今年のゴールデンウィークは、カレンダー上本日からの3連休を除き5月8日まで飛び石状態である。
高校生の娘を持つ母親の身としては、1日朝寝坊をした翌日は早起きして弁当作りを余儀なくされる繰り返しで、連休中でゴロゴロ寛ぐ身内を横目に少しも休んだ気にはなれない。
まあ主婦の立場とは盆暮れ及び5月の連休は長期家族旅行にでも行かない限り、普段以上に家事に追われることを強要される宿命にあるのだけどね…
娘の大学受験が目前に迫っている今、その結果が出せる来春までは長期旅行の予定など立てている場合ではない「お抱え家庭教師」の原左都子の今年の連休は、至って地味な日々である。
そんな“地味な連休”前半に原左都子が見聞した「東日本大震災」関連諸報道等を通して揺れ動いた“心のひだ”を、今回の記事において思いつくままに列挙してみることにしよう。
先週末にはフィギュア世界選手権大会をテレビにて観賞した。
そもそも3月末に東京にて開催予定であったこの大会は、「東日本大震災」(特に「福島第一原発事故」がもたらした放射能汚染)の影響で1ヶ月遅れで場所もモスクワに移しての開催だった。
男女シングルのみに関してこの大会を振り返ってみることにしよう。
男子は小塚崇彦選手が銀メダルを取得した。 特にフリーにおいてノーミス演技を披露したことが小塚選手の銀メダルに繋がったことをとりあえず祝福しよう。
原左都子個人的には、高橋大輔選手の力強い技術力そして情感溢れる演技力や、織田選手の流れるように美しい演技力に期待していた。 ところが、ビスがはずれるという信じ難いトラブルに巻き込まれた高橋選手がメダルを逃がしたのは残念であるが、それも自己責任の範囲であろう。
小塚選手はフリーでは確かに頑張ったものの、手の動き等の繊細な表現力を含めた全体的な芸術性にまだまだ課題があろうことを私は感じた。 今回の小塚選手の銀メダルは大会組織からの“何らかのご褒美”だったのかとの印象を受けたのが、私の正直な感想である。
片や、女子は安藤美姫選手が金メダルを獲得した。
こちらも、ショート、フリー共にノーミスの演技ではあった。 ところが、今時3回転3回転の連続ジャンプさえ一度も飛べずして、世界大会で優勝を勝ち取れるのであろうか?との大いなる疑惑が湧き出ている原左都子だ。
1年ぶりに国際大会の大舞台に復帰したキム・ヨナ選手の技術力、演技力はやはり“ダントツ世界一”だったと私は感じる。 ショート、フリー共々少々のミスをしたことが銀メダルの結果を導いたのであろうが、それにしても安藤選手の高得点は過去の世界大会に比して異例だったのではあるまいか?
結局は、今回モスクワに場所を移して開催されたフィギュア世界選手権大会において「東日本大震災」“レクイエム感覚”が大会組織委員会に大いに蔓延り、日本代表ならば誰でもいいからメダルを授与するべく大会組織委員会が裏で打ち合わせをしていたのであるまいか?? それが証拠に、エキシビションでは「東日本大震災」を追悼するべく式典が繰り広げられた様子である。(私は見ていないのだが)
今回の「フィギュア世界選手権大会」も含め、世界中が「東日本大震災」を追悼してくれることは原左都子としても一応ありがたくは思っている。
ところが、これらの“他人事思想”に基づいた「国際政治関係維持目的」の影像を見て一緒に“お涙頂戴”して感情移入しているのは、実は“被災者ではない日本国民”がほとんどなのである。
被災地の現状とは、上記のような娯楽スポーツテレビ番組など見る暇も精神的余裕もなく時が流れているのが実情なのだ。
話を現実に戻すと、本日(5月3日現在)の「東日本大震災」による死者・行方不明者の総数は2万数千人の規模である。
被災者の多くの方々は大震災発生以降もうすぐ2ヶ月が経過しようとしている今尚、家族が生きていることを祈りつつ、日々がれきに埋もれた自宅周辺に足を運び声をかけ、そしてあちこちの避難所を巡り、自らの家族を探して彷徨っているのだ。
上記の「フィギュア世界大会」のみならず海外から日本に届く数々の「復興」激励に“お涙頂戴”して喜んでいるのは、結局被災地現場に於ける過酷で悲惨な実態を知らない(あるいはそれを想像できない)地域に居住する国民だけなのではなかろうか??
同時にテレビ報道を筆頭に各種メディアも“非被災者の軽薄な思考”から視聴率を得る事を頼って、そのような影像を流すのは如何なものだろう?
