原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

もしも彼氏が“おおかみ男”だったら…

2012年08月16日 | 人間関係
 昨日、私と娘が何故この映画を見に行ったのかというと、そのきっかけは主人公 花 が娘と同年代の大学生との設定だったからである。

 この映画とは、  細田守氏監督・脚本  「おおかみこどもの雨と雪」 。


 毎年夏休み中に娘と共に必ず1本は映画を観るのが、娘小学生の頃より恒例となっている我が家だ。
 この夏は何を見ようか?と、2人であれこれネットを探り事前研究をした。
 CGを駆使した3Dスペクタクルものがダントツに多い印象の現在の映画事情のようだが、その中我々が探し当てたのは至って地味な存在の 「おおかみこども……」だった。
 アニメでかつ、おおかみこども??  その題名や夏休み中公開である事から推測して、「単なる子ども騙しだろうか…」との我々の一抹の不安を払拭したのは、その映画のキャッチコピーだった。
 < わたしが好きになった人は“おおかみおとこ”でした >

 この春大学生になったばかりの18歳の我が娘も、これから“男”と出会う機会が増え彼女なりに恋愛経験を積んでいく事であろう。 そんな娘に何らかの参考になればと私は考えた。
 もう一つ、相手の“おおかみおこと”との間に生んだ二人の子ども(人間と狼のハーフと言うべきか??)を若き主人公が如何に育てていくのかについても、私は興味津々だった。

 通常一般人が“おおかみおとこ”と出会うチャンスは極稀であろうが、一体全体、主人公花はどこでどうやって“彼氏”と出会うのだろう。 人里離れた大自然の山奥か?? などとの私の推測は大きく外れた。

 何と、花が“彼氏”と出会ったのは大学(映画では 一橋大学 を想定しているようだが)構内の大教室だった。 どうやら哲学関連(ソクラテスに関する真・善・美の講義中)の学生がまばらな一般教養と思しき授業中に、花は少し前の離れた席で熱心にノートを取っている男子学生に視線を移す。
 授業が終わり学生各々が「出席票」を教壇に提出して退室する中、上記男子学生は後ろの扉から一人退室する。 それを追いかけて花曰く、「出席票を提出しなければ欠席扱いになるよ」 男子学生が応えるに「僕はこの大学の学生じゃなく隠れ受講だけど、目障りならばもう来ないよ」……
 その後も男子学生が気になってしょうがない花は、後に図書室で再開して曰く「あの授業は教科書なしでは難しいと思うから、私の教科書を貸すけど…」 そんなこんなで少しずつ親しくなった2人はその後デートを重ねつつ、クリスマスの夜を迎える。 ところが、彼氏はいつになく遅れて来る…。
 それは満月の夜だったが、「今日こそ自分が抱えている真実を伝えたい(いや、見せたい)から、少し目を閉じて…」と彼氏が言う。 しばらくして目を開けた花の前には「狼」の姿があった。
 そのまま2人は結ばれて……

 ここで一旦原左都子の私論に入るが、夏休み中の小さな子ども達も数多く観賞しているという意味合いにおいて、“この場面”は適切だったのかとの観点も少しある。
 ネット上でもこの場面がリアルである等の趣旨の書き込みが交錯しているようだが、十分大人の原左都子の視点でも確かに“刺激的”な場面だった。(低俗かつ極端な表現をすれば“SMチック”……とでも表現できそうな… )  と言うのも、その場面に於いて花は人間、彼氏は「狼」の姿だったのだ!
 それでも私はこの場面を肯定したい。 2人が結ばれた場面がそうであったからこそ、今後2人の間に生まれてくる(原左都子曰く、人間と狼のハーフの)子ども達である 雪 と 雨 の今後の葛藤が活きると理解する。

 花が第2子である男の子 雨 を生んでまもなく“おおかみおとこ”は原因不明のまま他界する。 この場面の描き方が優れていて、何とも悲しく辛かった思いの私だ。
 映画を観終わった後の原左都子の考察によると、もしかしたら“おおかみおとこ”は花との間に2児を設けた時点で既に寿命を迎えていたのではなかろうか?  何分、“おおかみおとこ”も人間と狼とのハーフである。 生態学的にそう解釈すれば整合性もあるし、またその後単独で2児を抱えて育てねばならない花にとっても救われると言う事ではあるまいか? 
 この我が考察は、映画の終盤で 雨 がわずか10歳にして「狼」として生き森を守っていく決断を自ら下した事にヒントを得ている。 人間とは異なり狼のオスとは10歳ともなれば立派な成人である。

