(写真は、おそらく上京後より現在に至るまで私が収集した便箋類。)
私はかつては “手紙魔” だったかもしれない。
思い起こせば子供の頃より文章を書く事をまったく厭わなかった私は、小学校低学年の頃より女の子友達と“手紙交換ごっこ”をしていたような記憶がある。
その頃より文房具店に行けば、女子が喜びそうな絵柄の封筒便箋類が販売されていた。
一体何をテーマに手紙を書いたのかの記憶はないのだが、相手から返事が届き、またそれに応えて手紙を綴る行為がとても嬉しかった思い出がある。
中高生時代に「文通」を始めた私は、元々の手紙好きに更に拍車がかかる。
特に中学校から高校にかけて文通をしていた大阪に住む某男子との文通は、4,5年間続いただろうか。 高校生になった時、実際に会おうとの話になり、最初相手が友達を連れて我が郷里までフェリーに乗ってやって来て我が友と4人で会った。 手紙の文面そのままの真面目な好男子だった。 そして高2の夏には今度は私が大阪へ行き、2度めのご対面を果たしエキスポランドで無邪気に遊んだ。(これに関しては、既にバックナンバーにても紹介している。)
この好男子とどういうきっかけで文通をやめたのかに関してまったく記憶がないのだが、もしも現在まで文通が続いていたとして、やはりあの文通相手は今でも好男子ではないかと年月を超えて尚確信を持って思える。 相手も私に対して同じ感覚を抱いてくれているような気がする、とも感じられるのが不思議だ。
それ程に成長途上期に手紙との形で1対1の文章のやり取りを4,5年もの期間続行出来た事とは、類稀な奇跡だったのかもしれない。
上京した後は、まさに郷里の友達や旧彼(?)等々と手紙のやりとり三昧だ。
仕事にもプライベートにも超多忙な身の私にして、手紙を書く事が億劫だと感じた事など一度も無い。 常にお好みのレターセットを買い求めては、1通に付き4枚程の手紙をしたためては投函していた。 しかも必ずや相手も返信をくれる。
一体如何程の手紙を書き、どれだけの返信を貰った事だろう。 溢れる程の返信手紙を保存しては、引越の都度整理して始末したものだ。
おそらくそれが叶ったのは、今の電子メールとは異なり手紙の往復には日数を要した故だろう。 直筆で綴る手紙とはいえ、たとえ相手が複数いたとしても、数日に一通の返信程度軽くこなせた事を今になって納得させられる。
その後も、私は“手紙三昧”の日々を送った。
特に高校教員を出産退職した後、私のファン(?)であってくれた女子生徒達より、何通もの手紙を頂いた。 今尚それらの一部を保管してあるのだが、中には“人生相談”のような内容の手紙もあった。 それに誠意を持って彼女達との手紙のやり取りに応えつつ、年月の経過と共にどうしても音信不通とならざるを得ない。 それは電子メールの発展故であり、何よりも彼女らが成長して立派な大人になった証拠であろうと私は信じている。
冒頭の我が「便箋コレクション」に話を移そう。
上記写真に撮影した「便箋コレクション」は、冒頭に記した通り上京後に収集したものである。
何分“手紙魔”の私であり、既に使い切った便箋は破棄している故に当然ながら撮影範囲外だ。
写真中段は比較的古い便箋群であり、中身が少し残っている程度だ。
写真下段中央辺りの “水森亜土氏もの” やその左側の “内藤ルネ氏もの” 、あるいは上段右の“いわさきちひろ氏もの”は、比較的近年それらの美術展へ行った際にミュージアムショップにて買い求めた便箋類だ。
写真上部中央及び下部左にご注目頂きたいのだが、これは私が我が娘を産んだ後に過去の“手紙文化ノスタルジー”に浸るべく、某通販業者より「100枚すべての絵柄が異なる」なる便箋を買い求めたのだ。 届いた便箋群を見てどれ程感激したことか! まさに5冊500枚に及ぶすべての便箋の絵柄が異なるのだ!