「自粛」に関しても同様である。
「自粛」「自粛」とうるさくメッセージを発信しているのは、結局は日本に於ける“被災していない地域”からのみだ。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて私論を既に述べているが、今回の大震災に関しての「自粛」とは個人の意思の範囲で判断するべきと私は考えている。
にもかかわらず、相変わらず「自粛」を指導しようとの意思がバレバレの著名人からのメッセージがあれば、はたまた非被災地の国民の間には「自粛」しなくていいとの“根拠なき責任逃れ発言”も横行している。
そんな中、私論と同趣旨の“とある著名人”の記述を新聞にて発見した。
被災地域ではない地域に暮らす著名人が何故に「自粛」「自粛」と騒いでいるのかと言うと、それは世間からの“バッシング”を回避したいからに過ぎない、との一文はその通りであろう。
世間からの“バッシング”を恐れつつ「自粛」を演じて生きねばならない立場にある著名人が於かれている現実を原左都子も慮る反面、今回の「東日本大震災」が被った被害とは、一著名人が愚かな私欲や恐れを優先して済む問題ではない程に、その負担は今後自分に覆いかぶさってくることであろう。
例えばの話、本日(5月3日)の朝日新聞朝刊記事によると、原発賠償金案は4兆円の巨額になるとの試算である。
そりゃそうでしょう。 何の罪もない福島県民が現在被っている被害とはこの金額で保障されたとて償い切れないのは歴然である。
この東電福島原発事故による賠償金の一部を、東電利用者である一般市民が担う案であるようだ。 東電を利用している地域では、どうやら今後電気料金が2割高になるとの試案である。
こうなるとフクシマに住んでいない非被災者にして、国や東電に対して「誰が原発に賛成したのか!!?」「少なくとも、私は原発建設に反対だったよ!」とでも言いたくもなるというものでもあろう。
そこで今回の記事の最後に、朝日新聞が大震災発生以降発信している、著名人からのメッセージを毎回取り上げたコラム「生きていくあなたへ」の4月24日の“私たちこそ頑張ろう”と題する記事を紹介しよう。
“ソウル・フラワー・ユニオン”と名乗る音楽グループのボーカルである中川敬氏は上記記事に於いて以下のように述べておられる。(要約して一部のみ紹介しよう。)
チェルノブイリ事故以降、反原発ライブを企画したりしたが、自分の中で「反原発」は当然になり過ぎてむしろちゃんと声を上げていなかったことを反省する。 そんな自分は被災した(朝日新聞のタイトルである)「生きていくあなたへ」簡単には言葉は出ない。この欄が「生きていく私たち」ならばしっくりくるけど…。 「被災していない私たち」こそ頑張らないとね。 次世代エネルギーなど新しい生き方が求められているのも我々自身。 ここから本当にこの国が変わらないと。
大震災発生以降シリーズとして発信し続けている朝日新聞上記記事に於いて、原左都子が同意できたのは今回の中川敬氏の記事が初めてである。
高校生の娘を持つ母親の身としては、1日朝寝坊をした翌日は早起きして弁当作りを余儀なくされる繰り返しで、連休中でゴロゴロ寛ぐ身内を横目に少しも休んだ気にはなれない。
まあ主婦の立場とは盆暮れ及び5月の連休は長期家族旅行にでも行かない限り、普段以上に家事に追われることを強要される宿命にあるのだけどね…
娘の大学受験が目前に迫っている今、その結果が出せる来春までは長期旅行の予定など立てている場合ではない「お抱え家庭教師」の原左都子の今年の連休は、至って地味な日々である。
そんな“地味な連休”前半に原左都子が見聞した「東日本大震災」関連諸報道等を通して揺れ動いた“心のひだ”を、今回の記事において思いつくままに列挙してみることにしよう。
先週末にはフィギュア世界選手権大会をテレビにて観賞した。
そもそも3月末に東京にて開催予定であったこの大会は、「東日本大震災」(特に「福島第一原発事故」がもたらした放射能汚染)の影響で1ヶ月遅れで場所もモスクワに移しての開催だった。
男女シングルのみに関してこの大会を振り返ってみることにしよう。
男子は小塚崇彦選手が銀メダルを取得した。 特にフリーにおいてノーミス演技を披露したことが小塚選手の銀メダルに繋がったことをとりあえず祝福しよう。
原左都子個人的には、高橋大輔選手の力強い技術力そして情感溢れる演技力や、織田選手の流れるように美しい演技力に期待していた。 ところが、ビスがはずれるという信じ難いトラブルに巻き込まれた高橋選手がメダルを逃がしたのは残念であるが、それも自己責任の範囲であろう。
小塚選手はフリーでは確かに頑張ったものの、手の動き等の繊細な表現力を含めた全体的な芸術性にまだまだ課題があろうことを私は感じた。 今回の小塚選手の銀メダルは大会組織からの“何らかのご褒美”だったのかとの印象を受けたのが、私の正直な感想である。
片や、女子は安藤美姫選手が金メダルを獲得した。
こちらも、ショート、フリー共にノーミスの演技ではあった。 ところが、今時3回転3回転の連続ジャンプさえ一度も飛べずして、世界大会で優勝を勝ち取れるのであろうか?との大いなる疑惑が湧き出ている原左都子だ。
1年ぶりに国際大会の大舞台に復帰したキム・ヨナ選手の技術力、演技力はやはり“ダントツ世界一”だったと私は感じる。 ショート、フリー共々少々のミスをしたことが銀メダルの結果を導いたのであろうが、それにしても安藤選手の高得点は過去の世界大会に比して異例だったのではあるまいか?