 片や長女である 雪 は如何なる人生を歩むのかに関しても記述したいものの、現在放映中の映画であるため、ここでその詳細に関して言及し過ぎることは控えよう。


 この映画の主たるテーマが「親子」である事には間違いない。
 彼氏の“おおかみおとこ”に第2子出産後急死された母親花のその後の子育ての様子が、ある程度丁寧に描かれた作品と私は評価する。

 例えば子ども幼少の頃には団地暮らしの一家において、わずか4歳位の長女雪が不機嫌になると「狼」に変身して部屋中を暴れ回る。 まさか自分の子が“狼とのハーフ”であるとは一切社会に公言できない花は、周辺住民から「育て方が悪い!」と避難され、あるいは地元自治体からも「検診や予防接種をまったく受けていない」と自宅強制訪問される。 母としてどうしても子ども達が持って生まれた特殊事情を覆い隠したい花は、大自然に恵まれたド田舎地方へ転居し、雪6歳の小学校入学以降もそれを隠蔽する手段に出る。
 この場で原左都子の私事を述べると、まさか我が子は“狼ハーフ”ではないものの、若干の事情を持って生まれてきた我が娘に対する周囲よりの理解が得られ難い現状から逃避したい思いが、我が子小さい頃程強かった。 花が母親として取った“へき地移転方策”に関しては我が身としても痛い程に理解可能だ。


 この物語は、長女11歳までの子育てしか描かれていない。 
 各種特殊事情児を抱えた家庭に於いては、その後の子育ても尋常ではないのが事実だ。

 それでも主人公 花 が自分が欲した大学での学問も中断して心より愛した彼氏である“おおかみおとこ”との間に2子を設け、その後単独で母として子ども達を精一杯育てる風景に涙した私である。

 大学生になった我が18歳の娘が、映画を見て涙する姿を今回初めて見た。 
 いつ何時も涙もろい私も、これには参った…   帰りの道中、そんな娘の心情を思い黙り続けていたのだが、家が近づいた頃私は母親として娘に一言告げた。
 「あなたが選ぶ相手が“おおかみおとこ”であっていいと私は思うけど、今現在の親の思いとしてはせっかく入学した大学は中退せずに卒業して欲しい…」

 悲しいかな、現実世界に生きる親とはいつ何時も愚かな存在でしかないね……

アナウンサーは何でも喋りゃいいってもんじゃない!

2012年08月13日 | 時事論評
 ロンドン五輪は本日閉会式を迎え、2週間余りに渡る4年に一度の世界最大スポーツ祭典の幕を閉じた。

 日本時間で早朝の閉会式だったため、本日午前8時前頃起きた私はテレビ生中継を通じて式が終わりかけの場面しか見聞していない。

 朝の所用をこなしつつ垣間見たそのテレビ場面では、英国の若者と思しきミュージシャングループが元気よく歌を披露した後、バレエダンスグループが登場して舞台パフォーマンスを繰り広げた。
 バレエダンスファンの私としては、このダンスグループが英国の如何なる団体なのかを知りたい思いだったのだが、それに関するNHKアナウンサーのコメントは一切なかった。

 その少し前の時間だったと記憶しているが、世界放映されている五輪閉会式という晴れの舞台で英国ミュージシャン達が楽曲を繰り広げている最中に、NHKアナウンサーがコメントを述べていたのを私も記憶している。  やれ「日本代表選手の誰か氏は頑張った」、やれ「水泳競技で銅メダルを取った寺川選手の思いは私にも通じた」ナンタラカンタラと……
 “金メダル”取得選手に関するコメントについては私も許容範囲だが、この場で“銅メダル”取得の一選手に関してコメントするのはあくまでも個人趣味の範疇ではないのか?? などと、そのアナウンサー発言を鬱陶しく感じている間に五輪閉会式中継は中途半端な形で終了を迎えた。
 

 その後朝の所用が一段落した私がパソコンを開くと、NHKが主導権を握って生放映した“五輪閉会式”に対する批判がネット上で殺到中との情報を得た。
 閉会式は最後の一場面しか見ていない私だが、それに同感できる思いを煽られる気がした。

