(写真は本日撮影した我が家のクリームメダカ。 今回ははっきりくっきり写せたでしょ!
メダカがそれぞれ泳ぎ回るから、3匹をアップで一画面に撮影するのは至難の業なのよ~)
本ブログの9月21日付のバックナンバー記事「生命体が共存する風景」にて紹介させていただいた我が家のクリームメダカ3匹は、本日で購入後51日が経過した。 あの記事の後も、私の“手厚い愛情”を一身に受けつつ、3匹共至って元気に順調に生育し続けている。
前回紹介した頃と比較して、体長が1、5倍程度に育ち、一番大きいメダカで約3cm程の大きさであろうか。 もうすっかり立派な大人に成長し、写真の通りの精悍な姿を披露して“育ての親”である私の目を細めさせてくれる親孝行者たちである。
(いや~、やっぱり子どもって元気が一番を実感!!)
9月初旬に私が仕入れて来たメダカを我が身内が一目見るなり「1週間で死ぬよ。」と冷たく言い放って、それでも過去に熱帯魚と金魚を長年“女手一つ”で育て上げてきた実績のある私は、このメダカたちも生き長らえさせる“根拠なき自信”が実はあった。
特にメダカの育て方に関する専門情報を入手する訳でもなく、自分の経験による感覚のみに頼り、メダカの生態系を想像しつつ、水質管理や適温や酸素量、そしてエサの量を調節しながらの“子育て”の日々である。
そうとは言え、メダカの飼育ポイントはただ一つ、神経質になり過ぎないことのようである。
そもそもメダカという生物は、熱帯魚や金魚とは違ってひと昔前には日本全国どこの小川にも生息していて、小さいながらも繁殖力、生命力のある魚と私は認識している。
我が子ども時代には、このメダカを近くの小川からすくい取って来ては、女の子同士の“おままごと遊び”の一端として、すくい取ったメダカを生きたまま「串刺し目刺」にして干す、という、今思えば何とも惨たらしい遊びを楽しんだものである。
(子どもの遊びとはこの“メダカ遊び”に限らず本質的に残酷さを伴っているものである。 大人の世界を模倣、風刺しているようでもあり、また、今後大人になり行く子ども達が将来に向かって強く生き延びるための「通過儀礼」でもあるようで、大変興味深いのだが…)
このメダカの「串刺し」が上手に出来る器用な女の子が羨ましくて、近くの小川に行けばいくらでも捕獲できるメダカをすくい上げて来ては、皆で日が沈むまでせっせと「串刺し干し」作りに励んだものである。 オレンジ色の夕日を背後から受けて干されている「串刺し」にされて整然と並べられたメダカの一匹一匹が、いとも美しく透明に輝ける光景を、今尚脳裏に鮮明に記憶している私である。
話が“我が過ぎ去りし過去のノスタルジー・メダカ物語”にすり変わってしまったが、ここで我が家のクリームメダカに話を戻そう。
我が家のメダカが、先週の土曜日からある“異変”を起こしているのだ。
買い求めたメダカのエサ箱の裏面に、メダカが卵を産んだ時の注意書きが記されていたのであるが、私は我が家のメダカに関してはまさか卵を産まないと勝手に決め込んでいた。
ところが、上記写真の真ん中のメスメダカが、下腹に「卵」を抱えているのを先週の土曜日に発見したのだ! 直径1mm程の、それはそれは美しい透明の卵を下腹に十数個抱えているのだ! その後注意して観察していると、毎日午前中に産卵することが続き今日に至っている。産卵は水草の上で行われているようであるが、どうもうまく水草に定着しなかった卵が母メダカの下腹にくっついたままのようである。
卵を産んだ母メダカの警戒心たるや、凄いものがある。 私が水槽の前を横切っただけでパニック状態に陥り、水槽の壁(?)に体をぶつけて尾ヒレを損傷している有り様だ。
そのような我が家のメダカの生態を日々観察しつつ、“育ての親”である私は生命体の継承と繁栄に心を配る日々である。
このような経験は今までの熱帯魚や金魚にはないため、日々メス親の行動と「卵」の存在を確認しながら、水替やエサやりに神経を尖らせる私である。
次世代のメダカの赤ちゃんが我が水槽内に生まれるのを、心より待ち望む原左都子である。
本日(10月29日)昼間、参議院国会答弁を垣間見たが、新政権首相の主張されるところの抽象的な「友愛精神」を国民にアピールするのは、虚しいだけの思いを新たにした。 あのような陳腐な机上の道徳論で国民の関心を引こうとするよりも、(学校現場等で行われているような、単なるカリキュラムとしての上から強制の形式的なものではなく)“本気で”この国の子ども達にじかに生命体に触れる体験でもさせた方がよほど「友愛精神」が育まれるのではないかと、我がメダカの育成とあのセレブ首相の空虚な「友愛」答弁が交錯しつつ実感する私でもある。
(本日、首相は国会答弁の中で“誹謗中傷”という言葉を使用されましたが、私どもの拙いブログごときの一般国民のオピニオンも、本日の答弁で首相がおっしゃったところの“新政権に対する誹謗中傷”に当てはまるのですか?? もしそうであるならば、自らのマニフェストにがんじがらめになっている新政権が今後何を目指したいのかに関して“怖さ”さえ抱かされる本日の答弁です。 一国の首相が国会答弁において安易に“誹謗中傷”の言葉を発し政権としての“被害者意識”を公然と主張するならば、一般国民が今後公的に何らのオピニオンも述べられなくなる一種の“言論統制”のようでゾッとした私なのですが…)
メダカがそれぞれ泳ぎ回るから、3匹をアップで一画面に撮影するのは至難の業なのよ~)
本ブログの9月21日付のバックナンバー記事「生命体が共存する風景」にて紹介させていただいた我が家のクリームメダカ3匹は、本日で購入後51日が経過した。 あの記事の後も、私の“手厚い愛情”を一身に受けつつ、3匹共至って元気に順調に生育し続けている。
前回紹介した頃と比較して、体長が1、5倍程度に育ち、一番大きいメダカで約3cm程の大きさであろうか。 もうすっかり立派な大人に成長し、写真の通りの精悍な姿を披露して“育ての親”である私の目を細めさせてくれる親孝行者たちである。
(いや~、やっぱり子どもって元気が一番を実感!!)
