原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

誕生日雑感 Part2

2012年10月18日 | 自己実現
 最近、私が「原左都子エッセイ集」公開媒体として利用させていただいている goo から、“1年前の記事”が定期的に送信されて来る。
 これを自分で読み返してみると結構面白く、goo も気の利いたグッドアイデアサービスを提供してくれるものと感謝申し上げている。

 昨日誕生日を迎えた私だが、上記gooから届いた2011年10月17日バックナンバー 「誕生日雑感」 が、手前味噌ならが我が半生を“天邪鬼”の原左都子らしく振り返った内容の“力作エッセイ”と自己評価するため、今一度以下にコピーして再公開させていただくこととしよう。


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 私は、昔から年齢を重ねていく事を好意的に捉えている。
 そしてよもや生命の危機が訪れるような場面に直面しても、“命乞い”してまで生き延びようとの発想もない。

 子どもの頃とにかく学校嫌いだった私は、日々自分を押し殺して義務感で生真面目に学校へ通いつつも、さっさと卒業して自由に主体的に生きたい思いから、子供心にも早く年を取りたいと考えることがよくあった。
 残念ながら子どもの頃の私が年を取ることを肯定的にとらえていた理由とは、上記のごとく“後ろ向き”思想に基づいていたことを今となって実感させられる。
 年端もいかない子どもが“早く年を取りたい”などと欲する現状を、周囲の誰かが気付いて助ける社会の受け皿など昔も今も存在し得ないのであろう。
 (私の場合自殺願望がさほどなく、自分の将来は必ずや花開くべく未来像が描けそうな“妙な図太さ”が根底にあったのが幸いとも言えるのだが…)

 “適齢期”(当時の表現であり今や死語と化しているが)を過ぎて30代に突入する時など、既に27歳頃からとっとと30代になりたい思いが強かった。 その後の我が人生において結婚などせず独り身で自立して生きる場合、30代に突入した方が世間の様々なしがらみから解放されてさらに自由に羽ばたけそうに思えたものだ。 (事実そうだったと振り返る。)

 そして我が人生の中で最高に輝かしき“華の時代”だった30代を煌くばかりに通り過ぎ、40歳を過ぎた頃、私は癌を患った。
 この時、私は初めて「死」というものを直接的に意識するはめとなった。 だが、産んだ子どもが未だ2歳であるが故の母親としての今後の責任を除き、我が人生に悔いも未練もなかった。 もし万一近いうちに命を落とすことになろうとも、私は心より「いい人生だった!」と思えるような40年間を主体的に歩んで来たと自負できたからである。

 ところが癌など屁とも思わない私は命を落とすどころかその後も図太く生き残り、50歳になろうとした時にも早く50の山を越したかったものだ。
 その時の心理状態について今分析するに、今後も心身共に自分なりの“若さ”を保ちつつ主体的に生きていける自信があったからに他ならない。

 50歳になるに際して、一つだけ私には懸念点があった。 その懸念点に関しては本エッセイ集のバックナンバーに綴っている。
 本エッセイ集2008年8月公開の 「長生きは一生の得(火傷の編)」 と題する記事には、公開後年数が経過した現在尚ネット上の検索数をある程度頂いているようだ。 
 上記バックナンバーは自分で読み返してもよくまとまったエッセイであると自画自賛するため、皆さんにもお読み頂ければうれしいのだが、ここで上記エッセイ内に綴った内容を少しだけ紹介しよう。
 私が幼稚園児だった5歳の時に、腕にかなり大きな火傷を負っている。
 火傷の直後こげ茶色だったその跡形を不憫に思った祖母が、ある時私に告げたのだ。 (私が産まれた地方ではこの種のこげ茶色の跡形を“こと焼け”と呼ぶのだが)、祖母曰く「体に“こと焼け”がある人間は長生きできないとの迷信がある」 私が応えて曰く「長生きできないと言うけど、いつ頃まで生きられるの?」 祖母曰く「50歳ぐらいだと思うよ」  私が思って曰く「な~んだ、50歳までも生きられたらそれで十分だよ」
 未だ5歳の私にとって、50歳とは想像を絶する程遥か遠い未来に映ったものだ。

