本日も、「原左都子エッセイ集」バックナンバーの再掲載でお茶を濁させていただこう。
このバックナンバーの公開日が2008.07.05付となっているため、2007年9月開設の原左都子エッセイ集としては 未だ初期段階のバックナンバーだ。
しかも カテゴリーを「芸術」としているが、実はその内容は “恋愛もの”のエッセイである。
それでは、以下に再掲載します。
先だって、東京都文京区にある「印刷博物館」を訪れた。
この博物館は大手印刷会社に併設されている博物館なのだが、コミュニケーションメディアとしての印刷の価値や可能性を紹介することを目的に、印刷の過去、現在、未来をわかりやすく伝える展示を行っている。
「デザイナー誕生:1950年代日本のグラフィック」と題する特別展に興味を持ち先日平日昼間に一人で訪れたが、展示物の前で熱心にメモをとるデザイナーを目指していると思しき若者団体等で結構混雑していた。(写真は、特別展のパンフレット)
この博物館は入場料が安価な割には結構楽しめる。個人的にはもう少し空いているとより理想的だが、広い空間に印刷に関するユニークな展示が工夫されていて最後まで飽きない。
特別展「デザイナー誕生…」は期待通り楽しめた。1950年代は、戦後とグラフィックデザイン史上最も躍動的な1960年代を結ぶ、戦後デザインの礎を築いた時代であるそうだ。その当時のポスター、新聞・雑誌広告、冊子、包装紙、パッケージ、書籍、関係資料等合わせて500点が展示されていた。
日本のグラフィックデザインが世界的に認められた60年代の土台となった50年代、国内経済の再起をかける日本にとって、日本の復興と“メイド・イン・ジャパン”のイメージ向上のためのアピールとして、グラフィックデザインは積極的に欧米の手法を取り入れながら発展していった。(「特別展」パンフレットより要約)
ちょうどその時代にこの世に生まれた私にとっては、どの作品や資料も遠き日のノスタルジアに駆られるような懐かしい展示ばかりだった。
唐突な記事の展開となるが、ここから話がガラリと変わる点ご了承いただきたい。
私は20代後半に工業デザイナーを職業とする男性と出逢った。この男性は本ブログの恋愛・男女関係バックナンバー「偶然の再会」で既に登場している。
実はこの彼は私の数多い波乱万丈の恋愛遍歴史上、今尚一番充実したお付き合いができた実感がある人物だ。 彼は、私の長~~い独身時代に私の方から積極的に結婚を願望し“赤い糸”を意識した唯一の男性でもあった。 残念ながら彼の方に結婚願望が一切なかったため結婚は断念したが、私にとってお付き合いが一番長く続いた相手でもある。
当時私は医学関係の仕事に励んでいた時期でありお互いの職種は全く異質なのだが、物事の考え方や価値観が非常によく似ていた。 彼と会うと、とにかく話がはずんだ。 喫茶店や居酒屋で何時間話し合ってもいつも時間が足りない位共感し合えた相手だった。
彼は当時、製造業大手企業に工業デザイナーとして勤務していた。 すばらしい業務経歴の持ち主で、彼がデザインした製品数点がグッドデザイン賞を受賞している。 そのうちの一点である目覚まし時計を当時彼がプレゼントしてくれたが、この時計は今尚現役で活躍中で毎朝私を目覚めさせてくれている。 仕事の合間に個人的にもデザインに励み、新人デザイナーの登竜門と言われる銀座Mデパートのデザインコンペにも入賞し、入賞作品展を一緒に見に行った思い出もある。
自分の工業デザイナーとしての職業をこよなく愛する彼は、会うといつもデザイナーが経済社会で果たす役割について熱く語っていた。 新製品開発をデザインによって牽引し、新しい時代の創造を率先して果たすのがデザイナーの役割だと教えてくれた。 そのためには好奇心旺盛に様々な分野の事象に興味関心を持ち、情報収集し知識を得て、常に研ぎ澄まされた感性を磨く必要があるとも語り、それを実行している人だった。 分野が全く違う私の話にも興味を持っていつも真剣に聞いている人だった。 そんな彼の瞳はいつもキラキラと輝き、遠い未来を確かな目で見つめているように私には映った。
一方で感性が豊かで繊細で情が深く、とても優しいハートの持ち主でもあった。
