原左都子エッセイ集

時事等の社会問題から何気ない日常の出来事まで幅広くテーマを取り上げ、自己のオピニオンを綴り公開します。

推薦入試制度の不透明さを問う

2016年03月09日 | 教育・学校
 広島県府中町立中学3年の男子生徒に対する高校推薦入試をめぐり、担任が生徒指導に関する誤った記述の資料に基づき推薦不可との判断を下した事により、当該生徒が自殺に追い込まれるとの痛ましい事故が発生している。


 当該事故報道に関する記述及び私見は後に回すとして、私は常々、高校、大学を問わず「推薦入試」制度自体の不透明性に関して疑義を抱き続けている。

 「原左都子エッセイ集」2013.11.21バックナンバー 「『人物本位入試』が掲げる“人物”善悪の基準って何??」 の一部を要約して、以下に今一度反復させていただこう。

 2013年11月上旬頃、大学入試改革案として「人物本位」を政府教育再生実行会議が打ち出した記事を新聞で発見した。   この記事の表題のみを一見した私は、咄嗟に我が娘が高校時代に大学推薦を受けるに当たり、その“推薦基準”に関し学校面談時に担任相手に説明責任を迫った事を思い出した。
 その内容を以下に紹介しよう。
 「高校による大学推薦に際し、貴校の場合は生徒の学業成績以外に“人物評価”も吟味していると聞く。 その“人物評価”に関してお尋ねしたい。 既に指定校推薦者は決定済みのようだが、如何なる“人物評価”基準によりそれを決定したのか?  我が家の娘は“指定校推薦”を得られなかった立場だが、学業成績に関してはその基準を満たしていると捉えている。 そうなると、娘の場合“人物評価”面で指定校推薦決定者より劣ったとの結論となろう。 それが得られた生徒との間に如何なる差異があったのかを明確に説明して欲しい。」 
 これに応えて担任曰く、「○さん(娘のことだが)の場合、高3直前に進路変更したことが最大のネックとなった。 指定校推薦を決めた他生徒の場合、もっと早くから当該大学の推薦を狙いずっと頑張り続けていたためこちらの生徒を推薦した。」
 分かったようで分からない解答ではあるが、要するに決して“人物評価”でお宅の娘さんが劣ったとは、担任の口からは発されなかったのだ。   これには親として多少救われると同時に、親との面談の場で担任が“禁句”を発しないよう、よくぞまあ徹底的にマニュアル化されていると、当該私学の教員指導ぶりに根負けの思いも抱いた。
 ただ、元教育者である私は更に食い下がった。
 「娘が指定校推薦を得られなかった事由に関しては、一応納得しよう。 それはそれとして、推薦制度に於ける“人物評価”の不透明さを私は常々懸念している。 例えば、一基準として“リーダーシップ力”が挙げられるようだが、たかが10代の子どもの如何なる能力を持って“リーダーシップ力”が優れていると捉えるのか? 特に年齢が若い場合は本人が天然気質で無邪気に騒いでいるのみの要因も否定できなければ、単に学校現場にとって扱い易い生徒にしか過ぎない場合もあろう。 そうではなく、10代レベルでは表出し得ない“リーダーシップ特性”を水面下に内在している今だ未完成の生徒も数多く存在する現状を如何に評価出来るのであろうか?」 等々…   この私の問いかけに関して、おそらく担任は「今後の検討事項とします。」と応えたような気もするが、明確な回答は得られずに面談が終わったと判断する。
 大学入試担当者の判断とて、高校現場の推薦制度とさほどの差異はないと捉えられる程の低レベルどころか、もっと劣悪な結果を導きそうな懸念を抱かされる。   一体全体如何なる“人物本位”基準で合格させたり振り落とされるかの明暗とは、入試担当者の勝手気ままな趣味によるしかないであろう事は誰しも想像が付く事態だ。  この事態とは不透明性が高いと表現するより、試験委員の“好き放題”あるいは“学内で取り扱い易い受験生”を入学対象としている意図が目に見えるとの制度となろう。
 戦後になって推薦入試やAO入試など学力本位ではない試験が次々と登場した。 この背景には学科の成績が悪くても逆転可能なことに着目する「下克上の欲望」があったとの理論を展開する学者氏が存在する。   そもそも試験制度が人間社会で如何なる意味を持つのか? との示唆に富む分析をしたのは20世紀フランス哲学者ミシェル・フーコー氏だ。  氏は近代の試験を「教育実践の中に組み込まれた観察の装置」と位置づけた。 フーコーは、学校のほかにも病院や監獄にも同じ機能があると見ていた。 このフーコーの分析を踏まえ、入試で「人物本位」が強制される場合、「監視装置としての試験の役割はより広がりを持つようになる」と話すのは某東大教授氏だ。  氏曰く、「勉強以外で何をしたの?と試験で問われた場合、「監視」の目が日常生活や心の内までに及ぶ可能性がある。 そもそも、“人物”とは言語化したり計量化したり出来ない領域のもの。 それを評価できると思い込んでいる事自体が問題である。」
 最後に、原左都子の私論でまとめよう。
 いやはや、時の政権は何故今さら教育再生実行会議において、無責任にも大学入試制度に「人物本位」なる新案を持ち出したのであろうか??    この世のどこの誰がそれを見抜ける“神的能力”があると判断したのだろう???  
 人間の個性とは実に多様だ。  大学進学時点で既に大学試験委員相手にアピールできる“程度”の人物像を描ける若者も、もしかしたら存在するのかもしれない。  ただ、大方の若者とは社会に進出した後に自分の真の人生を刻み始めるのではなかろうか?
 そもそも、大学とは入学してくる未熟な学生達に学問を享受させるべき府であるはずだ。 それを基本と位置付け、大学の門をくぐる学生皆に学問を教授する能力を“大学側こそが”切磋琢磨して身につけるべく精進し直す事が先決問題であろう。   それをクリア出来た時点で、政府は大学入試改革を叫んでも遅くはないと私論は捉える。
 (以上、2013.11.21 「原左都子エッセイ集」バックナンバーより一部を引用したもの。)