 早速、今朝ネット上で展開したロンドン五輪閉会式生中継に対するNHKアナウンサーの失策を指摘する報道を以下に要約して紹介しよう。
 閉会式は日本時間本日5時頃から始まったのだが、その中継を行ったNHKの解説に批判が殺到している。 というのも、今回の閉会式はイギリスの音楽とエンターテイメントをテーマにした閉会式であり、名だたるアーティストが多数出演し名曲を披露したのだが、その演奏中に無用と思えるような競技の振り返りを行い視聴者が音楽を聞くのに妨げになったからだ。
 Twitterではハッシュタグ「#アナウンサー黙れ」まで生成され、苦情が相次いでいる。
特に視聴者の苛立ちをかき立てたのが、ロックバンド「MUSE」の演奏中のことだ。このバンドの楽曲『Survival』は、オリンピックの公式ソングに抜擢されていた。アナウンサーはそのことを知らなかったのか、公式ソングであることに一切触れずに、すでに多くの視聴者が知っているはずの競技の振り返りを語り、各選手の感想まで述べて演奏の妨げになっていた。
 (以下略)


 原左都子の私事に戻るが、本日(8月13日)昼のNHKニュースに於いても今回のロンドン五輪閉会式の主たるテーマは「音楽」だった事に関する説明があった。
 放送媒体として事前にそれを承知していたのならば、何故自局アナウンサーをその閉会式に対応するべく指導出来なかったのだろう??

 原左都子も音楽ファンだ。
 もしも今回のロンドン五輪閉会式が云わば「音楽祭典」と事前に承知していたならば早起きしてでも観賞したかった思いだ。
 ブリティッシュ音楽には私も60年代の頃から多大な影響を受けて来ている。  また英国ロイヤルバレエ団のバレエダンスにも、バレエを多少心得る娘を通じて近年触れる機会が多い。

 今回ロンドン五輪の主たる放映権をゲットしたと推測するNHKは、何故そのような貴重情報を国民に流さずして担当アナウンサーに一任したいい加減で低俗なコメントを垂れ流すべく“閉会式”放映を挙行したのか??
 私の推測及び印象では、NHK現場では今に至って尚あくまでも五輪とは“スポーツの祭典”の範疇を出ていないと認識しているからではあるまいか。
 ところが近代五輪では毎回様々な開会式、閉会式が開催国毎にバラエティ豊かに繰り広げられている。 世界最大規模のグローバル祭典である五輪とは、テレビ生放映という目覚ましいまでに進化した科学技術を通じて自国の芸術文化や歴史を全世界に伝えるまたとはない機会である。 (特に後進国においてはこれこそが五輪自国開催のメリットであり、今後の経済発展・国力増強の場と位置付けている事であろう。)
 ロンドン五輪の場合は先進国での開催だったと判断できるが、何故またとは観賞できないブリティッシュサウンドやダンス生中継を遮ってまでNHKアナウンサーが“余計なたわ言”を発したのかに関しては、ネット上のツイートには興味がない私も同調したい思いだ。

 加えて言わせてもらうならば、本日NHK昼のニュース“閉会式”場面に於いてNHKが取り上げた日本人選手が偏っている事この上ない感覚を私は抱いた。
 開会式に於いて旗手を務めた女子レスリング吉田選手に関しては、金メダル3連覇を達成した功績により引き続き閉会式で旗手を担当したことに同意・拍手である。
 おそらくNHK記者が閉会式現地でたまたま取材できた選手のコメントを昼のニュース内で取り上げただけの話なのかもしれないが、それにしても、初戦敗退した若き選手のコメントなど次の五輪で実質活躍した後に閉会式放映で取り上げても遅くはなかったのではあるまいか??


 NHKとの放送局とは民放とは異なり、アナウンサーを始めとしてゲスト出演タレントが“多言を吐かない”事を好むからこそ私は普段より愛好しているのだ。

 五輪から話題がズレるが、そんなNHKが独占生中継している番組に新年早々教育テレビに於いて生放映される「ウィーンフィルニューイヤーコンサート」がある。 この際、1年に一度のこの番組に関しても私は苦言を呈したい思いだ。
 以前はNHKアナウンサーが音楽家と共に出てきてあれこれと“能書き”を垂れていた。 番組前の“能書き”に関してはある程度許容範囲であるものの、最終アンコール曲「ラデツキー行進曲」の後会場から湧き出る“ブラボー”と共に番組を美しく終えて欲しいものだ。 にもかかわらず、番組の最後でまだ性懲りもなくうだうだと女性アナウンサーが下手な感想を述べるのには毎年辟易とさせられたものだ。
 その後、この番組では“音楽通”との女優をコメンテイターとして採用しているのだが、今後はそんな出演者も一切要らないとここで主張しておきたい! 
 音楽ファンとしては、純粋に現場の生中継のみを放映してくれるだけで必要十分である。


