原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「ママ友」達よ 新時代をどう渡る?

2011年05月27日 | 人間関係
 朝日新聞5月20日のテレビ番組欄“記者レビュー”に於いて 「たかがママ友、でも…」 と題する記事を発見した。

 この朝日新聞“記者レビュー”との記事は、朝日新聞の一記者が気になったテレビ番組をピックアップして、それに対する短めのコメントを述べるコラム欄であるようだ。 
 参考のため、今回の記事の対象番組「名前をなくした女神」(フジ系火曜夜9時から放映中)を私は見ていないし、今後も見る意思はまったくない。
 それでも今回の朝日新聞記者によるこの番組に対するコラムは、読者、特に現役の「ママ友」達に何らかの影響を及ぼす発信力があると捉えるため、以下に要約して紹介することにしよう。

 主人公の侑子は悪気のかけらもない専業主婦だが、息子が通う幼稚園で母親達のバトルに巻き込まれていく。 周囲には売れっ子モデル母、神経質な夫に管理される母、夫の浮気を確信する母等々、様々な「ママ友」仲間がいる中で、売れっ子モデル母に憧れて無理な背伸びをして悪意のある嘘を重ねる一母に至っては呆れて言葉も出ない。
 しかしここにきて、それよりも違和感を感じるようになった母がいる。 それは主人公の侑子だ。 どう見ても不条理な目にあっているのに彼女は何の反撃もしない。 「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」という侑子のセリフが折に触れ何度も出てくる。
 生まれも育ちも価値観も異なる「ママ友」達と一定の人間関係を築かねばならない心労は想像に難くないが、ただ侑子のごとく息をひそめて嵐が通り過ぎるのを待つことが賢明なのか? このドラマは一体どんな答を用意しているのだろう。
 (以上は、朝日新聞“記者プレビュー”より要約引用)


 原左都子の私論に入ろう。

 私は本エッセイ集の2009年5月のバックナンバーに於いて、「ママ友付き合いの過酷な試練」 と題する“ママ友”関連の記事を既に綴り公開している。
 (「原左都子エッセイ集」は今現在記事本数が600本に近づいているが、必然的に記事のテーマがバックナンバーと交錯する事がある。 今回も上記2009年5月の我がバックナンバーの記事の趣旨を再度ピックアップしつつ、現時点での原左都子の見解も交えながら以下に私論を展開させていただくことをご容赦いただきたい。)

 以下は、2009年5月バックナンバー「ママ友付き合いの過酷な試練」の要約である。

 「ママ友」ねえ。
 この言葉自体に子どもを産む以前よりアレルギーがあるとも言える私であるが、一応子育てをしている私もそういう“苦難の時代”を経験してきている。
 高齢出産で子どもを設けた私であり、当時としては周囲のママ達より一回りも二周りも上の年代の私であるし、また長い独身時代に仕事や学業に励むことを生業としていた私にとっては、女性よりも男性の友人が圧倒的に多かったのが事実である。 そんな私はその特殊なバックグラウンド故に子供を産んだ後も「ママ友」と直接対峙する機会は少ないのではないかと“安易”に考えていた。
 子どもが高校生になっている今現在は、既に「ママ友」というべき相手との義務的付き合いは修了して正直なところ心より“清々”している私である。 だが、子どもが小学校卒業までの期間は、やはりこの私も「ママ友」付き合いの“鬱陶しさ”を避けては通れなかったものである。 その実態を我が子幼き頃から振り返ると、例えば“公園デビュー”、“習い事” “学校のPTA” それらの場面で「ママ友」との付き合いを望まずとて強要される機会は数多かったものである。
 「ママ友」付き合いとは、自分独り身で統治できる範疇を超えて、可愛い我が子がからむが故に難儀さを伴う人間関係である。そのため母親が苦悩に陥らざるを得ない事象であろう。 それを承知の上で、例えば何故に“公園デビュー”するのか“習い事”をさせるのか等々を親として再考する余裕を持つべきなのだ。 如何なる場にあっても親である母自身が友達を作るのはもちろん大いに好ましい事である。 そこで今一度初心に戻って子どもを育てるという観点から、母が一人格者の立場で付き合う価値がある相手か否かを自らが判断していけばよいことではあるまいか。
 友達関係とはあくまでも自然発生的に出来上がってくるものと私論は捉えている。 気がついたらどういう訳か親しくなっているというのが、友達という存在なのではなかろうか? 下手に故意に仕立て上げた人間関係というのは弊害が大きく、早期に脆く崩れ去る運命にあるものだ。 可愛い我が子のためらば尚さら「ママ友」付き合いは無理をせず、慎重に対処するべきと捉えて、私は子どもを育ててきているのだが…。
 

