(写真は、徳島県鳴門市に位置する大塚国際美術館 B2階の外庭 モネの「大睡蓮」 にて撮影したもの。)
前回のエッセイにて紹介した“まずかったランチ”のお口直しに、今度こそは“美しい庭園”の話題に移ろう。
モネの「大睡蓮」と銘打つ当該美術館の外庭が、はてさて、モネの傑作を再現できているか否かはともかく、確かにこの庭は美しい。
大きな楕円形の外周を「池」と見立て、実際に睡蓮を池内に生育させているようだ。
この時期の睡蓮とは上記写真のごとく、小さい花が咲き始める頃なのだろうか?
それを知りたく思い、先程睡蓮に関するネット情報を検索したところ、以下の記述が見つかった。
睡蓮は水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。 葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。 葉の表面に強い撥水性はない。 多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。 根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。
なるほど。 睡蓮の花とは大きくて直径5~10㎝程度なのだ。
と言うことは、私が6月初旬に大塚美術館の外池にて観察した睡蓮の花も、既に立派に咲いた成花だったのかもしれない。
睡蓮と蓮のイメージがダブる私は、この花がもっと大きく立派に育つのかと勘違いし、その時期にこの池を今一度訪れたいと志したのは誤りだったようだ。
ここで、クロード・モネ氏が連作した「睡蓮」に関する情報の一部をウィキペディアより紹介しよう。
「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作した。 もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。 『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。
1893年には自宅の土地を買い増して池を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造ったものである。 本格的にこのテーマに取り組むのは1899年からである。 同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制作された。 1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。
その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をしていない。 この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。
1914年頃から制作を再開。 縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。 視力が悪くても大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。 最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)
画家 クロード・モネ氏が自宅の庭に睡蓮の池を作り、亡くなるまでの30年程の期間 視力の衰えにもかかわらず「睡蓮」画制作に傾注したとのことだ。 晩年に近い頃には大キャンヴァスに睡蓮を描いたとのエピソードは驚くばかりだ。
それ程までに、人生後半を「睡蓮」に捧げ、それを愛し続けた画家の人生は賞賛されるべきだろう。
このモネの「大睡蓮」の外庭が美しいと判断する、もう一つの原左都子なりの評価を語ろう。
大塚国際美術館とは、国立公園「鳴門公園」内に存在している。 そうだとすると、自ずとその鳴門公園の恩恵に与っている事も確かだ。
まさにその通り、この「大睡蓮」の庭から瀬戸内海に位置する鳴門の海が展望出来るのだ。 両者がコラボレートした風景とは絶景に間違いなかった。
その風景を展望出来る事自体が、名画を超えた真の芸術であろうと評価する。
徳島県鳴門市出身の(郷里嫌いの天邪鬼)原左都子としても、そんな風景に私なりに納得出来た事が、今回の旅の醍醐味でもあった事実を一応認めておこう。
前回のエッセイにて紹介した“まずかったランチ”のお口直しに、今度こそは“美しい庭園”の話題に移ろう。
モネの「大睡蓮」と銘打つ当該美術館の外庭が、はてさて、モネの傑作を再現できているか否かはともかく、確かにこの庭は美しい。
大きな楕円形の外周を「池」と見立て、実際に睡蓮を池内に生育させているようだ。
この時期の睡蓮とは上記写真のごとく、小さい花が咲き始める頃なのだろうか?
それを知りたく思い、先程睡蓮に関するネット情報を検索したところ、以下の記述が見つかった。
睡蓮は水位が安定している池などに生息し、地下茎から長い茎を伸ばし、水面に葉や花を浮かべる。 葉は円形から広楕円形で円の中心付近に葉柄が着き、その部分に深い切れ込みが入る。 葉の表面に強い撥水性はない。 多くの植物では気孔は葉の裏側にあるが、スイレンでは葉の表側に分布する。 根茎から直接伸びる花柄の先端に直径5-10cmほどの花をつける。
なるほど。 睡蓮の花とは大きくて直径5~10㎝程度なのだ。
と言うことは、私が6月初旬に大塚美術館の外池にて観察した睡蓮の花も、既に立派に咲いた成花だったのかもしれない。
睡蓮と蓮のイメージがダブる私は、この花がもっと大きく立派に育つのかと勘違いし、その時期にこの池を今一度訪れたいと志したのは誤りだったようだ。
ここで、クロード・モネ氏が連作した「睡蓮」に関する情報の一部をウィキペディアより紹介しよう。
「光の画家」と呼ばれたモネは、同じモチーフを異なった時間、異なった光線の下で描いた連作を数多く制作した。 もっとも作品数が多く、モネの代名詞ともなっているのが1890年代終わりから描きはじめた『睡蓮』の連作である。 『睡蓮』はジヴェルニーの自宅の庭にある睡蓮の池をモチーフに、1899年から1926年に亡くなるまでの間に全部で200点以上制作されている。
1893年には自宅の土地を買い増して池を造り、1901年にはエプト川の水を引き込んで池を拡張した。しばしば絵のモチーフになっている日本風の橋は1895年に造ったものである。 本格的にこのテーマに取り組むのは1899年からである。 同年から翌1900年にかけて、睡蓮と日本風の橋とをテーマとした連作を手がけ、18点が制作された。 1900年頃からの晩年には他の絵はあまり描かなくなり、もっぱら『睡蓮』に傾注した。
その後、1909年から1913年頃までは視力の悪化のため、あまり制作をしていない。 この間、1911年5月には2番目の妻アリスが病死。実子のジャンも1914年に没した。
1914年頃から制作を再開。 縦1メートル、横2メートル、あるいはそれ以上の大キャンヴァスにもっぱら描くようになる。 視力が悪くても大画面に描き、遠くから眺めれば何とか制作できることがわかったからである。 最晩年の「日本の橋」や「バラの小道」をテーマとした作品群はほとんど抽象に近づいている。
(以上、ウィキペディア情報より一部を引用したもの。)
画家 クロード・モネ氏が自宅の庭に睡蓮の池を作り、亡くなるまでの30年程の期間 視力の衰えにもかかわらず「睡蓮」画制作に傾注したとのことだ。 晩年に近い頃には大キャンヴァスに睡蓮を描いたとのエピソードは驚くばかりだ。
それ程までに、人生後半を「睡蓮」に捧げ、それを愛し続けた画家の人生は賞賛されるべきだろう。
このモネの「大睡蓮」の外庭が美しいと判断する、もう一つの原左都子なりの評価を語ろう。
大塚国際美術館とは、国立公園「鳴門公園」内に存在している。 そうだとすると、自ずとその鳴門公園の恩恵に与っている事も確かだ。
まさにその通り、この「大睡蓮」の庭から瀬戸内海に位置する鳴門の海が展望出来るのだ。 両者がコラボレートした風景とは絶景に間違いなかった。
その風景を展望出来る事自体が、名画を超えた真の芸術であろうと評価する。
徳島県鳴門市出身の(郷里嫌いの天邪鬼)原左都子としても、そんな風景に私なりに納得出来た事が、今回の旅の醍醐味でもあった事実を一応認めておこう。