原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

忘却の彼方に遠のいていた郷里の光景 -1-

2016年06月09日 | 旅行・グルメ
 (写真は、私が45年前に卒業した中学校の現在の姿。)


 5月下旬より6月初旬にかけ出かけた我が旅行の第一目的は、郷里に一人暮らす実母を介護施設に入居させる段取りを整える事だった。

 長時間の歩行が不能な母を施設見学に連れ回す事が叶わないため、とりあえず娘の私一人で出来得る限り施設を訪れる方策を立てていた。

 
 それに先立ち久々の郷里の観光も視野に入れ、単身でホテルに連泊する予定を組んでいた。
 何故ならば、せっかくの一人旅の旅程を高齢者施設巡りと実母の相手のみで済ませるのも、何だか気が滅入りそうな予感があったからだ。


 さて、航空便にて到着初日に一件の介護施設を訪れた後、ホテルにて阿波会食の夕餉を楽しんだ。(今回は、この夕餉に関しては割愛させていただく。)

 そして翌日は午前中にもう一件の介護施設見学を済ませた後、その足で路線バスに乗り、我が郷里にての生活の場として一番長かった鳴門市へと観光(及び視察?)に出かけた。


 その路線バス内で撮影したのが、冒頭の写真だ。
 基本的に学校嫌いの私だが、郷里に於ける中学時代と大学時代は主体的に充実した日々を送れた感覚がある。

 私が卒業した市立中学校は市の中央に位置し、市内一の規模と歴史を誇る学校であった。 そのため生徒数も多ければ、学業面や諸活動実績の程も県内有数の中学校だった。
 特に女子の制服は太い一本線のセーラー服が特徴的だったが、これを着ることが女子生徒の名誉であった感覚もある。


 冒頭の写真にご注目いただくと、私が12歳でこの中学校に入学した時には、写真左手側の校舎が我が1年生時の教室だった。 当時はその校舎が校内で一番新しく建設された鉄筋の建物だったと認識している。 今は既にその建物は取り崩され、現在は写真の建物に移り代わっている。

 そして我が記憶によれば、右隣の建物は昔は木造だったと振り返る。 そこには図工教室があり、特に工作が苦手な私は、石膏細工で人の頭部を作り上げる作業に難儀した思い出があるのだ。

 我が卒業後の遠い昔に既に木造校舎は取り崩され、その後鉄筋に建て替えられたのであろうが、その鉄筋校舎が今回取り崩し中だったことが興味深い。
 そりゃそうだろうなあ。 私が卒業してから既に45年程の年月が流れている。 もしかしたら左側の建物も、我が卒業後から2度建て替えられたのかもしれない。  大震災が頻発する現在、震災強度面で不適格との判断が下ったために建て替えを余儀なくされている事も考察出来よう。


 この校舎を路線バスの車窓から眺めたのは平日の昼前だったのだが、何故か生徒をはじめ人気(ひとけ)が一切無かった事が気にかかる。

 単に運動会か何かの代休だったのだろうが、もしかしたら、久々に郷里に戻った私に昔の中学校時代の郷愁を思い起こさせてくれるがために、校舎が静寂を保っていてくれていたのかもしれない気もする。