元々音楽好きでジャンルを問わず大抵の音楽を受け入れられる原左都子にして、2度聴いて「もうええわ」と飽き飽きする歌に出くわすことがある。
つい最近もこの手の歌に出くわした。
実名を挙げて申し訳ないのだが、その歌とはシンガーソングライター植村花菜氏が弾き語りする 「トイレの神様」 という今年音楽賞を総なめにしているアレである。 植村氏はこの歌のヒットにより、今年のNHK紅白歌合戦にも出場が決定しているらしい。
その歌詞の内容を少しかいつまんで紹介しよう。
<小さい頃からおばあちゃんが大好きだった私は、おばあちゃんと五目並べをしたりしてよく遊んでいた。そのおばあちゃんがトイレ掃除を嫌がる私に「トイレにはトイレの女神様がいるから綺麗にすると自分もべっぴんになれるよ」とよく言っていた。私が大きくなるにつれおばあちゃんと疎遠となっていった。おばあちゃんが病気になってやっと私は病院で寝ているおばあちゃんの所へ行ったのだが、そんな私におばあちゃんは「もう帰れ」と冷たく言う。あくる日おばあちゃんは息を引き取った。私は今ではトイレ掃除が大好きだ。>
(原左都子の記憶のみに頼って書きましたので、ニュアンスが異なりましたらお詫び致します。)
どうもこの歌は若い世代に好んで受け入れられている故に、今年ヒットしているようだ。
ところが、海千山千で図太く生きている 原左都子 の評価は若者とは異なる。
そもそもこの種の“自己陶酔”系の歌とは、曲想や歌詞、そして歌唱力等総合力において相当の説得力がないと万人の心に響き渡らないものだ。
この植村氏の場合、歌唱力はある。 ところがせっかくの歌唱力の割には残念ながら楽曲自体の説得力が弱いと原左都子はみるのだ。 そのアンバランス感故に“熱唱”を端で聞いている方が恥ずかしい感覚すら抱かされて、妙に居心地が悪い。
植村氏ご本人の亡くなったおばあちゃんに対する思いを綴った歌であることは分かるが、歌詞がありきたりパターンのストーリー展開の域を超えていないが故に特段インパクトがないにもかかわらず、オーケストラをバックに長時間“朗々”と歌っているところに聴く側に“気恥ずかしさ”をもたらす要因があると分析するのだ。
メロディーラインも一度聴いたら憶えてしまう程シンプル過ぎるところが物足りなく感じられ、もう少し工夫が欲しかったものである。
この手の歌はさらりと手短に何気なく流して歌った方が、むしろインパクトがあるのかもしれない。
同様の理由で“2度聴いて飽きた”歌として、数年前にヒットした 「千の風になって」 が挙げられる。
「千の風…」の場合、秋川雅史氏が歌ったからよかった。 元々クラシックオペラ系のイケメン秋川氏がクラシック調に仕上げて、あくまでも“舞台物”として完成させ披露したからこそ絵になり、そのお陰であの歌は生命力を得てヒットしたと私は分析する。 故に、この歌を存在感のある秋川氏がご自身の持ち歌として今後舞台で歌い続ける分には何ら違和感はないどころか、一つの総合芸術作品としてまた拝見したいものである。
「千の風…」を私が聴き飽きるのは、やはりその歌詞に原因があるのかもしれない。 生命体とは死んだら「無」に戻るべきとの“死生観”に基づいて生きている私にとって、この歌詞は多少鬱陶しく感じられる。 この歌詞に描かれているように(特に身近な)死んだ人に風になられていつまでも空を吹き渡られたのでは、生きて新しい人生を切り開こうとしている人間にとってはたまったものではない。
大きく話が飛ぶが、聴くのも歌わされるのも嫌なのが学校の「校歌」ではなかろうか?