 ところが、祖母から伝えられた“迷信”が後々まで私の脳裏にこびりついていたのだ。 50歳を目前にした時の私は、50歳とはこれ程早く到来するものと改めて実感させられるはめとなる。
 我が幼少の頃より父母共にフルタイムの仕事故に不在の家庭において、祖母に育ててもらったも同然の私にとって一番身近にいた祖母の“お告げ”は、私の心の奥底にしっかりと根付いていた。
 50歳が直前になるにつれその“迷信”が現実のものとして迫ってくる。 そしていよいよ50を過ぎその“お告げ”のハードルを越えたことを確信した時には、元科学者の端くれの私とてどれ程安堵したことか…
 
 本日(10月17日)は私の誕生日である。 
 子どもの頃には仕事故に“放ったらかして育てられた”印象を我が郷里の母に対して抱き続けている私だが、その母は私が上京後必ずや誕生日に電話を寄こしてくる。
 本日も母が私の誕生日を祝って曰く、あくまでも自分勝手な懐古趣味の観点から「あなたを産んだ日の自分の苦しみを今でも鮮明に覚えている」との事だ。
 
 それは少し分かる気もする。 私も我が娘を超難産の末に仮死状態で産んだ日、そしてその直後から始まった「お抱え家庭教師」としての二人三脚の苦難の日々を一生忘れ去る事はないであろうからだ。

 誕生日とは、特に産んだ親からは子供がこの世に産まれ出た奇跡こそを第一義に祝福して欲しいものであると思いつつ、既に年老いた我が母が“身勝手な”誕生祝いを寄こす事を、我が還暦に近づく今となっては受け入れねばならないのであろう。

      (2011年10月17日記 「誕生日雑感」より一部を引用)

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 上記バックナンバー内の、5歳の頃の祖母よりの“50歳若死のお告げ”は今尚私の脳裏にある。
 それがあるお陰で、特に50歳を過ぎてからは毎年誕生日にはまた一つ年齢を重ねられた事に実に感謝の思いなのだ。
 
 そして今年もまた郷里の母より“自己懐古趣味”のお祝い電話が届いた。 今年の母のセリフは「あなたを産んだ日はよく晴れていた」である。 加えて、毎年言う決まり文句は「あなたの年齢になると誕生日なんか来て欲しくないでしょ。」
 それに反発して私も毎年決まり文句の返答をする。 「上京して自立し、我が人生を独力でリセットした後(適齢期の)25歳過ぎた頃から、私は誕生日が来るのが毎年うれしくて仕方ないのよ。 特に50過ぎてからは毎年年齢を重ねていくことに感謝してるよ。 今は早く還暦を迎えたい気分だよ。」

 いや本心でそうなのだ。 60歳を過ぎた時に「60歳以上の部ロードレース」に出場する事が現在の原左都子の一つの夢でもある。

 昨日の我が誕生日に、大学の講義が休講のため早めに帰宅した娘が、近くの陸上競技場での“バースデイ・ラン”に同走してくれると言うではないか!
 昨日その陸上競技場にて母娘共に屋外タイムとしては“新記録”を樹立出来た事が、何にも勝る誕生日プレゼントと感動した私だ。

若かりし頃の趣味リバイバルはいかが?

2012年10月15日 | 自己実現
 (写真は、30年程前に購入し今現在も自宅に保存している ヤマハエレクトーン D700機種)


 私が未だ独身だった24歳~29歳頃までの約5年間、電子オルガン(早い話が“エレクトーン”であるがこれはあくまでもヤマハの一商品名)演奏を音楽趣味の一つとしていたことに関しては、本エッセイ集バックナンバー “音楽カテゴリー”等に於いて幾度か紹介して来ている。 
 重ねて、2007年9月バックナンバー 「資格は取りゃいいってもんでもないが…」 に於いて、当時ヤマハが実施していた“エレクトーン演奏グレード”検定試験に9級からチャレンジし、6級まで取得していることも既述した。
 参考として、この資格を一庶民が6級まで取得したところで社会的に身を助ける程の“食い扶持”とはならない性質の資格試験であることは百も承知の上だったが、自己鍛錬の意味合いで私は段階を得つつ資格試験にチャレンジし続けた。
 