 そう心得る私にとって、本日ロンドン五輪閉会式に際してその生中継を凝視していた音楽ファンの思いが痛いほど伝わるのだ。

 どうかNHKに限らず、民放も含めた放送局の担当者の方々。 特に番組のスペシャリティが高い程、アナウンスなど不要な事を肝に銘じて欲しい思いだ。
 そして、運悪くその種重厚な番組のアナウンサーとして起用された(特に)若手アナウンサーの皆さんは、喋くり倒す事のみがアナウンサーの使命ではない事を少しずつ学習して欲しいものである。

信頼できるパートナーが1人いる強味

2012年08月11日 | 自己実現
 今朝方、私は“老後の予言”か、あるいは“現実逃避願望心理”かと分析できそうな夢をみた。

 結構明瞭な夢で再現できる部分が多いため、記憶が新鮮なうちにエッセイとして書き留めておこうと思う。
 

 以下はその「夢の再現」だが、(  )内の文章は目覚めた後に我が心理を自己分析、あるいは注釈したものである。

 私は今一体何歳なのだろう。
 それさえよく分からないしその理由やきっかけも不明だが、私はヨーロッパのとある小さな街で1人暮らしをする事になった。 (居住先がヨーロッパというのは、おそらく2週間に渡りテレビ映像で楽しんだロンドン五輪の影響と分析する。)

 その街の風景写真が手元に数枚送られて来ている。 少し薄暗くて見辛いのだが、その中の一枚は発電所の写真だ。その街の電力は地熱発電に頼っているようだが、それにしてもリアルな発電所の影像である。
 (実際に地熱発電所現場などただの一度も見た事がないのに、何故写真としてあれ程リアルに発電所風景が我が夢の中に出現したのかは不明だ。 先程ネット情報にて地熱発電所画像を確認したが、私の夢の中の写真とは大きく食い違っていた。

 私自身は欧州のその地に行きたいのかそうでないのかすら夢の中でもよく捉えられないものの、どうやら不安と期待が混在状態のようだ。
 最大の不安材料として、言語の壁がある。 何語圏の街かも不明だが、とにかく外国で暮らすためには少なくとも英語力をもっと強化する必要がある。 早速英会話力を増強せねば!と夢の中でもがき苦しむ私だ。 (参考であるが、私はこの種の夢をよくみる。夢の中で日々どれ程学習・学問や仕事に励んでいる事か!
 今回の夢は単身での海外転居の想定であるようだが、少なくとも既に若くはなさそうな私にとってこの期に及んでの単身海外暮らしはやや負担感もある。
 そうだ、誰かパートナーを誘おう!、と夢の中で志したところ、一人の実在男性がその候補として浮かぶ。

 (この男性がたとえ夢の中であれ我が脳裏に浮かんだ事実に関しては、私自身大変興味深いものがある。 ここで当該男性に関して少し注釈を加えると、我が独身時代の20年程前まで交流があった人物であり、「原左都子エッセイ集」バックナンバーにも幾度が登場している。 残念ながら現在は音信不通状態だ。  実は今年3月フェイスブック上に「原左都子」ページを開設した時、この男性がフェイスブック登録しているか否かの確認作業をした。 そうしたところ、そのページが実在した!  連絡を取るべきか控えるべきか散々迷った挙句、私は「とりあえずは“控える”」との選択肢を採用した。 何故かと言うと、その理由の一つは、「やあ、久しぶりだね!」「元気だった?」どうのこうのの“軽ノリ”で再会したくない思いが強かったからだ。 この人物とはお互いに多大なる影響力を及ぼし合いつつもっと重厚な関係を築いて来た歴史があると、あくまでも“私側”は信じている。 それ相応の再会劇を熟慮したい相手なのだ。)

