確かに、人から一方的に聞かされる“愚痴”と“自慢話”ほど鬱陶しいものはない。
先週10月10日(土)付朝日新聞別刷「be」の“悩みのるつぼ”の相談は、30代主婦による「義父母の同じ自慢話にうんざり」だった。
以下に、その相談内容を簡単にまとめて紹介しよう。
義父母に会う度に毎回、義父の仕事の実績、長男(自分の夫)を私立の幼稚園へ入れたこと、大学受験で高校から唯一長男だけが国立大に合格したこと、次男はスポーツの才能があり推薦入学を誘われたこと、等々… 書き出したらきりがないほど同じ自慢話を繰り返し聞かされる。 夫も横で黙って聞いている。 嫁である私に「うちの家はすごいんだぞ!」と念を押したいのだろうか。ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか。 先日の夫の実家からの帰り道で「もう耐えられない」と涙が溢れた。勇気を出して「その話、20回目ですよ」と言っていいのか。それともそれを聞くのが嫁の役割なのか。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より引用)
おそらく、世の奥様方は大なり小なりこの主婦と同様の経験があることであろう。
相談者の30代主婦の気持ちは理解できるが、何もそんな、涙を流してまで悩む事柄でもなかろうに…、と思ってしまうのが、世の奥様方と例外なく同様の経験がある私のとりあえずの感想である。
ここで私事を語ると、私の場合見合結婚なのだが、長年独身を通して自立心たくましく自己を確固と確立していた私を義母が直感で気に入ってくれて成婚に至ったとも言える程、義母からの信頼が厚い私である。そのお陰で、結婚以来ずっと義父母(義父は既に他界)には私の意向を尊重してもらいつつ大事にされ続けている“恵まれた嫁”の私なのだ。
そんな義母が結婚当初、出産のために仕事を退職した私を「子どもが生まれたら子育てで身動きがとれなくなるから、今のうちに美味しいものでも食べましょう」と言って、昼間ランチやお茶によく誘い出してくれたのだ。
その飲食の席で二人でいろいろと語り合ったのだが、その中でこの相談者が書いているような義母からの“自慢話”の類の会話もあるにはあった。 我が家の場合、亭主が自分のプライベートを語ることに一切興味のない人間であるため、その時の義母からの「家」や亭主の歩んだいきさつ等の話は、私にとって亭主の育った背景を知るに当たって大いに参考になったものだ。 そして話が決して義母からの一方向ではなく、私の方からも同じように自分の生育背景等についても語り、義母が熱心に耳を傾けてくれたものである。
(その後年月が流れて義父が痴呆症気味になって以降、日々介護に苦しむ義母の“愚痴”の聞き役は快く引き受けた私でもあるのだが。)
“悩みのるつぼ”の今回の回答者は作家の車谷長吉氏であるのだが、その回答内容から私が同感できる部分を抽出して以下に紹介しよう。
世の中には自慢話の好きな人がいるが、ある意味では幸福な人種だ。 自慢話と愚痴・小言・泣き言、どちらも聞かされる側は苦痛に変わりないが、まだしも自慢話の方が少し聞きよいように思う。 ただ、世の中の半分以上は自慢話の好きな人種である。もし相談者が義父母の自慢話に耐えられないのなら、耐えられないとはっきり言えばいい。 その結果、重大なことが起きれば、その責任を相談者が取ればいい。嫌なことに耐えるよりずっと気持ちが楽になるはず。 人間世界には楽な道はない。
最後に私論に戻るが、義父母と“嫁”との関係においても「信頼」がその基本に位置付けられることは明白である。
現在の核家族化社会において、義父母と同居している“嫁”は少数派であると推測するが、たとえ別住まいであろうと“嫁”の立場で亭主の実家とのある程度の信頼関係を築いておいた方が、生涯に渡って様々な意味合いで得策かと私は捉えるのだが…。
この相談女性の場合、1年に2度程度の亭主の実家訪問であるらしいのだ。 それ程の少ない頻度ならば頭ごなしに義父母の“自慢話”を拒否するのではなく、その話に乗るふりをして“嫁”である自分側の自慢話も披露できる程の会話力を身に付けられたならば、相談者の視界も移り変わっていくであろうに、とも考察できる。 「ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか」などと、義父母よりも人生経験の少ない相談者の方こそが“ちっぽけ”な被害妄想の発想に囚われていないで、義父母の自慢話を少しはうまくかわせる力量も身に付けたらいかがなものか、とも思ってしまう。