 当時、私はヤマハ大人の教室でエレクトーン「個人指導」を受講していた。
 我が担当先生がおっしゃるには、若いうちに“グレード7級”程度以上を取得しておくと、たとえその後ブランクがあっても少し練習すれば“一生ものの趣味”として後々音楽を楽しめる、とのアドバイスでもあった。♪♪
 その7級までは調子良く各級を段階的にクリアしてきた私だが、実は6級受験に至った後難儀した。

 ここで当時のヤマハエレクトーングレード試験内容を我が記憶に基づいて少し紹介すると、試験は複数項目に及んでいた。
 その一つは自分が選択した「課題曲」を弾きこなす力、二つ目は「和音の再現力」(検定担当者が弾いた和音をその場で聴き取って再現する能力)、学科試験(があったかどうかは記憶が薄れているが、少なくとも9級段階から問答によるそれらしきものが存在した)。 そして私が一番苦手としたのが「編曲(アレンジ)課題」だった…
 この「編曲課題」に関しては、普段の受講時より個人指導先生より“痛めつけられて”いた。 先生曰く、「音楽に今後更に勤しむに当たっての初期段階として一番重要なのが“アレンジ力”なのよ。 貴方は音楽が好きと言うけれど、これだけアレンジ力がなくて何をもって音楽好きと言ってるの? 云々…」  先生のご思考に重々賛同する私だ。 ギターと同じくコード進行でメロディラインを創り上げていくエレクトーンの場合、さしあたって“アレンジ”力を身につけるべきなのは理解済みだが、これを指摘される程にどんどん意気消沈していく私…
 6級試験を何とかクリア出来た後、私はヤマハエレクトーン個人指導教室を退席する事と相成った。

 結局「アレンジ力」なきままにエレクトーンから遠ざかった私だが、その後も様々な分野の音楽趣味を全うしつつ現在に至っている。


 今回の記事を綴ろうと思ったきっかけとは、8月上旬頃引っ越して来た我が家の“お隣さん”が、昨日、実に新鮮で美味しい北海道産“北あかり”(じゃがいもの一種)を届けて下さったことによる。

 集合住宅のお隣に引っ越して来られた“老夫婦”と、その後良き関係を保っている我が家だ。
 今時、都心の集合住宅(要するに“マンション”)に於いて“物々交換”の儀礼など拒否されるのが当然の成り行きの時代背景であろう。 ところが現在、この“儀礼”が我が家と隣家との間で成り立っているのだ! 
 一番最初“引越し挨拶”として頂いた菓子折のお返しとして私が郷里の特産物を“お裾分け”との形で持参したところ、“お隣さん”が実に喜んで下さったのだ。 その後も引き続き、お隣さんは時期を見計らって色々と産地直送の農産物等を我が家に届けて下さるではないか!  原左都子とて、その好意に甘えてばかりではなく、郷里に帰省した暁等々何かにつけお隣さんに心ばかりの手土産を持参する等の関係を続けている。


 この近隣関係の良好さと我がエレクトーン趣味のリバイバルに、一体何の相関関係があるのかとお思いの読者の方々がいらっしゃるであろうか??

 その図式は以外と簡単である。
 実はお隣の老夫婦も、鍵盤楽器を一つの趣味とされているご様子なのだ。 ご老人であるが故にさして長時間鍵盤楽器を弾いておられる訳ではないのだが、昼間に時折楽器演奏音響が我が家に響いてくる。
 そうすると、我が家に於いても、エレクトーン(及びピアノ)を弾いても“お互い様”なる発想が湧き出てくるというものだ。 何分、日頃の“物々交換儀礼”によりある程度の信頼関係が成り立っている。

