本日のエッセイは、久々に朝日新聞 “悩みのるつぼ”より引用させていただこう。
早速、2024.04.27付朝日新聞 “悩みのるつぼ”より「『期待しない』生き方は間違い?」と題する相談内容の一部を以下に引用しよう。
私の生きる上でのモットーは、「期待しない」ことだ。 他人に対しても自分に対しても、いろんな物事に対しても、期待しないことを常に心がけている。イベントや予定も期待してしまうと、うまく物事が進まなかったり時にはショックを受けたりする。期待していなければうまく行った時の喜びは倍増するような気がする。
人に対しても、この人ならきっとこうしてこれる、こう考えるに違いない、とか、こう言ってくれるはずだと期待すると、そうならなかったとき、その人が悪いわけではないのに、勝手に裏切られたような気分になる。 期待していないと、想定外のうれしいことを言われたとき、とても嬉しく感じる。
自分自身に対しても期待して、できなくて打ちひしがれて、自分を心底嫌いになった経験がたくさんあった。
「期待しない」というのは、間違った生き方なのでしょうか? そうだとしたら、期待することにどんないいことがあるのでしょうか?
(以上、朝日新聞「悩みのるつぼ」相談より、一部を転載引用したもの。)
早速、原左都子の感想に入ろう。
厳しい見解かもしれないが、この20代の女性は「小心者」あるいは「悲観主義」はたまた「他力本願性質が強い」のではあるまいか???
イベント事例に関しては、そんなもの期待した方の間違いと言えそうにも思うし。
物事がうまく進まなかったのは、貴方自身の準備不足や勘違いが原因の場合が多々ありそうだし。 そんな場合はショックを受けたその直後に必ずや自身が一人で反省会を実施して、今後同じ過ちを繰り返さないようにするのが常識じゃないかなあ。 その物事が自身の仕事業務であった場合など、特にその作業は肝心だよ。
人に対する事例にしても。
あなたが身勝手に相手の心理に期待してしまったり、相手の心理を逆読みして勝手に裏切られた気分に陥っている恐れがありそうだ。
それが証拠に、相手から想定外のうれしいことを言われると とても嬉しいと感じる、とあるが…
失礼だが、どこまで他力本願なんだろうとしか私は感じないよ。
自分自身を心底嫌になるのは、高齢域に達しているこの私ですらよくあることだけど。
だからと言って、人間の人生とはいつもいつも浮き沈みの繰り返しであるし。
そんな浮き沈みの中の沈み(マイナス面)ばかりを執拗に取り上げて、長き人生のうちのわずか20数年という時点で、自分が心底嫌になり。 「期待しない」人生を歩んで行こう、とは、なんと後ろ向きな生き方なのだろう…
今回の悩みのるつぼ相談者であられる姜尚中氏の回答内容の一部を、以下に引用させていただこう。
「期待しない」を人生のモットーとしているあなたが相談を寄せるのは、どこかに迷いがあるからではないか。
何事にも何人にも「期待しない」という生き方は、クールなように見えるが、それは実は失望感の怖さから我が身を護る自己防衛に発していると言えないか?
自分が傷つくのを極度に怖れるために、何事にも「期待しない」と予防線を張っている生き方は、何やら見えない甲羅で自分を必死になって護ろうとしているように見える。
(以下略すが、以上回答者であられる姜尚中氏のご回答の一部を引用させていただいたもの。)
最後に原左都子の私事など語っても、若き相談者には何らの参考にもならないだろうが。
原左都子の20代とは、郷里を捨て親を捨て単身上京した時期なのだけど。
医学の仕事もプライベートも充実して、私自身がキラキラ輝いていた事この上なかった頃だ!!
この私も大して他者には過大な期待をしない部類の人間だったかもしれないが。 何処へ行っても「さとちゃん(私の上京後の呼び名だが)コール」が絶えず、面白おかしい日々を送った時代だったものだ。
相談者さんもご自身の生活が充実していさえすれば、「期待する・しない」へったくれの生き方から解放されるはずだ。
そのためには、例えば現在の職業の充実を目指す、とか。
あるいは、ご自身の趣味に没頭する、とか。
年齢的には、友人たちや彼氏と仲よくする適齢期ではないだろうか?
せっかくのそんな青春期を是非共「期待する・しない」どうのこうのにかかわらず、思う存分にエンジョイして欲しいものだ。