 上記の記事を綴った後2年が経過した今現在、我が子は高3生となり大学受験直前期に突入している。
 そんな状況下にあるつい先だって、娘の学級のPTA(要するに「ママ友」連中)から、子供の推薦入学を有利にゲットしようとの魂胆かどうかは計り知れないが、ママ達が担任の先生を誘って居酒屋で懇親会を開くからそれに参加せよ、云々の伝達文書が流れてきた。
 我が子は私学在学中なのだが、私学では「ママ友」連中が学校の教師達にこのような形で“迎合”しないと子供の大学推薦はゲット出来ないものなのだろうか!?? との大いなる疑義を抱かされる原左都子なのである。(なんせ幼稚園から大学院まで国公立しか知らない私である…) 確かに学校の教師達といえども“ママ連中”に「先生、一杯いかが~。ウッフ~ン」などと迎合されるとその気にもなりそうだよね~~。???
 だが、我が人生を自己の“実力”のみで渡ってきている原左都子としては、こんな場面で「ママ友」どもとつるんで教師に迎合している場合ではないのだ! 我が子が自分の実力を今後さらに充実させてくれることに期待しつつ、厳しい受験戦争を親子で乗り越えていきたいものである。


 話を朝日新聞“記者レビュー”の「ママ友」話題に戻そう。

 ドラマの主人公である侑子さんの思いが原左都子は分からないではない。 このドラマにおいて侑子さんとは、どうやら社会経験が乏しい若き専業主婦との設定であるようだ。 そうした場合においては、生まれも育ちも価値観も異なる”「ママ友」どもとの人間関係を今後築いていけるのかとの現状に瀕して、大いなる不安材料を感じてしまう侑子さんの心理状態は自然であろう。 そこで、ここは「ママ友なんて所詮子供が小さい時だけの付き合い」と割り切って息をひそめつつ子育て年月を過ごすという侑子さんの“解決策”は否定できないのではあるまいか。
 
 今一度、「ママ友」ねえ。
 我が子の高校卒業と共にもうすぐその種の自分が望まない“鬱陶しい”人間関係が完全終焉を迎えることにウキウキ、清々感が否めない原左都子である。
 正直言って、産んだ子供がたまたま同世代という理由のみで、何でこんなにも人生観も価値観も生き様も異なる相手達と時空間を共有せねばならなかったのかとのつまらない記憶の「ママ友」達は、我が脳裏からすぐさま消え去ることであろう。

 それにしても、時代は大きく変遷しているように私の目には映るのだ。
 大都会に暮らす我が家の近くを行き交う若い母親達が“つるんで”いる姿を見ないようになった。 よく言えば、今の世代の人達とは日本古来の自分が望まない“集団力学”などに左右されることなく、交友関係を創り上げているとも表現できるのではなかろうか?

 ドラマの侑子さんも何もくだらない「ママ友」関係のせいで、息をひそめて暮らすことなどないのだ。 自分にとって鬱陶しいのみで何らプラスにならない「ママ友」どもとの関係など思い切ってぶった斬って、母親として毅然とした方がむしろ子供とは健全に育つものであるとアドバイスしたいものだ。
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