 そして昨日の日曜日に、私は久しぶりに我がエレクトーンを開けたとのいきさつだ。
 上記写真の通り、内側は美しさを十分に保っている我がエレクトーンである。 と言うのも、いつかは再演奏したいとの思いと共に手入れを欠かしていないためであろう。
 ただ購入後既に30年の歴史と共に、幾度の引越しにも耐え抜いている我がD700機が完全であるはずはない。 過去に一度ヤマハにメンテナンスをお願いしたところ、部品保存の理由でこれが修繕最後との通告も受けていた。 それから既に十数年の年月が流れている。

 我が家の(上記写真)エレクトーンD700型(約80万円也)とは、過去に於ける「マニュアル機種」としては庶民が自宅用に購入する機種の中では最高レベルであったものと私は捉えている。(これを20代後半頃、ボーナス一括払いで購入した事に関しても記述済みだ。)
 その後まもなく、エレクトーンの歴史もデジタル世界へと移り行くこととなる。

 昨日、そのD700機種の蓋を開けて何年かぶりに再演奏を試みると、手入れの良さによるのかなかなか調子が良い。 20分程練習を繰り返していると、昔取った杵柄と表現するべきか、以外や以外私の両手両足が自然と動くではないか!

 今後はエレクトーン演奏も、レトロなマニュアル機種により我が趣味の一つとして復活しそうだ。

科学基礎研究の終点は 「ノーベル賞」 なのか?

2012年10月13日 | 時事論評
 先だっての10月8日に今年のノーベル医学生理学賞を受賞した京都大学教授 山中伸弥氏は、その後マスメディアに幾度となく登場して、その喜びの程を満面の笑みと共に国民の前で晒しているご様子だ。

 受賞の一報が入った翌朝には、早速奥方を引き連れての大々的記者会見と相成った。 
 ノーベル賞授賞式本番に奥方を同行する受賞者は数多いようだが、受賞の連絡を受けた直後にメディア側からの要請に快く応じ、ご夫婦お揃いで記者会見に臨む研究者は珍しいのではなかろうか??
 
 私など、サミット等先進国首脳会議の場に、国家首脳にのこのこくっついて来てメディア上にしゃしゃり出る奥方の存在にすら不快感を抱くことに関しては、当エッセイ集バックナンバーにおいて再三述べて来ている。  
 (よろしければ「原左都子エッセイ集」バックナンバー2007年10月「サルコジ仏大統領前夫人の離婚の理由」、あるいは2009年10月「ファーストレディの真価」等をご参照下さい。)

 記者会見の場での山中氏の奥方に話を戻そう。
 私はてっきりこの奥方は山中氏の研究室の同輩でもあり、その立場での苦労話を披露するためにわざわざ記者会見に臨んだのかと思った。 ところが口から出て来るトークとは、「自宅で冬用布団にシーツをかけていたらノーベル賞の連絡が英語で入った」だの、「研究もマラソンもやり過ぎないように」だの、主婦としての話題から逸脱していない談話ばかりを披露する。
 その奥方の表情が明るければ国民皆が今回の受賞を我が事のように喜ぶだろうとの、メディア側の図式に乗らされる国民ばかりがこの世に存在する訳ではないだろうに…


 どうも、私は以前より山中氏の行動の派手さが気になっていた。
 
 そもそも元医学関係者であり医学基礎研究に携わった経験のある私は、世紀の「ノーベル賞」と言えどもその裏舞台ではコネが渦巻いていたり、“順番待ち”の世界であることは(あくまでも裏情報として)認識していた。
 山中氏に関してもその研究内容のレベルの程はともかく、まるでタレントのごとくメディアに登場したり、マラソンにて公道を走ることにより自身の研究PR活動に勤しんでいる様子に少し首を傾げたい思いも抱いていた。

 そうしたところ、今回50歳の若さにしてノーベル賞受賞とのことだ。
 山中氏曰く、「今回は名目上は私にノーベル賞が贈られることになったが、日の丸の支援がなければ受賞できなかった。 まさに日本という国が受賞した賞だと感じている。 喜びが大きい反面、iPS細胞は医学や創薬において未だ可能性の段階であり実際には役立っていない。 来週からは研究に専念して論文を早く提出したい。 (今回の受賞は)これからの私の研究者としての人生に大きな意味を持っている。 
 (ホントに貴方がそう思っているなら、メディア上での言動を少し自粛してこそ真に医学の発展を望んでいる国民にその思いが通じると思うのだけど……)