そんな彼にも悩みがあった。 企業という狭い枠の中でデザイナーが果たせる役割には限界があり、加えて専門性が高い割には報酬が見合わないことを嘆いていた。 そして、その後彼は敢えて危険を覚悟でフリーを目指す道を歩むことになる。 私が恋愛の対象として彼とお付き合いをしたのは、彼がフリーになった直後あたりまでだ。
その後もこの彼とは友人としてのお付き合いが続くのだが、彼はフリーとして成功し、デザイン界において輝かしい業績を残している。 彼がデザインした商品が何点もヒット商品となり市場に出回っている。
最後に彼に会ったのは彼との出逢いから約10年後、お互いにまだ独身で私が見合い結婚をする直前頃だった。 “もし結婚することになったらお互いに知らせようね。”と約束したきり、私は結婚したことを彼には知らせないまま現在に至っている。
彼は後々の私の人生にまで大きな足跡を残している。
私が医学の道を一旦退き30歳にして新たな学問を目指したのも、彼の影響力によるところが大きい。
それ以来、彼以上の相手にめぐり合えなかったために私は恋愛結婚は諦め、見合い結婚に至ったとも言える。
素人の私がよく分からないなりに芸術分野を好んでいるのも、まさに彼の影響力である部分が大きい。
彼は今、どうしているのだろう。 さらにビッグになってデザイン界で今尚活躍しているのであろうか。
Comments (8)
この博物館は大手印刷会社に併設されている博物館なのだが、コミュニケーションメディアとしての印刷の価値や可能性を紹介することを目的に、印刷の過去、現在、未来をわかりやすく伝える展示を行っている。
「デザイナー誕生:1950年代日本のグラフィック」と題する特別展に興味を持ち先日平日昼間に一人で訪れたが、展示物の前で熱心にメモをとるデザイナーを目指していると思しき若者団体等で結構混雑していた。(写真は、特別展のパンフレット)
この博物館は入場料が安価な割には結構楽しめる。個人的にはもう少し空いているとより理想的だが、広い空間に印刷に関するユニークな展示が工夫されていて最後まで飽きない。
特別展「デザイナー誕生…」は期待通り楽しめた。1950年代は、戦後とグラフィックデザイン史上最も躍動的な1960年代を結ぶ、戦後デザインの礎を築いた時代であるそうだ。その当時のポスター、新聞・雑誌広告、冊子、包装紙、パッケージ、書籍、関係資料等合わせて500点が展示されていた。
日本のグラフィックデザインが世界的に認められた60年代の土台となった50年代、国内経済の再起をかける日本にとって、日本の復興と“メイド・イン・ジャパン”のイメージ向上のためのアピールとして、グラフィックデザインは積極的に欧米の手法を取り入れながら発展していった。(「特別展」パンフレットより要約)
ちょうどその時代にこの世に生まれた私にとっては、どの作品や資料も遠き日のノスタルジアに駆られるような懐かしい展示ばかりだった。
唐突な記事の展開となるが、ここから話がガラリと変わる点ご了承いただきたい。
私は20代後半に工業デザイナーを職業とする男性と出逢った。この男性は本ブログの恋愛・男女関係バックナンバー「偶然の再会」で既に登場している。
実はこの彼は私の数多い波乱万丈の恋愛遍歴史上、今尚一番充実したお付き合いができた実感がある人物だ。 彼は、私の長~~い独身時代に私の方から積極的に結婚を願望し“赤い糸”を意識した唯一の男性でもあった。 残念ながら彼の方に結婚願望が一切なかったため結婚は断念したが、私にとってお付き合いが一番長く続いた相手でもある。
当時私は医学関係の仕事に励んでいた時期でありお互いの職種は全く異質なのだが、物事の考え方や価値観が非常によく似ていた。 彼と会うと、とにかく話がはずんだ。 喫茶店や居酒屋で何時間話し合ってもいつも時間が足りない位共感し合えた相手だった。
彼は当時、製造業大手企業に工業デザイナーとして勤務していた。 すばらしい業務経歴の持ち主で、彼がデザインした製品数点がグッドデザイン賞を受賞している。 そのうちの一点である目覚まし時計を当時彼がプレゼントしてくれたが、この時計は今尚現役で活躍中で毎朝私を目覚めさせてくれている。 仕事の合間に個人的にもデザインに励み、新人デザイナーの登竜門と言われる銀座Mデパートのデザインコンペにも入賞し、入賞作品展を一緒に見に行った思い出もある。