 さて、渡欧のパートナー候補を決定しているうちに夢から徐々に目覚め、私は現実世界に引き戻される。
 まだ夢うつつの我が脳裏には、「あれ、よく考えてみると私って子持ちの身じゃん… 1人で欧州へ渡って単独生活をしつつ、別天地において自分が選んで同行したパートナーと楽しい日々を送れる訳などないよなあ… 」との落胆と共に、それにしても“いい夢”だったとの感覚で今朝は気分よく目覚めた。


 普段ならば起床直後は倦怠感と苛々感が強い私にしては珍しく、上記夢が我が脳内神経伝達物質に作用した結果体内に心身安定ホルモンでも流れたのか、いつになく心地よい穏やかな朝である。

 心地よいまま再度上記我が夢を振り返ってみるに、この夢の根源とは、先だって2度目となる義母のケアマンション訪問に端を発しているのかもしれないと考察するのだ。 (「原左都子エッセイ集」常連読者の方々は既にご存知であろうが、我が義母は足を痛めた事をきっかけに要介護の身となり先月上旬ケアマンションに入居した。)

 その後身内より、ケアマンション内で義母に“良き友”が出来たとの情報は得ていた。
 施設に到着して一見した義母は、1回目に会った時とはまったく別人のごとく見違えるように活き活きと若返っていた。  まず外見からしてまったく違う。花柄のフレアースカートに薄ピンクのブラウスを着て薄化粧を施している義母に、介護施設入居前の義母がフラッシュバックする思いだ。 しかも声のトーンも上がり、「“ネイルアート”プログラムにも参加したいし、今度ホテルでのランチタイムバスツアーにも参加するの!」とうれしそうに話してくれるではないか。 
 今回は大学が夏休みに入った我が娘をケアマンションに同行したのだが、義母がそれをとても喜んでくれ、「○ちゃん(我が娘)に会わせたい人がいるから」との事で娘だけ引き連れて行った先がその“良き友”の部屋だったとのことだ。
 後でこっそり娘に確認したところ、義母の“良き友”とはボーイフレンドだったらしい。

 もちろん義母を激励する私だが、これを実の息子である我が身内に激白するには時代が未だそれ程進化していないのかもしれない。 それでも義母は早速ボーイフレンドが出来てうれしい事を誰かに伝えたかったのであろう、と私は推測する。 その手段として孫である娘を通じて私に伝えた義母であると理解している。
 そんな義母に、次回は義母が欲する化粧品等を持参する事を約束して我々はケアマンションを去った。


 何だか、やはり私には義母の生き様が今後の参考になるような気がする。
 義母と私はその時代背景は元より歩んで来た人生がまったく異なるのだが、“友人関係”に於いて共通項がありそうに思うのだ。 だからこそ、私は今回要介護ケアマンションで“ボーイフレンド”を作った義母を応援したいのだ。
 まさに、今回の表題に掲げた“信頼できるパートナーが一人いる強味”故である。

 何分、徹底して「集団嫌い」の私は今後老後に突入した時点に於いても、我が“一匹狼”気質にこだわりつつ自分が理想とする交友関係を貫きたいと欲している。
 「集団嫌い」の私としては、集団管理生活を強制されるケアマンションになど絶対に入居したくはないと志しているところが、今現在に於ける義母との相違点であり、我が若気の至りなのであろう。
 そうであるとして、私には如何なる老後が訪れるのだろうか? と再考した場合、それはまだ程遠い未来の話でしかない。  まずは実母、義母を見送る任務がある。 それと同時進行で我が娘を自立させ、そして身内を送った後、やっと我が身が自由になるとの図式だ。
 その時に至ってこそ原左都子が実現したいのが、“信頼できるパートナーが一人いる強味”人生なのだ。 (そのパートナーと同居しようとは一切思わない。それは鬱陶しい。 その種のパートナーがある程度の心理的距離内に存在するだけでいい。)

 ただその番狂わせも考慮した場合、今朝みた夢である渡欧一人暮らし、ましてや信頼できるパートナーを伴ってなどまさに“夢物語”と化し、私こそが率先してこの世を去る運命にあるのかもしれない。 ちょっと辛いが、これこそが現実というものだろう。
 それでも、なるべく自分らしいポリシーと生き様を死ぬまで全う出来るよう日々努力しつつ、現実世界で年老いていきたいものである。

“八重歯”って可愛い?それともみっともない??