 この山中氏の談話を受けてか、首相官邸で山中氏と面会した野田首相は「大きな支援を受けて研究が進み受賞に繋がった。これは日本全体としての受賞であり日本国中大喜び」などと、さも自分が国家主席であるかのごとくの身の程知らずな見解を述べている。 
 (野田さん、現在窮地に立たされているあなたの気持ちも分かるけど、山中氏の研究内容を少しでも理解した上での発言なの?)と叩きたい思いの私だ。


 ここで、山中伸弥氏が今回ノーベル医学生理学賞受賞に至った「iPS細胞」に関して、朝日新聞記事を参照しつつ、原左都子の観点も交えて以下に紹介しよう。

 「iPS」細胞とは、皮膚などの細胞を操作して心臓や神経等様々な細胞になる「万能性」を武器に作られた胚性幹細胞である「ES細胞」と原理は同じだが、受精卵を壊して作る「ES細胞」とは異なり、倫理的な問題を避けられる観点から作られた事により注目を浴びている。
 参考のため「iPS」とは induced Pluripotent Stem cell(人為的に多能性を持たせた幹細胞)の略語である。
 
 原左都子の私事に移るが、「ES細胞」に関しては私が医学関係者として現役だった頃より注目を浴び始めていた対象だった。 当時はこの細胞こそが未来の臨床医学を支えるとの思想の下に基礎医学研究者達がこぞって研究を進めていたことを記憶している。
 ところが「ES細胞」とは上記の通り、人間の臨床医学に応用するためには ヒトの受精卵を壊すという手段でしか作成できないとの大いなる弱点を抱えていた。
 
 そこに画期的に登場したのが、山中氏(ら基礎医学研究グループ)による「iPS細胞」であったとのことだ。
 この研究自体は事実“画期的”と言えるであろう。


 ところが原左都子が今回懸念するのは、「iPS細胞」研究に対してノーベル賞を贈呈するのは時期尚早だったのではないかという点だ。
 と言うのも、「iPS細胞」は未だ基礎研究段階を超えてはおらず、人間の命を救うべく臨床医学に達していないと考えるべきではあるまいか?

 一昨日頃より世間を賑している“日本人研究者による「iPS細胞」臨床応用事件”がそれを物語っている。
 当該事件に関してここで簡単に説明しよう。
 あくまでも日本人の医学研究者が言うには、「iPS細胞」を既に臨床応用して心筋細胞を作り、重症の心不全患者6名に移植するとの世界初の臨床応用を行った、とのことだ。
 この日本人研究者の論文に名を上げられた大学病院や研究機関の関係者達は、その関与を全面的に否定しているとの本日メディアからの情報である。


 決して、今回の山中氏の「ノーベル医学生理学賞」受賞にいちゃもんをつけるつもりはない。

 ただ原左都子が考察するに、「ノーベル賞」受賞対象となる科学分野の基礎研究とは、医学生理学賞、物理学賞、化学賞を問わず、現在までは当該基礎研究の成果が既に世界規模で実証されていたり、経済効果がもたらされている研究に対して授けられて来たような記憶がある。

 例えば過去に於いて一番意表を突かれたのは、㈱島津製作所 に勤務されていた田中耕一氏の「ノーベル化学賞」受賞に関してではなかろうか。
 当時ご本人は一企業会社員の身分であられたようだが、田中氏が過去に於いて達成された「高分子量タンパク質イオン化研究」が後々世界に及ぼしている影響力の程が、絶対的に世界的規模でその経済価値をもたらしているからこそ、田中氏にノーベル賞が贈呈されたものと私は解釈している。

 この田中氏の業績と比較すると、山中氏による「iPS細胞」はご本人も言及されている通り、まだまだ研究途上と表現するべきではあるまいか?