 ここで私事に入ろう。

 バックナンバーにて記載している通り、我が娘も結果としては高校からの「公募制推薦制度」を利用して大学に進学している。 (明日3月10日、娘なりに立派に卒業式を迎えるが。)
 上記の通り高校からの(その理由は不透明ながら)「指定校推薦」は得られなかったものの、我が娘は高校内の学業成績基準及び英検・漢検準2級以上合格、はたまた高校3年間皆勤等々の「公募制推薦」の条件は十分に満たしていた。 それを利用しサリバン母(私の事だが)の厳しい指導により、大学が公募制推薦生徒に課した「小論文」と「面接」試験課題を本人に徹底的に努力させて合格を導いて来ている。

 母娘二人三脚でその経験をしているから分かる部分もあるのだが、やはり目指す学校(大学も含めて)へは本人の実力で入るべき! なる思いが強い。
 と言うのも、「指定校推薦」とは高校側が大学へ全面的に生徒を推薦する制度である。 下手をすると、当該生徒に一度も会わずして高校推薦を鵜呑みにし、大学が当該生徒を迎え入れるとの極端な制度である。 (要するに「指定校推薦」とは全面的に“コネ”に頼る制度とも理解可能だ。 ただし現在はこの制度も少しは進化している様子で、大学側も一度は「面接」を実施して、一応推薦生徒の“人となり”を見ようといていると見聞している。)


 さて、冒頭に記した広島県町立高校生の自殺事件に話題を戻そう。
 
 広島県府中町立中3年の男子生徒(15)=当時=が昨年12月8日自宅で自殺した問題で、1年生当時の生徒指導の会議で配布された資料にある生徒の万引記録が誤っていることに気付いていたが、資料の内容を保存しているサーバーでの修正作業をしていなかったことが8日分かった。同校には万引などの行為があった際、校長推薦を認めないルールがあった。 生徒と両親、学校側との三者懇談はこの資料に基づいて進められており、ずさんな管理態勢に非難が集まりそうだ。
 自治体教育長と学校長によると、生徒が1年生の時に万引をしたことがあるとの誤った記録を理由に志望校の推薦を出せないとの話を、学校側が三者懇談で両親に伝える予定だった。 生徒は三者懇談の当日に亡くなった。万引の記録は自殺後の調査で別の生徒のものと判明した。
 生徒は公立高校を第1志望とし、受験するために校長の推薦が必要な私立高校を第2志望にしていた。
 12月に入り、推薦できない旨を両親に伝えたかどうか生徒に確認。 8日の三者懇談で両親と会ったが、生徒は姿を見せず、同日夕自宅で自殺しているのを父親が見つけた。
 自殺した男子生徒の両親は、代理人弁護士を通じ「ずさんなデータ管理、間違った進路指導がなければ、わが子が命を絶つことは決してなかった」とのコメントを出した。
 (以上、ネット情報より、一部を要約引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論に入ろう。