特に私の場合、一番辛い時期だった高校の校歌は(持ち前の抜群の記憶力にもかかわらず??)どういう訳かまったく憶えていない。
中学生の頃ブラスバンド部だった私は、歌った校歌よりも卒入学式や運動会の度にフルート演奏した伴奏の校歌の旋律の方をよく憶えている。
そんな私が未だに印象的なのが小学校の校歌である。 私が入学した小学校は在校中に統廃合対象となり今は存在しないのだが、その校歌のみは鮮明に覚えているのだ。
既にこの世から消え去ったその伝統ある歌詞を、私の幼き日の記憶を元に再現してここで紹介しよう。 (これを憶えているのは私のみかもしれないが、もしもこの小学校の歴代出身者でご記憶の方がおられるならば是非共ご連絡いただきたいものである。)
♪ ○○(地名)の浦に 年経て 寄る波も同じところに
かえるなり かえるなり ゆかし郷土に
輝ける ○○校(小学校の名前) ♪
こんな由緒正しき校歌が、統廃合と共に以下のごとく軽薄短小化されてしまった…。
♪ みんな元気で頑張ろう 我らの力 ○○小学校 ♪
まったく「勘弁してよ」である。 こんな陳腐な歌詞など小学生とてアホ臭くて歌ってられないというものだ。
30代にして自らの意志で修士修了まで6年間学問に励んだ大学の校歌は、自分から好んで歌ったものだ。 この校歌のサビの部分の歌詞が、何とも身の程知らずで凄いのだ!
西條八十作詞、古関裕而作曲 我が出身大学校歌のサビの部分の歌詞を以下に紹介しよう。
♪ あ~~ ○○大(大学名)の 俊英(しゅんえ~~い♪) 我ら~ ♪
ここまで“いけしゃーしゃー”と自分を讃えりゃ、ストレスもぶっ飛んですっきりするというものだ。
たかが歌、されど歌、……
出来れば自分のお気に入りの歌をいつも口ずさんでいたいと思いつつ、上記 “俊英(しゅんえ~~い♪)校歌 を我が子幼き頃より幾度も披露し一緒に合唱させている原左都子である♪
つい最近もこの手の歌に出くわした。
実名を挙げて申し訳ないのだが、その歌とはシンガーソングライター植村花菜氏が弾き語りする 「トイレの神様」 という今年音楽賞を総なめにしているアレである。 植村氏はこの歌のヒットにより、今年のNHK紅白歌合戦にも出場が決定しているらしい。
その歌詞の内容を少しかいつまんで紹介しよう。
<小さい頃からおばあちゃんが大好きだった私は、おばあちゃんと五目並べをしたりしてよく遊んでいた。そのおばあちゃんがトイレ掃除を嫌がる私に「トイレにはトイレの女神様がいるから綺麗にすると自分もべっぴんになれるよ」とよく言っていた。私が大きくなるにつれおばあちゃんと疎遠となっていった。おばあちゃんが病気になってやっと私は病院で寝ているおばあちゃんの所へ行ったのだが、そんな私におばあちゃんは「もう帰れ」と冷たく言う。あくる日おばあちゃんは息を引き取った。私は今ではトイレ掃除が大好きだ。>
(原左都子の記憶のみに頼って書きましたので、ニュアンスが異なりましたらお詫び致します。)
どうもこの歌は若い世代に好んで受け入れられている故に、今年ヒットしているようだ。
ところが、海千山千で図太く生きている 原左都子 の評価は若者とは異なる。
そもそもこの種の“自己陶酔”系の歌とは、曲想や歌詞、そして歌唱力等総合力において相当の説得力がないと万人の心に響き渡らないものだ。
この植村氏の場合、歌唱力はある。 ところがせっかくの歌唱力の割には残念ながら楽曲自体の説得力が弱いと原左都子はみるのだ。 そのアンバランス感故に“熱唱”を端で聞いている方が恥ずかしい感覚すら抱かされて、妙に居心地が悪い。