 
 今回のエッセイの最後に「ノーベル賞」を筆頭とする「賞」なるものの意義を問いたい私だ。
 「賞」を取得したことでその人物の今後の道程を歪めたり、更なる発展意欲を縮める賞であるならば、その存在価値はないと言えるであろう。
 そうではなく、受賞者に今後に続く精進を煽る意味での「賞」であって欲しいものだ。

原左都子 プロフィール

2012年10月10日 | お知らせ
 「原左都子エッセイ集」をネット上に開設後5年以上の年月が経過した今頃になって、遅ればせながら著者である 原左都子 のプロフィールをこの場で公開するのには理由がある。

 5年前の本エッセイ集開設後1ヶ月半が経過した頃、ネット上で ブログコミュニティ なるブロガー会員組織が存在する事を発見した。
 “edita(エディタ)コミュニティ” と称する上記コミュニティが、来る10月22日をもってすべての会員サービスを終了するとの通知が2ヶ月程前に我が手元にも届いた。

 私の場合5年前のedita会員登録当初こそは、おそらくブログコミュニティとしてネット上で絶大なる会員数を誇る当該コミュニティのバックアップ力を、最大限利用させて頂いた事には間違いない。
 その恩恵により「原左都子エッセイ集」開設当初よりコミュニティを通じて“良質”な読者の方々に恵まれ、5年が経過した今尚それら“良質”読者の皆様が日々我がエッセイ集をご訪問下さっている事に関して edita に重々感謝申し上げたいものだ。

 ところが3年程前に、この edita がブログコミュニティとしてよりもネット上の“友達作り組織”と様変わりした頃より、その意思のない私はこの組織と大きく距離を置いてきた。
 それでも尚、edita を通して我がエッセイ集に訪れて下さる方々が存在する事に感謝する意味で、会員登録は抹消せずに現在に至っている。
 

 さて、このeditaが近日中にサービスを全面停止するに当たり、私が edita に登録した プロフィール をはじめとする情報のすべてが抹消されることと相成るのは当然の成り行きだ。

 実は、原左都子はネット上で自分が納得ゆくべくまともなプロフィールを公開出来ていない。
 例えばこの goo ブログの場合、(私が無料版を使用しているためか、あるいは単に私が編集画面の使い勝手を理解していないだけの話かもしれないが…) 自分の思い通りのプロフィールが登録不能なシステムとなっている。
 あるいは現在 Facebook にもペンネーム「原左都子」名にて登録してはいるが、この世界に名立たるネット媒体の編集画面は実に実に使い辛い。  例えば「原左都子」のトップ肩書きとして私自身は 「『原左都子エッセイ集』著者」 と記したく思い何度も編集をチャレンジしているのに、どうしても「修士」の文字が前面に出てしまい、幾度書き換えても更新不能状態を強いられている…

 そんな中、来る10月22日をもって抹消される運命にある edita の会員プロフィール編集画面は実に使い易かったものだ。
 その編集画面はeditaの“質問に応える”書式とでも表現すればよいのか、おそらく会員誰しもが書き込み易い形式であったと私は評価する。
 

 それでは、「原左都子エッセイ集」本体では初公開となるが、上記 edita 画面内で5年来公開してきた我がプロフィールを、edita サービス終了と共に抹消処理となるのに先立ち、この場で今一度コピーして保存・紹介することとしよう。
 (質問項目はあくまでもeditaの書式によるもの)



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自己紹介:

「原左都子エッセイ集」本文の端々にプロフィールをちりばめておりますので、是非共エッセイ本文をお読み下さいますように!
165cm、47kg、この体型を長年keepし続けています。
誠に勝手ながら、ネット上の「友達作り制度」には一切参加致しておりません。
「原左都子エッセイ集」にご興味をお持ちいただけました場合、直接エッセイ集本体にお越し下されば幸いです。
皆様のご訪問をお待ち申し上げております! 


