のために、『島柊二の気が向いたら歴史夢想(大利根河原の決闘 昭和の残影は薄れゆく)』の抜粋引用です。
大利根河原の決闘
天保5年(1844年)8月6日、下総国飯岡に勢力を張る石渡助五郎と同国笹川(千葉県香取郡東庄町)の侠客岩瀬繁蔵との縄張り争いを端とする衝突が起きた。 これが笹川事件(大利根川らの決闘)である。
当時、助五郎は博徒の親分でありながら八州廻りの案内役から十手を預かる身分、いわゆる二束のわらじを履く岡っ引きでもあった。 子分たちの抗争激化、事態を憂慮した関東取締役桑山圭助は、助五郎に繁蔵逮捕を命じた。
助五郎は二十数名の子分を率い、利根川を上り夜襲をかけたが、事前に情報を得ていた繁蔵は鉄砲まで準備待ち伏せ。 助五郎の子分8名死亡の惨敗、繁蔵方は平手深喜一人が討死。 繁蔵は逃亡し、助五郎は桑山の面目を潰し、投獄された。
座頭市物語のモデルも実在? 大利根河原の決闘が由来
勝新太郎氏主演映画『座頭市物語』は、このシリーズの第一作で、この物語は大利根河原の決闘を背景に座頭市が事件に絡むフィクションであるが、飯岡の港の一角には『座頭市住居跡碑』が建立されている。 原作者の子母澤寛氏の小説から座頭市には実在するモデルがいると信じている人も少なくないようだ。
笹川繁蔵の暗殺
助五郎は10日余りの入牢から村預けとなり、再び十手を持つことになる。 面目を立てるため、繁蔵の捕縛を最優先。 一方、逃亡から弘化4年(1847年)には笹川に舞い戻り、指名手配の身、知り合いの家を転々としていた。 助五郎は失敗できないので、見張りだけで機会を待っていた。
ところが、同年7月4日夜、妾宅に、一人で向かう途中、びゃく橋のあたりで、飯岡方の成田の甚蔵、石渡戸孫治郎と与助(助五郎の息子)の三人に闇討ちされた。 首級だけが助五郎に届けられた。 繁蔵を捕縛・手討ちを考えていた助五郎は、評判を落とすのを恐れ、密葬した。 『大切な人だから香花を絶やすな』と命じたという。
悪役が染みついた飯岡助五郎
講談・小説・芝居・映画等々の、笹川事件(大利根川の決闘)を題材にした物語は人気を博した。 だがどれを取っても助五郎が悪玉を演じるのが定番なのは動かし難いようだ。 これを嘆いた地元飯岡の有志は、真実の飯岡助五郎で町を盛り上げようと努力してきた。
漁民が遭難し飯岡浜の漁業が衰退しかけた時に、故郷の三浦や房総の漁師を雇い存続させ、亡くなった漁師の後家や娘のところには婿を入れたり、護岸工事なども率先したようだ。 こうした地元から尊敬される人物がなぜ全国的には悪人のイメージが定着してしまったのか。
作家の笹沢佐保氏は、①年齢的に若い繁蔵が善玉になりやすい、 ②日本人の判官びいき、悲劇的な繁蔵や平手造酒に人は同情したから、 ③二束のわらじ、 ④大利根の決闘で完敗、 ⑤繁蔵を闇討ち、など書いている。
安らかな最期
嘉永二年(1848年)、繁蔵一家の残党、勢力富五郎らを壊滅させた助五郎は、与助に後を継がせ隠居の身となった。 近所の子供たちに菓子や飴を与え一緒に遊んだという思い出話が残っている。 安政六年(1859年)4月14日、66年の生涯を閉じた。 大親分と呼ばれる人物たちの中で畳の上で死ぬことが出来た稀有の存在であったと言われる。
裏付ける情報として、幕府の統治能力が弱体化した幕末期において、十手を預かり近隣の治安を守る助五郎の警察力は、庶民から高く評価されていた。 月岡芳年が明治7年(1874年)に描いた『競勢酔虎伝』には「飯岡助五郎」の版画があり、『其の頃、博徒の巨魁にして剛毅果断義気侠行(中略)、奸盗跋扈の時に際し市中巡邏の隊に付属し、大いに、志を国事に尽し捕縛の功少なからず』と、助五郎の業績を絶賛していている。
このような言い伝えがあったにもかかわらず、悪役・ヒール役が一般の理解だが、さらに真実を発信していきたいと思っています。
(記事投稿日:2021/07/17、#357)