それがまだ不可能であっても、とにかく鬱陶しいだけの人の“愚痴”と“自慢話”などに涙をこぼしていないで、軽めに受け流して聞き捨てましょうよ。
先週10月10日(土)付朝日新聞別刷「be」の“悩みのるつぼ”の相談は、30代主婦による「義父母の同じ自慢話にうんざり」だった。
以下に、その相談内容を簡単にまとめて紹介しよう。
義父母に会う度に毎回、義父の仕事の実績、長男(自分の夫)を私立の幼稚園へ入れたこと、大学受験で高校から唯一長男だけが国立大に合格したこと、次男はスポーツの才能があり推薦入学を誘われたこと、等々… 書き出したらきりがないほど同じ自慢話を繰り返し聞かされる。 夫も横で黙って聞いている。 嫁である私に「うちの家はすごいんだぞ!」と念を押したいのだろうか。ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか。 先日の夫の実家からの帰り道で「もう耐えられない」と涙が溢れた。勇気を出して「その話、20回目ですよ」と言っていいのか。それともそれを聞くのが嫁の役割なのか。
(以上、朝日新聞“悩みのるつぼ”相談より引用)
おそらく、世の奥様方は大なり小なりこの主婦と同様の経験があることであろう。
相談者の30代主婦の気持ちは理解できるが、何もそんな、涙を流してまで悩む事柄でもなかろうに…、と思ってしまうのが、世の奥様方と例外なく同様の経験がある私のとりあえずの感想である。
ここで私事を語ると、私の場合見合結婚なのだが、長年独身を通して自立心たくましく自己を確固と確立していた私を義母が直感で気に入ってくれて成婚に至ったとも言える程、義母からの信頼が厚い私である。そのお陰で、結婚以来ずっと義父母(義父は既に他界)には私の意向を尊重してもらいつつ大事にされ続けている“恵まれた嫁”の私なのだ。
そんな義母が結婚当初、出産のために仕事を退職した私を「子どもが生まれたら子育てで身動きがとれなくなるから、今のうちに美味しいものでも食べましょう」と言って、昼間ランチやお茶によく誘い出してくれたのだ。
その飲食の席で二人でいろいろと語り合ったのだが、その中でこの相談者が書いているような義母からの“自慢話”の類の会話もあるにはあった。 我が家の場合、亭主が自分のプライベートを語ることに一切興味のない人間であるため、その時の義母からの「家」や亭主の歩んだいきさつ等の話は、私にとって亭主の育った背景を知るに当たって大いに参考になったものだ。 そして話が決して義母からの一方向ではなく、私の方からも同じように自分の生育背景等についても語り、義母が熱心に耳を傾けてくれたものである。
(その後年月が流れて義父が痴呆症気味になって以降、日々介護に苦しむ義母の“愚痴”の聞き役は快く引き受けた私でもあるのだが。)
“悩みのるつぼ”の今回の回答者は作家の車谷長吉氏であるのだが、その回答内容から私が同感できる部分を抽出して以下に紹介しよう。
世の中には自慢話の好きな人がいるが、ある意味では幸福な人種だ。 自慢話と愚痴・小言・泣き言、どちらも聞かされる側は苦痛に変わりないが、まだしも自慢話の方が少し聞きよいように思う。 ただ、世の中の半分以上は自慢話の好きな人種である。もし相談者が義父母の自慢話に耐えられないのなら、耐えられないとはっきり言えばいい。 その結果、重大なことが起きれば、その責任を相談者が取ればいい。嫌なことに耐えるよりずっと気持ちが楽になるはず。 人間世界には楽な道はない。
最後に私論に戻るが、義父母と“嫁”との関係においても「信頼」がその基本に位置付けられることは明白である。
現在の核家族化社会において、義父母と同居している“嫁”は少数派であると推測するが、たとえ別住まいであろうと“嫁”の立場で亭主の実家とのある程度の信頼関係を築いておいた方が、生涯に渡って様々な意味合いで得策かと私は捉えるのだが…。
この相談女性の場合、1年に2度程度の亭主の実家訪問であるらしいのだ。 それ程の少ない頻度ならば頭ごなしに義父母の“自慢話”を拒否するのではなく、その話に乗るふりをして“嫁”である自分側の自慢話も披露できる程の会話力を身に付けられたならば、相談者の視界も移り変わっていくであろうに、とも考察できる。 「ちっぽけな自慢話がプライドを保つ方法なのだろうか」などと、義父母よりも人生経験の少ない相談者の方こそが“ちっぽけ”な被害妄想の発想に囚われていないで、義父母の自慢話を少しはうまくかわせる力量も身に付けたらいかがなものか、とも思ってしまう。
それがまだ不可能であっても、とにかく鬱陶しいだけの人の“愚痴”と“自慢話”などに涙をこぼしていないで、軽めに受け流して聞き捨てましょうよ。