 この事件の場合、学校や自治体教委側の生徒情報管理やその運用措置のずさんさこそが一番に叩かれるべきだ! それに関しては私からも何らの異論もない。
 自殺により亡くなった中三男子のご冥福を、心よりお祈り申し上げる。

 ただ、男子生徒が亡くなって月日が流れていないこの時期に酷な事を承知の上で、申し上げたい事がある。 

 実にやるせない事件だ。

 人間にとって何が大事か。
 15歳少年を取り巻く誰彼に関係なく、彼を成長に導くべく大人達が彼に問うべき事柄とは、「貴方は過去に万引きしたのか?」ではなく、「未来に向かって頑張る気力があるか!」だったはずだ! 
 一時の(国政や自治体や私学の身勝手な受験制度改革に錯乱され続ける)推薦受験制度になど翻弄されるよりも、一人間として一生を賭けて自己実現し続けるべく努力する事がずっと大事なはずなのに……

卒業式だと言うけれど、何かを卒業出来るのか?

2016年03月07日 | 自己実現
 (写真は、2013年12月に“大枚はたいて”購入した江戸紅型訪問着と帯。 2014年元旦にも同じ写真を当該エッセイ集にて公開している。  この紅型訪問着とレンタル袴を、来る3月10日に娘の大学卒業式の晴れ舞台に着せる段取りとなっている。)


 普段和服の趣味がない者がいざ和服を着る(着せる)となると、それはそれは“てんやわんやの大騒ぎ”だ。

 娘の卒業式に際しての着付けとヘアメイクは既に昨夏、美容院に予約している。 これに関しては3月10日の卒業式の早朝から実施してくれる段取りだが、それに先立ち、上記写真の江戸紅型訪問着等着付けに必要な和装小物類を自宅の和ダンスから引っ張り出す作業を要する。

 これが実に大変!  

 私自身に和服の趣味など一切ないにもかかわらず、実母のとてつもなく歪んだ趣味により勝手に作って寄越した和服の数々で、我が家の和ダンスは一度も手を通した事が無い和服で溢れている。 
 さらに迷惑な事にはそれに拍車をかけるがごとく、義母から自分の和ダンス一杯の和服を引き取って欲しいと嘆願されて断れず、その一部を貰い受けた。
 ただし昔と違って、今時は和服とてそれを着る人間の身長等体格に合わせた“オーダーメイド”の時代だ。 どうも義母から授かった和服の丈が短いと察してそれをメジャーで測ってみると、実母が私のために作った和服より丈が20㎝も短い事が判明した。 参考のため、上記紅型用長襦袢の長さが150㎝。 義母の和服の長さがちょうど同じと言うことは、165㎝の私が義母の和服を着るとしたら“お端折り”が出来ないと言うことだ。
 まあそれにしても、既に認知力が低下し有料介護施設で暮らす義母にそれを告げずとて、時期を見計らって私が勝手に廃棄処分すれば済む話だろう。


 話題を変えよう。

 「卒業式」と聞かされて私の脳裏に一番に浮かぶのは、私自身の卒業式ではなく、高校教員として就任後初年度の高校での卒業式の風景だ。
 医学専門職を経験している私が次なる学問課題として挑み、その専門を活かし就職したのが公立高校現場であることは、当該エッセイ集にて幾度も公開して来ている。