2012年08月09日 | 医学・医療・介護
 (見苦しい写真で恐縮だが、原左都子30歳頃の写真をデフォルメ処理したもの。 今回のテーマである“八重歯”を強調するため及び個人情報保護目的であえて魚眼処理を施している。 参考のため私本人は決してこれ程の“しもぶくれ”ではなく痩せ型です。)

 上記の不鮮明写真をよく観察するとお分かりいただけるかもしれないが、原左都子は上前左側に八重歯がある。
 全体的に永久歯が大き過ぎ歯列の中に収まり切れなかったのか、私は子どもの頃より歯並びがガチャガチャ状態である。 幸い目立つ部分の前歯に関しては左犬歯1本が八重歯状態でさほど事なきを得ているが、奥歯などとんでもないガチャガチャぶりだ。 口腔内に1本生えていた奥歯は、舌に当たって鬱陶しいだけで噛むという歯本来の役割を何ら果さずして高校生の時に虫歯となり既に抜歯している。


 それでも子どもの頃から若き年代の頃にかけては、この我が「八重歯」も“可愛い”などと言ってもらえた時代があった。

 原左都子に限らず、当時は「八重歯」をチャームポイントとしてその笑顔を前面にPRする芸能人も数多く存在した。
 私の記憶において一番強烈なのは、歌手の小柳ルミ子だ。 この人など、上前歯両側に物凄く鋭い牙(失礼!)があったと記憶している。 小柳ルミ子の場合は、デビュー直後にその“牙”を抜き去り歯並びを整える施策を取った。 これに対してファンより「何でチャームポイントの八重歯を抜いたのか??」なる“抗議”も数多く押し寄せたようだ。 このクレームに対応してルミ子氏曰く、「八重歯があると口が塞がらない等の不都合が日常的にあった。今回抜き去った事によりそれら不具合が解消され正解だったと思っている」等々と言及していたことが懐かしい。
 八重歯ではないが、前歯の歯並びの悪さを自分でチャームポイントと捉えていた中森明菜のコメントも興味深く記憶している。 歌手としてデビューする前に「歯並びを整えるためにその前歯を抜く!」事をスタッフから指令された明菜氏は、(なんで私のチャームポイントのこの前歯を抜かなきゃならないの?!? 今まで皆がこれが可愛いと言ってくれていたのに…)との、怒りと悲しみ感情が内面から湧き出たらしい。  それでも歌手としてのデビューを勝ち取るため、明菜氏は決死の覚悟で前歯を抜いて差し歯に取り替えたとのエピソードを私は過去に見聞した事がある。

 その他、70年、80年代頃に於いて「八重歯」をチャームポイントとしていた芸能人に、石野眞子、河合奈保子、伊藤つかさ等が存在する。 番外編として、皇太子妃の雅子様もご婚姻当初「八重歯」が可愛かったと私は記憶しているが、現在はどう処置しておられるのであろうか?


 時代が大幅に移り行き、現在では「八重歯」をはじめとする歯並びの悪さは“諸悪の根源”のごとく忌み嫌われている。
 元を正せば日本の“悪い歯並び虐待撲滅文化”とは、欧米の価値観の受け売りにしか過ぎない。 欧米に於いては遠い昔から八重歯を“バンパイアの牙のよう”と蔑んでいるとの事だ。
 戦後より欧米文化の受け売りを好むこの国が、これを模倣しない訳もなかったのであろう。 しかも歯の矯正を国民全体に煽れば、歯科医師業界及びそれとの癒着関係にある医療業界及び政府や官僚も潤うとの図式だ。

 これに飛びついた芸能界を皮切りとして、我が国ではここ20年程の間に超スピードで「歯の矯正」が日常化してしまったと言えまいか?
 我が近辺にも小学生の子どもの歯を矯正するとの庶民の立場の保護者が存在する事実を、本エッセイ集バックナンバーで述べた。 (老婆心ながら、そのまとまった資金を子どもの今後の“真なる成長”に投資してはどうなのか?などとの要らぬお節介心も抱いた私であるが……)
 あるいは現在開催中のロンドン五輪で活躍中の我が国の選手達など、「歯並び」が良過ぎる?! と私は日々注目している。 例えば水泳メドレーリレー決勝で銅メダルを獲得した女子選手4名の方々は、皆さん素晴らしいまでの歯並びだったものだ… (あれも“矯正”によるのか?)と捉える私だが、ハードな練習の合間に一体いつ矯正する時間かあったのだろう??


