『日本の戦国時代の信長・秀吉・家康の三英傑・天下人は神に‼』
―NHK歴史探偵 のキャッチフレーズに興味、調べてみると―
センセーショナルなキャッチフレーズは『織田信長・豊臣秀吉・徳川家康、3人の天下人は、さらなる高みを目指し、神になろうとした。 信長のご神体、暴かれた秀吉の遺体、家康の謎の遺言。 三英傑の神への道に迫る』でした。
三英傑もしくは郷土三英傑、戦国三英傑は、現在の愛知県(当時は尾張国と三河国)出身で名古屋にゆかりがあり、戦国時代において天下を統一へ導いた3人の戦国大名について、主に後世において中部地方や愛知県で顕彰する呼称。 口語では戦国の三傑が用いられる。
先ずは、『八百万の神々』の国ですので神々の復習をします。 色々な分け方がありますが、性質で分けると、
❶記紀(神話)系
❷自然系
❸人神系
とあって、『人神系の小分類として怨霊系・その他』として続き豊臣秀吉は『その他』に分けられます。
個人や村単位で先祖や功労者を祀ることは『続日本紀』に載るほど昔から多くありましたが、『怨霊鎮め』ではなく『英雄』を『国家』が人を神として認定したのは豊臣秀吉が、初めてのようです。 安土桃山時代以降、戦国時代の戦いでは武力衝突で恨みっこなし、怨霊も姿を消したのでしょうか。
ご参考、『人神系の小分類として怨霊系の「三大怨霊系」』は、
『菅原道真』
平安時代の政治家・学者。 醍醐天皇の御代に右大臣となったが、藤原時平の讒言によって大宰府に左遷された。現在では「天神様」として知られ、江戸時代より学問の神様(合格祈願の神様)として信仰されている。
『平将門』
平安時代に坂東(関東地方)で反乱を起こした武将。
『崇徳院』
平安時代の第75代天皇、及び譲位した上皇。
江戸時代において読本や歌舞伎など、後世に物語化され親しまれた上記お三方が一般的には三大怨霊とされる。 他にも、日本の史料上で初めて「怨霊」という言葉が用いられた早良親王を三大怨霊として挙げる人もいる。
『早良親王』
奈良時代末期の皇族。 追称は崇道天皇。怨霊信仰で祀られる怨霊の筆頭として崇敬され、一方では日本三大怨霊をも上回る別格の大怨霊ともされる。
なお、それぞれ怨霊として畏怖されていると同時に、その霊を鎮めて平穏をもたらす神として祀る御霊としても信仰をされている鎮護の神でもある。 御霊信仰の観点からみれば日本三大怨霊は日本を守護する日本三大怨霊とも言える。
三大英傑に戻ります。
織田信長が狙ったものを、安土城の縄張りから想像
ウキペデイア情報から引用(宣教師に描かれたとされる肖像画を写真撮影)
昔、『行ってみたい城ランキングのトップに安土城がありました。 それ以来、数回、行って散策しました。 安土城の特徴は;
- 信長は安土城の最上部を『天守』ではなく『天主』、つまり天の主が居る場所と呼び、
- その『天主』から見下ろす位置に、天皇のための御殿(京都御所の清涼殿を模したといわれる)を築き、『上から天皇を見下ろす』ように設計、
- 『天主』内部の壁や天井には、『天上界』と呼ばれる理想郷が描かれ、この『天上界』を自分の居場所、
としたと言われており、信長は、天皇はもとより、神仏の上に立って『日の本』の統治を狙ったように見えます。 しかし、当時の資料からは、天皇・朝廷と信長が『不和』だったという事実は読み取れず、協調関係にあったと主張される方もおります。 信長は正親町天皇に譲位を迫ったという説もあったが、むしろ譲位を望んでいたのは正親町天皇だともいわれる。 神を恐れぬ信長ですので神以上になろうとしていたのではないでしょうか。 今となっては知るすべもありません。
こんな話もありますので、真相は闇のかなたです。 『安土築城に伴って摠見寺が建立されましたが、当時は真言宗の寺でした。 信長は盆山(ぼんさん)という石をご神体として寺に安置し、自分の誕生日には人々に参詣して拝むように命じたといいます。 自らを神とすることで仏教勢力へ大きな圧力を掛けたようです。』
日本史は中国の歴史書や、宣教師の日記・日誌・旅行記に真実が隠されていると言われます。 織田信長のこと、宣教師ルイス・フロイスの日記から。
『1568年、織田信長は足利義昭を奉じて入洛、天下に王手をかけた。 しかし翌年、義昭の宿舎・本圀寺が襲撃され、前途に不安を覚えた信長は二条城の建造にかかる。 信長はそこで宣教師ルイス・フロイスと出会い、キリスト教の布教に力を貸した。 揺らぎ始めた寺院勢力と対立させ、宗教全般を支配下におく政策だったのかー? キリスト教世界の視点から、新しい信長像と日本像が浮かび上がる。』とあるが、
信長の狙いは、天皇よりも神仏よりも、後世の、さらに上の『絶対君主』を狙っていたのかと、想像し楽しくなります。
『絶対君主制(英: Absolute monarchy )とは、君主制 の一形態で、君主が統治の全権能を所有し自由に権力を行使する政体 である。 対比語は、君主の権力が憲法などで制限されている制限君主制または立憲君主制である。 絶対君主制においては貴族、諸侯、議会などよりも君主の権威が優越する。』
豊臣秀吉は、日本史上初『死後直ちに、自分の霊を神として祀れ」と
歴史上『神』と祀られた人物の多くは、北野天満宮(菅原道真)・白峯神宮(崇徳天皇)・神田明神(平将門)など、『敗者』たちだった。 聖徳太子のように『敗者』とは疑問だが、『怨霊』になるのを恐れられたからだと梅原猛著『隠された十字架』にありました。
秀吉は、1585年7月に「関白」へ就任し、続いて翌1586年12月に太政大臣となり、このときに「豊臣」の姓を受けて豊臣秀吉を名乗ることになりました。
秀吉の場合、想像できることは、死に際に抱えていた心残りは、6歳の嗣子・秀頼とその母・淀殿の行く末、そして豊臣家の行く末だったでしょうし、自分が『神』になって、この世に留まり、子孫の行く末を見守ることができると考えたのではないかと納得しています。
徳川家康を神にしたのは、家康自身と天海大僧正
家康は、秀吉に遅れること18年、1603年2月に「右大臣」「征夷大将軍」に就任し、続いて翌1816年3月に太政大臣に、この一カ月後に死去。
家康が神になったのは豊臣秀吉の影響が大きいと言われるのは、家康側近の僧は、家康が亡くなる直前に太政大臣への任官を進言している。 背景には「現任の太政大臣だった秀吉が豊国大明神として祀られた例を意識した可能性」があるようです。 やはり、『怨霊鎮め』ではなく『英雄』を『国家』が,人を神として認定したのは豊臣秀吉が、初めてのようです。
ウキペデイア情報、世界の宗教一覧で分かりました。 宗教は数えきれないほどあり、日本だけの『八百万の神々』ではなく世界中に『八百万の神々』は存在します。 それがごく自然で、『三大宗教の一神教』の拡大には驚くばかりです。
(20210711纏め、#355)