 既に30代後半時期にして、教員として高校生達と相まみえる経験を心から楽しく享受出来た私である。
 そんな私にとっては、彼らと共に過ごした一時の別れが実に感慨深いものだった。 卒業式が始まる前から涙腺が“うるうる”していた私だが、卒業生入場時に流れたユーミンの「卒業写真」を聞いた途端、号泣してしまった…  (いえいえ、これは教員としてはあるまじき姿ですが…)
 それを見ていたであろう卒業生達が、式典が終わり「卒業生退場」の場面で、女子男子を問わず私に抱きついて来て、会場の後方で皆で号泣したのだ!  
 あんなに感動した卒業式は、今尚経験していない。 
 いやはや、まだまだ未熟な教員として生徒のアイドル(?)の立場で通っていた我が若き時代の勘違い光景であろう。
 ただ今思い起こしてみるに、高校の卒業式としては貴重な風景だったのではなかろうか??  今時、誰が先生に抱きついてくる?  まだまだアイドル先生が存在して、その先生に懐くべく素朴な生徒が存在する頃の話題だ。  そういう意味では、この頃(経済バブル期だが)の生徒達とは、人間関係との分野に於いて“人に懐ける”との素晴らしい特技を修得して卒業に至れる時代背景だったのではあるまいか。


 それに比し、私自身の卒業式を思い出すのは難儀な業だ。

 何分、幼少の頃より集団嫌い学校嫌いの私だった。
 学校のセンコー??  言っちゃ悪いが、幼小中高校を通して、そのほとんどが嫌いだった。 そんな当時の私が学校のセンコーに懐く訳など絶対ない。

 高校卒業式直後に、制服をすぐさま廃棄処分にした話題は「原左都子エッセイ集」バックナンバーでも暴露している。
 参考だが、私が通っていたのは過疎県ではあるがその県内指折の名門校だった。 その制服の大改造計画を、卒業を迎えた3ヶ月ほど前に企てた。 当時荒れた女子高生の間で流行っていた、ロンスカ、上着のウエストを入れるとの“スケバン”スタイル制服に一夜で仕上げた!
 その後卒業までの名門高校内での(特に女子による)そのスタイルの評価たるや、「カッコイイ!」と上々だった。 ただ私自身の気持ちは、卒業当日までどんより曇り続けていた…
 当時過食症を患う程に心が廃れていた私は、一体全体、高校を如何なる思いで卒業したのだろう?
 今思い起こすならば、まさに表題のごとく、「卒業式だと言うけれど、何かを卒業出来るのか?」との心境だったものと振り返る。

 そんな私も「学問の府」大学へ進学した後にはすっかり本来の自分らしさを取り戻し、学業に精進出来たものだ。
 それが証拠に、その後30歳直前にして再び大学での学問を目指し、その後大学院にて修士号も取得して現在に至っている。

 
 さて明後日大学の卒業式を迎える我が娘も、成人式以来久しぶりに和服を着ることに関して、“気合”を入れている様子だ。
 何分、私が“大枚はたいて”(その価格に関しては「原左都子エッセイ集」2014.1.1バックナンバー 「いとも美しき江戸紅型」内で公開済みだが、早い話が大衆新車1台とほぼ同価格)購入した江戸紅型を着て卒業式に臨める事を、楽しみにしている様子である。

 まさにこの江戸紅型訪問着絵柄のごとく、娘の未来も緻密・繊細かつ煌びやかであって欲しいものだ! 

安倍「辺野古和解」発言は選挙票取り策略のまやかしだ!

2016年03月05日 | 時事論評
 昨日(3月4日)昼前、NKH昼の天気予報とニュースを見ようとテレビを付けたところ、画面の上部にニュース速報のテロップが入った。
 その文言とは、「安倍政権が沖縄県との間で現在こじれている米軍普天間基地移設辺野古工事訴訟問題に関して和解する表明をした」との内容だった。 (原左都子の記憶のみに頼っているため不正確な場合はお詫びします。)

 このニューステロップ文言の趣旨を理解せずしてそのまま単純に受け取ったならば、安倍政権が「辺野古工事を中止するのかなあ」と国民に誤解されかねないことを懸念した。

 一旦、原左都子の私論に入ろう。

 安保法案を強行採決した後も、(極論を言えば)戦争が出来る国家体制を強固に構築するべく突き進んでいる“アメリカニスト”安倍首相が、米国と既に交渉成立している「普天間基地辺野古への移設」をまさか本気で中断する訳がない。
 こいつ(安倍氏のことだが)この期に及んで一体何を企んでいるんだ?!? 
 加えて現在のNHKは籾井会長が就任して以来、安倍政権に迎合した放送に偏っているとも表現出来よう。
 そのNHKを政権が利用して、国民をたぶらかすがごとく中途半端なニュース速報テロップを流させたとも受け取れる。 それを見た国民に「安倍さんは、沖縄を救ってくれるんだ」との誤った感覚を植え付けるのが、昨日のニュース報道側の狙いだったとすれば、NHKの体質も許し難いものだ。