性別 :  女性

血液型:   AB型

所属 :  医学関連民間企業、及び 高校教職経験あり

住まい :  東京都 

出身校 :  横浜市立大学大学院修士課程修了、経営法学修士取得

お気に入りの有名人:   明川哲也 (当エッセイ集 「人間関係における相対性」他を参照下さい)

お気に入りの音楽:   70年代ディスコサウンド (当エッセイ集 「70年代ディスコサウンドで踊ろう!」他を参照下さい)
お気に入りの音楽:   クラシックバレエ音楽 (当エッセイ集 「ラ・シルフィード(全幕)」他を参照下さい)

お気に入りのアート:   アンリ・マチス、 ラウル・デュフィ、 長はるこ「B-cushionシリーズ」コレクター  

お気に入りの食べ物・飲み物:  エスカルゴ(FLOのは美味しい!)

取得資格: 
税理士試験税法3科目免除申請通過 (その他 医学関連の国家資格、高校中学教職免許、英検2級等、多方面に渡る多数の資格を取得。  詳細は当エッセイ集 「資格は取りゃいいってもんでもないが…」をご参照下さい。)
 
ブログ上のお付き合いに関して:
基本的に一匹狼タイプの人間ですが、当方が気に入ったブログへはこちらからもアクセスさせていただきます。 ご迷惑な場合は無視していただけましたら決して深追いは致しませんので、お互いに良識的に対処しましょう。

ブログのコメント受付に関して:
「原左都子エッセイ集」におけるコメント受付基準を公開させていただいております。 現在は諸事情によりコメントを受け取らないよう設定させていただいておりますが、ご了承いただけましたら幸いです。


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 末筆ながら、 “editaコミュニティ” にかかわって来られたスタッフの皆様には、5年来一会員であった 原左都子 からもこの場で心より感謝申し上げます。  ありがとうございました。   

電車妨害 最高検公判部長 のストレスの程

2012年10月08日 | 時事論評
 今回のエッセイを「酒」カテゴリーに位置付けようと一時考えたのには原左都子なりの理由があったのだが、結論を慮るとやはり「時事論評」カテゴリーとしよう。

 9月28日深夜に表題に記した 最高検公判部長 が公共電車内で引き起こしたアンビリーバブルかつ子供じみた不祥事が、せめても“酒の勢い”による一時の間違いだったものと、我が身を振り返り弁護的に解釈したい故に当初「酒」カテゴリーとした。

 と言うのも何の自慢にもなりゃしないが、当エッセイ集「酒」カテゴリーに於いて再三再四暴露している通り、私は「ざる」との異名を授かる程の“底なし飲兵衛”人生をひた走り続けているからだ。
 もう40年近くなる我が“底なし飲兵衛人生”に於いても、今思い出しても顔から火が吹き出そうな醜態を周囲に晒し、どれだけ頭を下げても取り返しがつかないような大失態により周囲や社会にご迷惑をお掛けして来ている事を認める。
 もし、それら我が過去の“酒”による失策の数々をこの場で今一度お詫び出来る機会を頂けるのならば、ひれ伏して謝罪申し上げたいものだ。


 話題を変えるが、著名人による「酒」による不祥事は過去に数多い。

 本エッセイ集にて取り上げた事例を紹介すると、旧自民党政権時代の故中川昭一外務大臣など、こともあろうに2009年ローマにてのG7会場で、共同記者会見に際し、ろれつが回らずあくびをして目は朦朧状態との醜態を国際影像で晒した。
 後に本人はあれは酒によるのではなく薬の副作用だなどと弁解したようだが、私の目からはどう大目に見ても“飲兵衛の醜態”以外に他ならなかった…。
 この中川氏の酒による醜態に関してはG7会場が最初であった訳ではなく、あらゆる政治活動の場でそれを晒していたとのことだ。 ほぼ“アル中”状態の中川氏はその後50代の若さにして“怪死”に至るはめとなった…
 ここは原左都子の私見だが、中川氏の体内はアルコール漬け、そしてそれを政治家の立場として表向きに隠蔽するための各種薬漬け状態でボロボロだった事であろう。 今更ながらであるが、同じ飲兵衛としてご冥福を祈りたいものだ……

