原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「死後」の美しいあり方

2009年08月09日 | 人間関係
 今年もお盆が近づきつつある。

 この“お盆”の歴史的意味合いとは、既に亡くなっている先祖の霊が子孫の元へ戻ってくる(新暦では)8月15日前後に、子孫がその霊を迎えるために様々な風習をとり行う期間を指すようである。
 私が子供の頃にも、毎年この季節になると、祖母が南側の軒下に提燈を吊り下げて夜になると蝋燭の火を灯す等の手はずを整えて、先祖の“霊”を迎え入れるべく準備をしていた風景が印象的に脳裏に刻まれている。

 時代が大きく変遷して、科学技術が急激に発達し少子高齢化社会が到来している現在、先祖の“霊”の重みが明らかに変容してきていることを実感する。
 いつまでも、先祖の“霊”が子孫にまとわりついていたのでは、子孫に迷惑がかかる時代に突入しているとも言える今日この頃である。

 そのような時代背景の下、この私ですら早くも“「死後」の美しいあり方”について思いを巡らす機会が既にあるのだ。
 “「死後」の美しいあり方”などと響きの良い表題を掲げたが、具体的には自分の死後の“葬儀”と“墓”をどうしたいか、という現実的な課題について触れるのが今回の記事の趣旨である。


 実は、私はもう既にある程度の“葬儀”と“墓”に関する自分自身の意思決定を下している。
 我が家の場合、高齢出産で産んだ一人娘が、順当にいけば親の死後ほぼ40年もの年月を一人で生き抜かねばならない運命にある。 その一人娘に、親の“葬儀”は元より“墓”の管理等で40年間も手を煩わせるのはどう考察しても忍びない。 そんな無駄とも言える手間を娘に押し付けて他界するより、娘には自分自身の人生を思う存分有意義に生き抜いて欲しいものである。 そして、娘には親の葬儀や墓の管理等で無駄な支出をすることよりも、生前に出来うる限りの資産を残してやって本人が幸せに生きるためにこそ、それを役立てて欲しいのだ。

 そこで、私は既に以下の決断をしている。
 もしもこの私が我が家の3人のうち一番先に死んだ場合、葬儀は行わなくていいと家族に伝えてある。
この国の場合、法制度上死体は火葬することが義務付けられているため、家族の手を煩わせて申し訳ないがその手続きのみはお願いしたいのだが、葬儀は元より、親戚知人への報告さえ必要ないと伝えてある。 もしも、“風の知らせ”に私が死んだ事を知った知人が“線香を上げたい”と言って下さるならば、それは有難くお受けしたいが、心の中でそうしていただけるのみで十分である。
 “墓”に関しても、我が郷里の両親に関しては既に永代供養の手続きを済ませているし、嫁ぎ先の先代の墓に入れていただくには(我が子も含めて)その子孫にご迷惑がかかるため、“墓”には入らず簡易な「手元供養」を考慮中である。
 この「手元供養」をご存知ない方のために少しだけ説明すると、各種用意されている小さいメモリアルオブジェを買い求めるのだが、その中に遺骨の一部を入れてもよし入れなくともよし、もしも我が娘がこのオブジェ自体が不要になったならゴミとして捨て去ってもよし、という墓に変わる格安商品である。
 もちろん、これとて我が娘が不必要ならば購入することもないのだが…。

 
 世の中には、様々な宗教や思想が存在し、文化的にあるいは地域的要素として人の「死後」を奉る風習が揺ぎなく現存し続けている国や地域においては、その風習を継続する伝統を守り抜くべきことには必然性もあろう。

 片や歴史的に宗教的背景の薄い日本においては、今の時代、一部を除き「死後」の世界にまでこだわる人は少数派ではなかろうか。
 それ故に、良識ある著名人の中には現在では葬儀を身内のみで行っている事例が多いことには私も好ましく思っている。

 自分の子孫はともかく、それとは無縁の周辺社会までをも義務的に巻き込んで大々的に葬儀を行う著名人には正直申し上げて辟易とさせられるばかりである。
 例えば、若くして亡くなった著名人に関してはその事務所が商業主義に走っているのかと捉えられる大々的な葬儀も今時マスメディアで見聞するが、あれが故人の遺言であったならば、私など大いに幻滅である。

 
 この私にもしも、私の何らかの能力や実績の一部として、例えば我が子に私の死後に影響力として残せ伝達し得るのならば、それは私が故意に伝達するのでなく、我が子の自然の成り行きに任せたいものである。

 「死後」に至るまで美しくありたい…。
 これは私の“哲学”であり“美学”でもある。


 短い期間ですが、旅行に出かけます。 
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