娘を産んだ頃は未だ電子メール時代ではなかった。 この「すべての絵柄が異なる便箋」を観賞しては、“あの人にはこの絵柄で手紙を書こうかな” “この人にはこの絵柄だな” などとの思いを浮かべつつ手紙を綴る時間こそが、我がサリバン業真っ最中にとてつもなく解放感を得られる束の間の貴重な時間帯だったものだ。
悲しいかな、時代は変遷してしまった。
今となっては“手紙を綴る”という文化が、この世から消え失せ果てている。
かく言うこの私とて、日々キーボードタイピングにて当該「原左都子エッセイ集」で愚痴をばら撒いている始末だ…
もしも「手紙文化」が未だ生命を保っていたならば、人々の間を過ぎゆく時間間隔に余裕が持て、自分にとって大事な人とじっくり向き合える余裕を取り戻せたのだろうか、と思ったりもする……
私はかつては “手紙魔” だったかもしれない。
思い起こせば子供の頃より文章を書く事をまったく厭わなかった私は、小学校低学年の頃より女の子友達と“手紙交換ごっこ”をしていたような記憶がある。
その頃より文房具店に行けば、女子が喜びそうな絵柄の封筒便箋類が販売されていた。
一体何をテーマに手紙を書いたのかの記憶はないのだが、相手から返事が届き、またそれに応えて手紙を綴る行為がとても嬉しかった思い出がある。
中高生時代に「文通」を始めた私は、元々の手紙好きに更に拍車がかかる。
特に中学校から高校にかけて文通をしていた大阪に住む某男子との文通は、4,5年間続いただろうか。 高校生になった時、実際に会おうとの話になり、最初相手が友達を連れて我が郷里までフェリーに乗ってやって来て我が友と4人で会った。 手紙の文面そのままの真面目な好男子だった。 そして高2の夏には今度は私が大阪へ行き、2度めのご対面を果たしエキスポランドで無邪気に遊んだ。(これに関しては、既にバックナンバーにても紹介している。)
この好男子とどういうきっかけで文通をやめたのかに関してまったく記憶がないのだが、もしも現在まで文通が続いていたとして、やはりあの文通相手は今でも好男子ではないかと年月を超えて尚確信を持って思える。 相手も私に対して同じ感覚を抱いてくれているような気がする、とも感じられるのが不思議だ。
それ程に成長途上期に手紙との形で1対1の文章のやり取りを4,5年もの期間続行出来た事とは、類稀な奇跡だったのかもしれない。
上京した後は、まさに郷里の友達や旧彼(?)等々と手紙のやりとり三昧だ。
仕事にもプライベートにも超多忙な身の私にして、手紙を書く事が億劫だと感じた事など一度も無い。 常にお好みのレターセットを買い求めては、1通に付き4枚程の手紙をしたためては投函していた。 しかも必ずや相手も返信をくれる。
一体如何程の手紙を書き、どれだけの返信を貰った事だろう。 溢れる程の返信手紙を保存しては、引越の都度整理して始末したものだ。
おそらくそれが叶ったのは、今の電子メールとは異なり手紙の往復には日数を要した故だろう。 直筆で綴る手紙とはいえ、たとえ相手が複数いたとしても、数日に一通の返信程度軽くこなせた事を今になって納得させられる。
その後も、私は“手紙三昧”の日々を送った。
特に高校教員を出産退職した後、私のファン(?)であってくれた女子生徒達より、何通もの手紙を頂いた。 今尚それらの一部を保管してあるのだが、中には“人生相談”のような内容の手紙もあった。 それに誠意を持って彼女達との手紙のやり取りに応えつつ、年月の経過と共にどうしても音信不通とならざるを得ない。 それは電子メールの発展故であり、何よりも彼女らが成長して立派な大人になった証拠であろうと私は信じている。
冒頭の我が「便箋コレクション」に話を移そう。
上記写真に撮影した「便箋コレクション」は、冒頭に記した通り上京後に収集したものである。
何分“手紙魔”の私であり、既に使い切った便箋は破棄している故に当然ながら撮影範囲外だ。
写真中段は比較的古い便箋群であり、中身が少し残っている程度だ。
写真下段中央辺りの “水森亜土氏もの” やその左側の “内藤ルネ氏もの” 、あるいは上段右の“いわさきちひろ氏もの”は、比較的近年それらの美術展へ行った際にミュージアムショップにて買い求めた便箋類だ。
写真上部中央及び下部左にご注目頂きたいのだが、これは私が我が娘を産んだ後に過去の“手紙文化ノスタルジー”に浸るべく、某通販業者より「100枚すべての絵柄が異なる」なる便箋を買い求めたのだ。 届いた便箋群を見てどれ程感激したことか! まさに5冊500枚に及ぶすべての便箋の絵柄が異なるのだ!
娘を産んだ頃は未だ電子メール時代ではなかった。 この「すべての絵柄が異なる便箋」を観賞しては、“あの人にはこの絵柄で手紙を書こうかな” “この人にはこの絵柄だな” などとの思いを浮かべつつ手紙を綴る時間こそが、我がサリバン業真っ最中にとてつもなく解放感を得られる束の間の貴重な時間帯だったものだ。
悲しいかな、時代は変遷してしまった。
今となっては“手紙を綴る”という文化が、この世から消え失せ果てている。
かく言うこの私とて、日々キーボードタイピングにて当該「原左都子エッセイ集」で愚痴をばら撒いている始末だ…
もしも「手紙文化」が未だ生命を保っていたならば、人々の間を過ぎゆく時間間隔に余裕が持て、自分にとって大事な人とじっくり向き合える余裕を取り戻せたのだろうか、と思ったりもする……