原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

「鬱病」という逃げ場を医療界が仕立てるべきでない

2012年08月25日 | 医学・医療・介護
 私は、人間誰しも切羽詰った状況下でその局面から“逃げる”という行為は正当な解決策の一つであるとの思想の持ち主だ。

 当「原左都子エッセイ集」バックナンバーに於いても、いじめ問題を取り上げた 「いじめられている君 今はとにかく逃げよう!」 と題する記事を綴り公開している。


 最近精神医療現場に於いて、「新型鬱病」なる患者が急増しているとの報道である。 この「新型…」は従来の“鬱病”とは症状が異なるとのことだが…。

 朝日新聞8月21日付記事「ニュースがわからん!」より、同じ「鬱病」でも“従来型”と“新型”が如何に異なるのかに関する記述を以下に要約して紹介しよう。
 飲み会や海外旅行には元気に参加できるのに、仕事となると激しく気分が落ち込んで動けなくなり、精神科を受診する20~30台の若者が増えている。 これらは従来の鬱病とは症状が異なるため、「新型」「現代型」と呼ばれるようになった。 
 日本うつ病学会は、現時点でははっきりした分類や定義はできず、根拠のある治療法はないという立場を取っている。 同学会が最近まとめた「うつ病の治療指針」でも、これらは「マスコミ用語」「医学的知見の裏打ちはない」と記している。
 精神科医の間でも意見が分かれているが、軽い症状の患者が増えているのは事実であり、本当に苦しんでいる人をひとくくりに“怠けているだけ”と批判してしまうのは問題だとしている。
 何かに挫折し一時的に心のバランスを崩すことはあり、病気との境目を判断するのも難しい。 「新型鬱病」の中には軽い鬱病やそううつ病、発達障害等別の病気が隠れていることもありそうだ。 また、長引く不況で社会や職場の環境にストレスが多くなったことも影響しているようだ。 鬱病が社会的に知られるようになり、精神科を受診する抵抗感がやわらいだ要因もある。 表面的な症状から安易に「鬱病」と診断されている人もいる、と語る専門家もいる。
 (以上、朝日新聞記事より引用要約。)


 本音を言うと、本エッセイ集に於いて「鬱病」の話題など一切取り上げたくはなかった。
 原左都子の場合、もしも自分に「鬱」傾向があると自己診断したとて、絶対に精神科受診などする訳がないのが一つの理由である。 元々医学関係者の私としては、我が心身に異常が出現した場面に際して、まずは自分自身でそれを冷静に受け止めたいと常に心がけている。 その異常症状の改善策に関しても、ある程度自分なりに総合的に分析して方向付けする能力を培って来れていると信じている。
 だからこそ、ちょっと落ち込んだ位で何で好き好んで精神科になど行くの?? と言いたい思いが強い。 そんな処へ行くから「鬱病」のレッテルを貼られ、副作用が強靭な抗鬱薬や睡眠薬を処方されて薬依存の体を自ら作り上げ、真の「鬱病」患者に仕立て上げられてしまうのだ。

 上記朝日新聞記事内に記されている通り、特に「新型鬱病」とやらに関しては根拠のある治療法がないのが実情であろう。 いい大人であるならば、まずは自分自身で心身コントロール方法を探ってみるべきだ。
 余談になるが、NHKドラマ「梅ちゃん先生」を見ている人はご存知だろうが、開業医の梅子は救急患者以外には「お薬出しますから飲んで下さいね~~」としか言わないよねえ。 この場面が以前より気になっている原左都子だ。 せめて患者側から「何の薬ですか?」と問わせるシナリオを書け!と言いたいところだが、現在昭和30年代のドラマ設定に於いては、開業医などその程度のものかもしれない。

 ただそんな私も、現在多発中の上記「新型鬱病」とやらの症状が出る若者が置かれている現状を多少理解できる気もする。
 「原左都子エッセイ集」バックナンバーにおいて幾度も披露しているが、私はバリバリの“学校嫌い”だ。 そもそも「集団・組織嫌い」の私の場合、人が集まる職場も苦手だった。
 ところが職場とは、お上から無条件に通う事を強制される学校とはまったく異質で、主体的に自己の「能力」を開花できる場である。(学問の場である大学も同様だが。) それ故に「集団嫌い」の私も職場や大学(大学院)という集団内では自分の居場所が見出せ、実績を積み上げ自分なりの地位を築きつつ有意義に過ごせたと自負している。
 私の場合、主体性をもって自己実現可能な大人となって以降は、大失恋でもした場合を除き「鬱」とは無縁の人生を歩み続けていると言える。
 上記朝日新聞の事例にあるような、“仕事となると激しく気分が落ち込んで動けなくなり精神科を受診する20~30台の若者像”とは、要するに自らの仕事に対して主体的能力が発揮出来ず、職場内で自分の居場所が見出せない状況下にあるのだろう。
 ただし、だからと言ってすぐさま精神科受診に走るのはやはり短絡的ではあるまいか?


 ここで原左都子の私事に入るが、我が身内がおそらく“従来型”の「鬱病」を患っている事に関しては当エッセイ集バックナンバーで少しだけ紹介している。
 鬱病も自殺願望が濃厚になる程重症になると、やはり身近にいる近親者にとっては厄介だ。 この症状が出始めた時、身内は「鬱病」と診断して私が精神科へ連れて行った。 そうでもしなければ日常において一時足りとて目を離せず、私一人で抱え込むには負担が多き過ぎた故である。 身内自身は当初「鬱」を否定していたのだが、案の定精神科医は「鬱病」の診断を下し、早速抗鬱薬を処方される事と相成った。
 今となっては私が身内を精神科に連れて行った事こそが、身内に薬依存の“ドツボ”にはまらせる種を撒いたと後悔している…

 そんな身内を今現在も家庭内で抱えているからこそ、そもそも現代において「鬱病」にかかり易い人種の傾向が分析できそうに私は感じるのだ。
 彼ら・彼女らには、“人がいい”との共通項が存在しないだろうか?  そしてある程度恵まれた環境の中のんびりとした道程を生きて来ているのではあるまいか?? そんな“のほほん人生”を歩む範囲内で自らの能力の開花・発揮が叶い(叶ってしまい)、自分が欲する社会的地位もその付随的要因として受動的に舞い込んで来たのかもしれない。
 ところがその種の“人がいい”人種がそれなりの人生を歩む中で、突然“逆境”に直面した途端に、その後の行き先を見失い易いのかと私は分析するのだ。


 それはそうとして 「新型鬱病」 とはやはり、一般人が精神科へ通い易くなった今の時代に精神科分野の医療業界や製薬業界が自己の利益のために作り上げた“負の所産”であると私は結論付けたい。
 医療界が率先して、国民の体調の悪さの何でもかんでもを医療領域の疾患に仕立て上げる方策により患者を増産し、国や自治体と結託して血税を食い潰す癒着行政など、もうそろそろ終わりにするべきであろう。