 
 さて、ここでその後報道された「安倍氏による辺野古工事に係る沖縄県との訴訟和解」に関するニュース報道を紹介しよう。

 沖縄のアメリカ軍普天間基地の移設先とされている名護市辺野古沖の埋め立て承認を巡り、国が沖縄県を訴えた裁判で和解が成立したことについて、沖縄県の翁長知事は3月4日午後3時ごろ、防衛省で記者団に対し「半年間にわたる裁判闘争を取りやめて話し合いが始まるのは望むところで、話し合いの中から展望を見いだしていきたい。沖縄県の主張も取り入れた和解内容となっており、政府には、県民に寄り添いながら協議を進めてもらいたい」と述べた。
 また、翁長知事は、安倍総理大臣が普天間基地の全面返還を実現するには、移設計画が唯一の選択肢であるという考えに変わりはないと発言したことについて、「大変残念な発言で、『辺野古が唯一』というから話し合いが進まないので、和解に応じたときにする発言ではない」と批判した。 その上で、今後の協議がもの別れに終わり、その後の裁判で県側に不利な判決が出た場合の対応について、「これまでの裁判では、司法の決定には行政として従うと話しており、裁判という意味では判決に従う」と述べた。
 (以上、昨日夜に発見したネット情報より引用したもの。)

 上記のネット報道を受けて、再び原左都子の私論に入らせていただこう。
 あくまでも私は沖縄県知事翁長氏支持派だ。 
 その立場としては、昨日昼間にテレビのニュース速報との形で突如として突き付けられた、安倍氏からの「和解」なる挑戦状に受けて立たねばならなかった翁長氏よりの“とりあえず”の回答としては、これが精一杯だったのではなかろうか。
 翁長氏とて、当然ながら私が危惧している“安倍氏の選挙策略”との裏心も理解している事であろう。
 それでもこのニュース速報を「辺野古基地工事中止」か!と一時勘違いして“ぬか喜び”している沖縄市民の感情も汲みたかったものと捉える。

 ここはどうか特に沖縄県民の皆さんには、今回の安倍氏による「辺野古和解」発言を誤解しないでいただきたい。
 安倍氏は昨日も各種報道機関を通して、「必ずや辺野古基地への移設は実行する!」とメディア上で言い切っている。
 要するに安倍氏がこの期に及んで狙ったのは、「和解」なる市民がなびき易い言語を用いる事により、辺野古工事に関して国民に対して“目くらませ”をしただけの話だ。  夏の選挙が終われば、安倍政権は今まで通り是が非でも「辺野古基地」建設に向け、「三権分立」との国家基盤を揺るがして司法を丸め込み、自らの野望を実現する魂胆なのだろう。
 私論としては、そうなる前に是非とも安倍政権を潰したいものだが…
 どうして、この大きく歪んだ政権に貴重な一票を入れようと志す国民がこの国に存在するのかが理解出来ないでいる…


 それにしても自民党政権が現在2016夏の衆参同日選(?)に向け、「票取り策略」を展開するに血迷っている現実を報道で見聞する都度、その内容の“嘘臭さ”にうすら寒い感覚を抱かされる。

 例えば、「原左都子エッセイ集」前回公開エッセイにて取り上げた、文科相による遅ればせながらの「学校の責任範疇に於いて出した児童生徒の死者に対する対策指針」案もそうだ。 

 あるいは、本日(3月5日)安倍首相及び丸川防災大臣は東日本大震災5回忌に先立ち東北へ出向いたらしい。
 その映像が昼間のNHKニュースにて流されたが、そもそも原発推進に躍起になっている安倍政権が東北地方を訪問して今更綺麗事など言うな!と非難したくもなる。
 しかも丸川大臣など、原発汚染廃棄物保存施設が地域住民が住む近くに設営されていることを露知らなかった有様。   本日その実態を初めて知って「住民が暮らす直ぐ近くにこんな汚染物が置かれていたのですね」と言ったら国民受けすると思っているらしき、その“勘違い天然ボケ阿呆ぶり”こそどうにかならないものか!!