結局は、今回モスクワに場所を移して開催されたフィギュア世界選手権大会において「東日本大震災」“レクイエム感覚”が大会組織委員会に大いに蔓延り、日本代表ならば誰でもいいからメダルを授与するべく大会組織委員会が裏で打ち合わせをしていたのであるまいか?? それが証拠に、エキシビションでは「東日本大震災」を追悼するべく式典が繰り広げられた様子である。(私は見ていないのだが)
今回の「フィギュア世界選手権大会」も含め、世界中が「東日本大震災」を追悼してくれることは原左都子としても一応ありがたくは思っている。
ところが、これらの“他人事思想”に基づいた「国際政治関係維持目的」の影像を見て一緒に“お涙頂戴”して感情移入しているのは、実は“被災者ではない日本国民”がほとんどなのである。
被災地の現状とは、上記のような娯楽スポーツテレビ番組など見る暇も精神的余裕もなく時が流れているのが実情なのだ。
話を現実に戻すと、本日(5月3日現在)の「東日本大震災」による死者・行方不明者の総数は2万数千人の規模である。
被災者の多くの方々は大震災発生以降もうすぐ2ヶ月が経過しようとしている今尚、家族が生きていることを祈りつつ、日々がれきに埋もれた自宅周辺に足を運び声をかけ、そしてあちこちの避難所を巡り、自らの家族を探して彷徨っているのだ。
上記の「フィギュア世界大会」のみならず海外から日本に届く数々の「復興」激励に“お涙頂戴”して喜んでいるのは、結局被災地現場に於ける過酷で悲惨な実態を知らない(あるいはそれを想像できない)地域に居住する国民だけなのではなかろうか??
同時にテレビ報道を筆頭に各種メディアも“非被災者の軽薄な思考”から視聴率を得る事を頼って、そのような影像を流すのは如何なものだろう?
「自粛」に関しても同様である。
「自粛」「自粛」とうるさくメッセージを発信しているのは、結局は日本に於ける“被災していない地域”からのみだ。
「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いて私論を既に述べているが、今回の大震災に関しての「自粛」とは個人の意思の範囲で判断するべきと私は考えている。
にもかかわらず、相変わらず「自粛」を指導しようとの意思がバレバレの著名人からのメッセージがあれば、はたまた非被災地の国民の間には「自粛」しなくていいとの“根拠なき責任逃れ発言”も横行している。
そんな中、私論と同趣旨の“とある著名人”の記述を新聞にて発見した。
被災地域ではない地域に暮らす著名人が何故に「自粛」「自粛」と騒いでいるのかと言うと、それは世間からの“バッシング”を回避したいからに過ぎない、との一文はその通りであろう。
世間からの“バッシング”を恐れつつ「自粛」を演じて生きねばならない立場にある著名人が於かれている現実を原左都子も慮る反面、今回の「東日本大震災」が被った被害とは、一著名人が愚かな私欲や恐れを優先して済む問題ではない程に、その負担は今後自分に覆いかぶさってくることであろう。
例えばの話、本日(5月3日)の朝日新聞朝刊記事によると、原発賠償金案は4兆円の巨額になるとの試算である。
そりゃそうでしょう。 何の罪もない福島県民が現在被っている被害とはこの金額で保障されたとて償い切れないのは歴然である。
この東電福島原発事故による賠償金の一部を、東電利用者である一般市民が担う案であるようだ。 東電を利用している地域では、どうやら今後電気料金が2割高になるとの試案である。
こうなるとフクシマに住んでいない非被災者にして、国や東電に対して「誰が原発に賛成したのか!!?」「少なくとも、私は原発建設に反対だったよ!」とでも言いたくもなるというものでもあろう。
そこで今回の記事の最後に、朝日新聞が大震災発生以降発信している、著名人からのメッセージを毎回取り上げたコラム「生きていくあなたへ」の4月24日の“私たちこそ頑張ろう”と題する記事を紹介しよう。
“ソウル・フラワー・ユニオン”と名乗る音楽グループのボーカルである中川敬氏は上記記事に於いて以下のように述べておられる。(要約して一部のみ紹介しよう。)
チェルノブイリ事故以降、反原発ライブを企画したりしたが、自分の中で「反原発」は当然になり過ぎてむしろちゃんと声を上げていなかったことを反省する。 そんな自分は被災した(朝日新聞のタイトルである)「生きていくあなたへ」簡単には言葉は出ない。この欄が「生きていく私たち」ならばしっくりくるけど…。 「被災していない私たち」こそ頑張らないとね。 次世代エネルギーなど新しい生き方が求められているのも我々自身。 ここから本当にこの国が変わらないと。
大震災発生以降シリーズとして発信し続けている朝日新聞上記記事に於いて、原左都子が同意できたのは今回の中川敬氏の記事が初めてである。