 話題を変えるが、そんな私の「歯並び」に関する悶々とした思いを払拭するがごとくの報道を先だって見つけた。
 朝日新聞8月4日付夕刊記事によると、現在は「付け八重歯ガール増殖」中との事だ。

 これもまた奇異な記事である。 ファッション目的でわざわざ「八重歯を付ける」のだと???
 それでは早速、この記事の一部を要約して以下に紹介しよう。
 「八重歯もつけまつげと同じ、おしゃれの一環」との事で歯科医で八重歯を装着したのは22歳の大学生。 当該大学生曰く「歯並びが綺麗なのはいいけど、皆がそうだとつまらない」  現在の八重歯の人気の根源はAKB48の一人気女性に発している。 彼女のようになりたい!との理由で現在「付け八重歯」の問い合わせが歯科医に増えていて、多い時には月30件程の予約が入る。 その価格とは、自分で取り外せるものは1本3万円程度、そうでないものは5万円…。 これを装着している歯科医院長は「歯並びが悪くなるため積極的に勧めないが、施術後明るくなる患者もいるので続けようと思う」とのコメントをしている。 一方、他の歯科分野専門家が言うには「歯が磨きにくくなるし、いざ外す時に削らねばならない場合もあり、ファッションとしてはハイリスク」…… 


 いやはや、である…

 原左都子の場合、天然「八重歯」を生来的に持って生まれ出た人種だ。
 それでも、我が国に於いて歯並びが悪い人種こそが“諸悪の根源”のごとく忌み嫌われるような時代に化した頃には、この私ですら歯の矯正に踏み込もうかと志した事もある。 ところが我が残された人生と平行して、この“ボロ歯”を矯正したところで後何年持つのだろうとの冷静な思いの元でそれを断念した。 持って生まれたこの“ガチャガチャ歯並び”を大事に慈しむ事こそが我が「歯」に報いることと悟り現在に至っている。

 若者達よ、是非共自分が持って生まれた個性や特質を大事に育んで欲しいものだ。
 人真似が通用するのは若かりし時代のみだ。 その後その“人工付け八重歯”をどうするのかを含め、もう少し自分の未来を見つめる視点を育てて欲しい。
 経済危機の世を活性化するために端末部分で自分自身がその犠牲となるのではなく、もっとグローバルな目線で時代を変えていくエネルギーとなるべく視野こそを培って欲しいものだ。

五輪に於ける “引分け戦法” は姑息か、正当か!?

2012年08月06日 | 時事論評
 現在開催中のロンドンオリンピックに於いては、今までの大会では経験していないようなマイナス面でのトラブルが浮き彫りになっている印象がある。

 
 その一つは、試合の「判定」に際して審判団(及びその補助委員達)が右往左往し過ぎる失態だ。

 まずは柔道においてその失態が露出した。 柔道男子試合の判定に際し当初「青旗3本」がクレームにより、いとも簡単に「白旗3本」判定に翻ったのには驚いた。
 体操競技においても点数加点ミスを日本男子チームコーチ陣が指摘したところ、その加点が容易に認められ4位が突然“銀メダル”へ昇格になった。 
 昨夜(8月5日)テレビ観戦していた男子フェンシングに関しては、私はそのルールや判定方法を全く心得ないため論評不能である事は承知の上だが、選手側よりのクレームに対していちいち長時間試合が中断する事態にまず首を傾げた。 そしてその都度審判団が“雁首並べて”パソコン画面を見入る有様にもっと仰天させらる思いだった。

 ここで一旦原左都子の私論に入ろう。

 試合判定を画像分析に頼る方が、生身の人間の判断よりも精密であろう事は理解可能である。 それにしてもアスリート達の研ぎ澄まされた技と力を競う世界の五輪祭典において、これ程までに情報処理技術に翻弄され右往左往している審判団の姿が私の目には何とも滑稽にすら映るのだ。
 今後の五輪に於いても判定を情報処理技術に依存せねば五輪開催が立ち行かないのであれば、例えば裏方要員として情報処理のエキスパート人材を導入する等の手法を投入するなど、審判作業自体をもう少しソフィスティケイトして速やかに行っては如何なものか? 


