『対馬・壱岐の歴史は奥が深い(TV番組「世界ふしぎ発見」に登場)』
『目から鱗の、対馬・壱岐の自然と歴史・元寇と金田城の記録』
『世界ふしぎ発見』で取り上げていました対馬・壱岐ですが、山と海が大好き人間には、堪らないほど魅力的で、美しい自然に恵まれた島々です。 ここが大帝国蒙古と朝貢国の連合軍に侵略されたことの悲惨さと鎌倉武士の強さを知り、改めて驚きました。
ウキペディアから引用
13世紀後半における2度の蒙古(元)軍の日本来襲。 元寇 ・蒙古襲来・モンゴル襲来とも言われる。
文永の役(1274年)
文永11年(1274年)10月壱岐・対馬を占領した元・高麗軍(兵力3-4万、軍船800-900艘)(対して日本側兵力不明、軍船300余艘)は博多付近に上陸したが,暴風によって敗退(文永の役)。 幕府は異国警固番役を実施し,防備を固めた。
弘安の役(1281年)
弘安4年(1281年)5〜7月再び来襲した十数万(兵力14-16万、軍船4,400艘)(対して日本側兵力、六波羅派遣軍6万騎、軍船不明)の元・高麗軍には容易に上陸を許さず,大風雨の助けもあってほとんど全滅させた(弘安の役)。 影響は大きく鎌倉幕府の衰亡を早めた。
元寇(13世紀末)とその後
元寇では、日本は「神風」により侵略を免れたと言われますが、対馬・壱岐は全島にわたって甚大な被害を受けました。 元寇への復讐の意味もあり、倭寇が盛んに朝鮮半島・中国大陸で略奪・人さらいを行うようになっていきます。 高麗は倭寇の被害が原因のひとつとなって滅亡、倭寇討伐で名をあげた李成桂が李氏朝鮮を建国します。
李氏朝鮮は「倭寇の巣窟」とされた対馬を襲撃(1419年応永の外寇)しますが、宗家のゲリラ戦により苦戦し、貿易の権限を対馬の有力者に与える懐柔策をとります。 こうして、対馬と朝鮮の関係は、元寇・倭寇の争いの時代から、平和通行の時代へと変化していきました。 その平和な関係は、三浦の乱(朝鮮の日本人居留民の暴動)などの紆余曲折を経て、豊臣秀吉の朝鮮出兵まで続くこととなります。
過去には、これほどの歴史がある二つの島も、今では、ゆっくり・じっくりと散策をしたくなる史跡・洋上の山岳、固有の動物・ツシマヤマネコが棲み、固有の百合・オウゴンオニユリが咲く島々で、いつか訪れてみたいと思っています。
対馬・壱岐島の現代の地図
元寇、文永の役も弘安の役も、対馬・壹岐島を先ず攻略して、後顧の憂いをなくして、九州の博多湾に攻め込んだことは、地政学的にも良くわかります。
ウキペディアから引用
金田城(標高276メートル)の山上に築城された山城)
対馬国下県郡の城山(現在の長崎県対馬市美津島町黒瀬)にあった日本の古代山城(分類は朝鮮式山城)。 城跡は国の特別史跡に指定されている。
ウキペディアから引用
洋上の霊峰・岩塔『白嶽』(標高518ⅿ)
石英斑岩の双耳峰が特徴的で、白く空に向かって輝くその姿は海からもはっきり望むことができます。
ウキペディアから引用
オウゴンオニユリ(黄金鬼百合)
オニユリの変種で、対馬のみに自生する。 草丈は1メートルから2メートルほどとなる大型のユリ。
ウキペディアから引用
ツシマヤマネコ
ネコ目(食肉目)ネコ科に属するベンガルヤマネコの亜種。 流石、大陸に近く国際的です。
ウキペディアから引用
双六古墳(長崎)
壱岐島中央部に分布する古墳群で、主要古墳として前方後円墳2基・円墳4基の計6基が国の史跡に指定されている。 そのうちの一基・双六古墳、全長91m、長崎県最大の前方後円墳。 後円部径43m・高さ10m、前方部幅36m・高さ5m、横穴式石室で全長約11m、玄室・前室・羨道からなる複室構造で、前室壁面。
ウキペディアから引用
壱岐島の猿岩
壱岐島の西部にあり、 横から見ると猿にそっくりなことから名付けられた自然形成の岩(玄武岩)で日本を代表する奇岩です。
ウキペディアから引用
まさに、奇岩です。
(記事投稿日:2020/11/24、#251)