自分の工業デザイナーとしての職業をこよなく愛する彼は、会うといつもデザイナーが経済社会で果たす役割について熱く語っていた。 新製品開発をデザインによって牽引し、新しい時代の創造を率先して果たすのがデザイナーの役割だと教えてくれた。 そのためには好奇心旺盛に様々な分野の事象に興味関心を持ち、情報収集し知識を得て、常に研ぎ澄まされた感性を磨く必要があるとも語り、それを実行している人だった。 分野が全く違う私の話にも興味を持っていつも真剣に聞いている人だった。 そんな彼の瞳はいつもキラキラと輝き、遠い未来を確かな目で見つめているように私には映った。
一方で感性が豊かで繊細で情が深く、とても優しいハートの持ち主でもあった。
そんな彼にも悩みがあった。 企業という狭い枠の中でデザイナーが果たせる役割には限界があり、加えて専門性が高い割には報酬が見合わないことを嘆いていた。 そして、その後彼は敢えて危険を覚悟でフリーを目指す道を歩むことになる。 私が恋愛の対象として彼とお付き合いをしたのは、彼がフリーになった直後あたりまでだ。
その後もこの彼とは友人としてのお付き合いが続くのだが、彼はフリーとして成功し、デザイン界において輝かしい業績を残している。 彼がデザインした商品が何点もヒット商品となり市場に出回っている。
最後に彼に会ったのは彼との出逢いから約10年後、お互いにまだ独身で私が見合い結婚をする直前頃だった。 “もし結婚することになったらお互いに知らせようね。”と約束したきり、私は結婚したことを彼には知らせないまま現在に至っている。
彼は後々の私の人生にまで大きな足跡を残している。
私が医学の道を一旦退き30歳にして新たな学問を目指したのも、彼の影響力によるところが大きい。
それ以来、彼以上の相手にめぐり合えなかったために私は恋愛結婚は諦め、見合い結婚に至ったとも言える。
素人の私がよく分からないなりに芸術分野を好んでいるのも、まさに彼の影響力である部分が大きい。
彼は今、どうしているのだろう。 さらにビッグになってデザイン界で今尚活躍しているのであろうか。
Comments (8)
(以上、「原左都子エッセイ集」初期頃のバックナンバーを再掲載したもの。)
2024.12現在の我が記述に入ろう。
この彼氏との付き合いに関するエッセイは、2007~8年頃に何本か公開している。
その中で、今思い出す出来事を少し書いてみよう。
「赤い糸」とでも表現すればよいのか、この彼氏とは大都会東京の街中でよく“偶然に”会った。 (新宿駅前高野フルーツパーラーの入り口、中央線の車内等々で。)
これに関しては、そもそもお互いの当時の自宅が中央線沿線にあり、近かったとの理由が大きい事は認める。
ところが、一番因縁を感じたのは。
既に別れて数年が経過し、私が2度目の大学生だった30代前半期の事だ。
地下鉄丸ノ内線・東京駅にて構内の一番後ろの車両に私はいつも乗るのだが。 その電車が「東京駅」に到着した際、そのドアのそばで私が立っていると、偶然そのドアからその彼氏が電車に乗り込んで来たのだ!!
どうして彼だと分かるかというと。 その彼氏は身長が190cmあり嫌でも目立っていた!
あまりにも偶然だったのにお互いに驚き、とりあえず霞が関駅で降りて喫茶店にでも行こう、とのこととなった。
残念ながら、その後の記憶があまり無いのだが。
おそらく、近況でも語り合ったのだろう。 既に別れた二人でありお互いに“大人的対応”に終始したのかもしれない。
その後、電話があったかもしれないが。
二人の関係は既に終焉しているとのお互いの共通認識の下、関係がぶり返すことはなかった。
その偶然の再会から、既に40年程の年月が流れて。
意味不明に無責任に原左都子が思うに、その彼氏は長生きしていないような感がある。
何故かと言うと、その後ただの一度もその彼氏と都心で偶然出会うことが皆無であるが故だ…