 さて、今回のエッセイテーマである本題に移ろう。

 ロンドン五輪の観戦を楽しみにされている皆さんが一番驚かれたのは、何と言っても「バドミントン女子ダブルス」1次リーグに於いて、中韓等強豪4ペアが醜態を晒した“あの信じ難い事件”だったのではなかろうか。
 当初ニュース影像でその場面を一見した私の脳裏には、「あれ? 五輪まで来てサーブが決められない選手がいるのかな??」 などとのド素人考えが本気で浮かんだ。 と言うのも、恥ずかしながら若き日の私は高校体育時間のバトミントン授業において、サーブすら決められずあの影像のごとくシャトルコック(羽球)を床に落とし続けたからである……  競技エキスパート達にしてそんな訳があるはずもなく、この強豪4チームは直ぐに失格処分を突きつけられる結末となった。
 ここで一旦余談になるが、幸いこのトラブルに巻き込まれる事なく堂々たる試合展開の末に銀メダルを獲得した日本女子の“フジカキ”ペアを私も賞賛したい。 素晴らしき若きアスリートが育っている事実を、このペアから十分実感させてもらえた。
 話を戻して、要するに中韓等強豪ペア達は準決勝以上の試合に於いて自らが優位となるべく巧みに裏計算をした結果、1次リーグで“無気力試合”を展開する方策を採ったとの事だ。
 この事例においては、まさか強豪4チームのあからさまな“無気力試合戦略”に賛同する人民は世界中に存在しないであろうと信じたい。


 それでは、いよいよ表題に掲げた“引分け戦法が姑息か、正当か?”の議論を展開しよう。

 読者の皆さんには、この表題から日本女子サッカーチーム「なでしこジャパン」の予選リーグ最終戦に際して佐々木監督が執った戦略を、原左都子が評論しようとしている事を既にご理解いただいていると察する。

 申し訳ないが元々サッカーファンではない私は、サッカーという競技自体に関する知識がまったくない。 それ故に、如何なる戦法を取りつつ試合を勝ち進み優勝をゲットするのかも知らない。
 少し見聞したところによると、ワールドカップサッカー大会に於いては1次予選のリーグ戦で上記のような戦略が採られる事は日常茶飯事であるとの事だ。

 それでは、五輪サッカーはどうなのであろう?

 それを心得ない私であるが、今回の五輪女子サッカー予選試合に於いて、佐々木監督の口からあからさまに「引分け戦略」を採ることにしたとのニュース報道を受け、私は大いなる違和感を抱かされた。
 私が見聞したNHKニュース報道によると、予選リーグを1位通過すれば決勝リーグの1回戦がグラスゴーでの闘いとなる。 ロンドンよりグラスゴーまでの移動に8時間もの時間を要するがこれでは選手たちが疲労する。できればロンドンに留まり決勝1回戦を迎えたい。 それ故出場選手達に“引分け”を指導した……
 それに先立ち、私は新聞紙上で“裏情報”も仕入れていた。 なでしこジャパンが予選1位通過するよりも2位通過した方が決勝戦に於いて勝ち進める確率が高い、等々…

 上記佐々木監督発言が、やはりメディア上で波紋を呼んだようだ。 
それを吹き飛ばすごとく、その後のなでしこジャパンの活躍によりベスト4まで勝ち進んでいる現状ではあるが…

 それにしても素直かつ健気な“なでしこジャパン”メンバー達の活躍をもって、この問題がうやむやにされて許されるのであろうか??
 現在“なでしこジャパン”が闘っている場とは、天下の「五輪」である。 紀元前の時代より何千年の人類の歴史と進化を刻みつつ時代を創造して来ているオリンピックの会場である。

 もちろん、なでしこジャパンの五輪での今後の活躍を応援したい私であるが、“引分け戦法”を公にしてしまった佐々木監督はこの五輪を元々如何に位置付けていたのであろうか?  少なくとも監督の“内心の自由”は法的にも保障されようが、メディアに面と向かって上記のごとくの公言は慎むべきだったであろう。

 なでしこジャパンが過去に於いて国民栄誉賞を受賞するに至った過程で、私はそれを応援している。 (「なでしこジャパンは国民栄誉賞を貰ってよい!」と題する本エッセイ集2011年7月 時事論評バックナンバーをご参照下さい。)
 そんな栄誉あるチームの監督として、五輪の場でその過去の受賞に泥を塗るような言及は是が非でも避けるべきだったと残念な思いの私である。