 もう一件、現在は歌舞伎役者として復活を遂げている市川海老蔵氏の“酒”による醜態不祥事に関しても、2010年12月に本エッセイ集バックナンバー 「海老蔵様ご酒乱の顛末」 なるタイトルで取り上げている。
 海老蔵氏に関しては上記の中川氏と比較するとまだまだ若手であるし、古典芸術である歌舞伎舞台に出演するための日々の鍛錬とは、国民の票を集めるべく会合に出席すれば事が済む政治家の比ではなく厳しい現実であろう。
 それにしても海老蔵氏も子宝に恵まれている現状に於いては、後進を育成する意味でも本業である歌舞伎の世界の繁栄のために是非とも精進いただきたいものである。


 それでは、表題に掲げた最高裁公判部長氏が9月28日深夜に公共電車内で引き起こした事件に関して、朝日新聞10月5日記事を参考にしつつ、ここで振り返ることとしよう。
 横浜市内を運行している東急電鉄社内で、夜11時半頃各駅停車の車内でドアの開閉の異常を示すランプが点灯した。 運転士が運転席に近い左側ドア付近にいた男性のカバンが挟まっているのに気付いた。 その前の駅でも同じドアでカバンが挟まるトラブルが起きていた。 運転手がその男性に声をかけると自分が故意に挟んだことを認めて謝罪したため東急電鉄側は神奈川県警に通報した。
 電車ドアの異常に関しては、男性が乗り換え前の電車から異常状態が認識されていたとのことだ。 結局加害者男性は東急電鉄の6駅に於いて電車通行妨害を繰り返していたことが発覚した。
 東急電鉄の連携プレーにより、乗客が故意にドアにカバンを挟んでいたことが発覚し、その犯人を事情聴取したところ最高検公判部長(58歳)がその行為を認めたとのことである。
 
 さてこの最高検公判部長氏とは、その肩書きが示す通り実にご立派な経歴を誇る人物であられる。
 引き続き上記朝日新聞記事より引用するが、かつては東京地裁特捜部に所属した後全国の地検に対して裁判員裁判対象事件の捜査・公判を指導する再考検裁判員公判部長を経て現在の公判部長に就任している。 しかも、大阪地検の不祥事を受けてその検証結果をまとめる中心的役割も果したとのことだ。
 今回の電車妨害事件に関してその関与は認めているものの、朝日新聞取材に関しては「ノーコメント」と話しているらしい。  同僚らによると、細やかな気遣いをする性格で上司や部下の信頼は厚い。 ただ、最近は周囲に「ストレスがある」と漏らすこともあったと言う……


 最後に原左都子の私論に入ろう。

 今回の最高検公判部長による不祥事が、やはり単に“酒”による一時の過ちであると信じたい私だ。
 と言うのも、もしこれがこの人物に元々遺伝子的に備わっている人格故に引き起こした事件だったとしたら、そのような人物を部署の最高責任者として君臨させているこの国は今まで以上に危うい国家であることを認識させられる故だ。

 最高検公判部長の58歳との年齢を考慮すると、原左都子とほぼ同年代ではあるまいか?!?  私など今に至って庶民の立場にしかないし、その身分の人生を少しでも有意義に全うしたい願望なのだが……
 そのためには最高検部長氏と同じ飲兵衛と言えども既に58歳ともなれば、もはや酒の勢いで絶対に世間に迷惑をかけてはならない事のみは、若かりし時代に“痛い思い”を繰り返しつつ肝に銘じているよ。 

 官僚を含めて上下階級が激しい国家公務員の皆があらゆるストレスに耐えて“人格者”を全うしろ!とは言わないが、少なくとも採用段階で“異常者”を排除できないものなのか?? 
 たとえ泥酔状態であったとしても、既に58歳という年齢にして公共場面においてその行為をとってしまう人物の持って生まれたDNAとは如何なるものなのだろう?
 自分は国家に君臨して交通機関に影響を及ぼせる立場にあり公共交通を停止させる実力があるぞ!、との発想が酔った勢いで脳裏に浮かびそれを決行する人物を、国家の主要人物として任命している元凶こそが国政及び国家官僚の貧弱な現実であり、多大なる責任範疇であると再考察する原左都子である。