植村氏ご本人の亡くなったおばあちゃんに対する思いを綴った歌であることは分かるが、歌詞がありきたりパターンのストーリー展開の域を超えていないが故に特段インパクトがないにもかかわらず、オーケストラをバックに長時間“朗々”と歌っているところに聴く側に“気恥ずかしさ”をもたらす要因があると分析するのだ。
メロディーラインも一度聴いたら憶えてしまう程シンプル過ぎるところが物足りなく感じられ、もう少し工夫が欲しかったものである。
この手の歌はさらりと手短に何気なく流して歌った方が、むしろインパクトがあるのかもしれない。
同様の理由で“2度聴いて飽きた”歌として、数年前にヒットした 「千の風になって」 が挙げられる。
「千の風…」の場合、秋川雅史氏が歌ったからよかった。 元々クラシックオペラ系のイケメン秋川氏がクラシック調に仕上げて、あくまでも“舞台物”として完成させ披露したからこそ絵になり、そのお陰であの歌は生命力を得てヒットしたと私は分析する。 故に、この歌を存在感のある秋川氏がご自身の持ち歌として今後舞台で歌い続ける分には何ら違和感はないどころか、一つの総合芸術作品としてまた拝見したいものである。
「千の風…」を私が聴き飽きるのは、やはりその歌詞に原因があるのかもしれない。 生命体とは死んだら「無」に戻るべきとの“死生観”に基づいて生きている私にとって、この歌詞は多少鬱陶しく感じられる。 この歌詞に描かれているように(特に身近な)死んだ人に風になられていつまでも空を吹き渡られたのでは、生きて新しい人生を切り開こうとしている人間にとってはたまったものではない。
大きく話が飛ぶが、聴くのも歌わされるのも嫌なのが学校の「校歌」ではなかろうか?
特に私の場合、一番辛い時期だった高校の校歌は(持ち前の抜群の記憶力にもかかわらず??)どういう訳かまったく憶えていない。
中学生の頃ブラスバンド部だった私は、歌った校歌よりも卒入学式や運動会の度にフルート演奏した伴奏の校歌の旋律の方をよく憶えている。
そんな私が未だに印象的なのが小学校の校歌である。 私が入学した小学校は在校中に統廃合対象となり今は存在しないのだが、その校歌のみは鮮明に覚えているのだ。
既にこの世から消え去ったその伝統ある歌詞を、私の幼き日の記憶を元に再現してここで紹介しよう。 (これを憶えているのは私のみかもしれないが、もしもこの小学校の歴代出身者でご記憶の方がおられるならば是非共ご連絡いただきたいものである。)
♪ ○○(地名)の浦に 年経て 寄る波も同じところに
かえるなり かえるなり ゆかし郷土に
輝ける ○○校(小学校の名前) ♪
こんな由緒正しき校歌が、統廃合と共に以下のごとく軽薄短小化されてしまった…。
♪ みんな元気で頑張ろう 我らの力 ○○小学校 ♪
まったく「勘弁してよ」である。 こんな陳腐な歌詞など小学生とてアホ臭くて歌ってられないというものだ。
30代にして自らの意志で修士修了まで6年間学問に励んだ大学の校歌は、自分から好んで歌ったものだ。 この校歌のサビの部分の歌詞が、何とも身の程知らずで凄いのだ!
西條八十作詞、古関裕而作曲 我が出身大学校歌のサビの部分の歌詞を以下に紹介しよう。
♪ あ~~ ○○大(大学名)の 俊英(しゅんえ~~い♪) 我ら~ ♪
ここまで“いけしゃーしゃー”と自分を讃えりゃ、ストレスもぶっ飛んですっきりするというものだ。
たかが歌、されど歌、……
出来れば自分のお気に入りの歌をいつも口ずさんでいたいと思いつつ、上記 “俊英(しゅんえ~~い♪)校歌 を我が子幼き頃より幾度も披露し一緒に合唱させている原左都子である♪