9月初旬に私が仕入れて来たメダカを我が身内が一目見るなり「1週間で死ぬよ。」と冷たく言い放って、それでも過去に熱帯魚と金魚を長年“女手一つ”で育て上げてきた実績のある私は、このメダカたちも生き長らえさせる“根拠なき自信”が実はあった。
特にメダカの育て方に関する専門情報を入手する訳でもなく、自分の経験による感覚のみに頼り、メダカの生態系を想像しつつ、水質管理や適温や酸素量、そしてエサの量を調節しながらの“子育て”の日々である。
そうとは言え、メダカの飼育ポイントはただ一つ、神経質になり過ぎないことのようである。
そもそもメダカという生物は、熱帯魚や金魚とは違ってひと昔前には日本全国どこの小川にも生息していて、小さいながらも繁殖力、生命力のある魚と私は認識している。
我が子ども時代には、このメダカを近くの小川からすくい取って来ては、女の子同士の“おままごと遊び”の一端として、すくい取ったメダカを生きたまま「串刺し目刺」にして干す、という、今思えば何とも惨たらしい遊びを楽しんだものである。
(子どもの遊びとはこの“メダカ遊び”に限らず本質的に残酷さを伴っているものである。 大人の世界を模倣、風刺しているようでもあり、また、今後大人になり行く子ども達が将来に向かって強く生き延びるための「通過儀礼」でもあるようで、大変興味深いのだが…)
このメダカの「串刺し」が上手に出来る器用な女の子が羨ましくて、近くの小川に行けばいくらでも捕獲できるメダカをすくい上げて来ては、皆で日が沈むまでせっせと「串刺し干し」作りに励んだものである。 オレンジ色の夕日を背後から受けて干されている「串刺し」にされて整然と並べられたメダカの一匹一匹が、いとも美しく透明に輝ける光景を、今尚脳裏に鮮明に記憶している私である。
話が“我が過ぎ去りし過去のノスタルジー・メダカ物語”にすり変わってしまったが、ここで我が家のクリームメダカに話を戻そう。
我が家のメダカが、先週の土曜日からある“異変”を起こしているのだ。
買い求めたメダカのエサ箱の裏面に、メダカが卵を産んだ時の注意書きが記されていたのであるが、私は我が家のメダカに関してはまさか卵を産まないと勝手に決め込んでいた。
ところが、上記写真の真ん中のメスメダカが、下腹に「卵」を抱えているのを先週の土曜日に発見したのだ! 直径1mm程の、それはそれは美しい透明の卵を下腹に十数個抱えているのだ! その後注意して観察していると、毎日午前中に産卵することが続き今日に至っている。産卵は水草の上で行われているようであるが、どうもうまく水草に定着しなかった卵が母メダカの下腹にくっついたままのようである。
卵を産んだ母メダカの警戒心たるや、凄いものがある。 私が水槽の前を横切っただけでパニック状態に陥り、水槽の壁(?)に体をぶつけて尾ヒレを損傷している有り様だ。
そのような我が家のメダカの生態を日々観察しつつ、“育ての親”である私は生命体の継承と繁栄に心を配る日々である。
このような経験は今までの熱帯魚や金魚にはないため、日々メス親の行動と「卵」の存在を確認しながら、水替やエサやりに神経を尖らせる私である。
次世代のメダカの赤ちゃんが我が水槽内に生まれるのを、心より待ち望む原左都子である。
本日(10月29日)昼間、参議院国会答弁を垣間見たが、新政権首相の主張されるところの抽象的な「友愛精神」を国民にアピールするのは、虚しいだけの思いを新たにした。 あのような陳腐な机上の道徳論で国民の関心を引こうとするよりも、(学校現場等で行われているような、単なるカリキュラムとしての上から強制の形式的なものではなく)“本気で”この国の子ども達にじかに生命体に触れる体験でもさせた方がよほど「友愛精神」が育まれるのではないかと、我がメダカの育成とあのセレブ首相の空虚な「友愛」答弁が交錯しつつ実感する私でもある。
(本日、首相は国会答弁の中で“誹謗中傷”という言葉を使用されましたが、私どもの拙いブログごときの一般国民のオピニオンも、本日の答弁で首相がおっしゃったところの“新政権に対する誹謗中傷”に当てはまるのですか?? もしそうであるならば、自らのマニフェストにがんじがらめになっている新政権が今後何を目指したいのかに関して“怖さ”さえ抱かされる本日の答弁です。 一国の首相が国会答弁において安易に“誹謗中傷”の言葉を発し政権としての“被害者意識”を公然と主張するならば、一般国民が今後公的に何らのオピニオンも述べられなくなる一種の“言論統制”のようでゾッとした私なのですが…)