 とにかく国民の皆さん、現在自民党政権が躍起になっているのは夏の選挙戦にて“票を取りたい!”との身勝手なポリシーにのみ基づいている事を把握しようではないか!
 その上で、どうしても自民党政権を支持したいと言うならば私の知った事ではないし、そういう方々とはお付き合いも出来ない故に、今後原左都子には接触しないようお願いしたいものだ。


 表題に戻ろう。
 原左都子の私論としては、今まで沖縄県民の皆さんを苦しめ続けて来た米軍基地を、どうしても沖縄県外あるいは国外へ移設したいと志している立場だ。 極論を言えば冗談抜きで、東京都(出来れば永田町)に移設してもよいとすら考えている。
 そんな極論を提示せねば、本気で沖縄県民の皆さんを米軍基地を抱える苦悩から救えるはずもないだろう!?!

学校に子供を殺される程やるせない事はない

2016年03月03日 | 教育・学校
 娘が来週、大学の卒業式を迎える。🎓

 思い起こせば幼稚園から始まって小中高校そして大学と、19年間もの長き年月に渡り娘に学園生活を強いて来た親としては、やっとこさ学校なる集団の場から解放され自由に羽ばたける思いで実に清々・晴れ晴れしている。


 何分、根っから集団嫌いな原左都子だ。
 本音を言えば自分自身が忌み嫌って来た集団生活を強要される学校へなど、可愛い子供を行かせたくはなかった。
 ところが特に義務教育課程である小中学校へは、子どもを通わせねばならない法的義務が親に課せられている。
 幼稚園はそもそも二の次の存在として、義務教育ではない高校も99%進学させねばならない現状下にある。

 大学に関してはその存在意義が「学問の府」と法律上も定められている通り、他の学校とは根本的に異質な存在である。
 故に学校嫌いな原左都子も、大学のみは娘を通わせることに抵抗感はさほどなかった。
 そんな母の思いと重なったのか、我が娘の大学生活も「集団」に翻弄される事など一切なく、自主的に学問に励め娘なりに立派に卒業出来る事が何よりである。


 そんな我が娘も、義務教育課程では学校で散々な目に遭って来ている。

 その最たるものが「いじめ」だ。
 何分出生時に事情を抱えて誕生した我が娘が、必ずや集団内で「いじめ」に遭うだろうと元々母として予想していた以上に、学校現場で「いじめ」に遭うわ、遭うわ…
 こんな事で我が子の命を失ってはなるまい!!(娘の場合は命を失う程のいじめには遭っていないが、将来に及び人格を疎外されそうな害は度々受けている)との対抗力で、母としてどれ程学校現場と闘ってきた事か!

 あるいは現在、公立小学校への集団登校により多数の児童の死者が出ている現状だ。
 これに関しては、首都圏に住む私はあらかじめ娘の通学路として学校が定めている道路を娘と共に一緒に歩いて点検をした。 それに関して、学校長に危険個所を訴える活動も個人的に実施したものだ。

 それから、小学校運動会で多数の骨折者を出している運動会競技「組体操」。
 これを娘に強要されたのでは、必ずや何らかの負傷をするであろうと母として予想した。 それを個人的に学校へ訴えたところ、我が娘に対する配慮のみはしてくれた様子だ。 ただ、その他児童に対する配慮が無かったことが気がかりだ…。

 追随して、現在小学校現場で全員に強制され全国各地で毎年何名かの死者を出し続けているプール指導に関して。
 娘も小6時点で未だ泳げないにもかかわらずプールに強制的に入れられ、適切な指導がなされないまま毎時間プール内で立たされ凍えた事も経験している。
 この話を娘から聞いた私は居ても立っても居られず、すぐさまプール指導のあり方に対して学校と話合いを持ちたい思いが山々だった。 ところが当時の担任が残念ながら“話せる”相手ではない事を承知していたため、「体を冷やさないためにプール内でウォーキングをしていなさい」と娘に直接指導した。 それに素直に従った娘に浴びせられたのは、「歩いてないで泳げ!」との担任よりの無常な言葉だった。 幸いプール指導は9月上旬で終了するため、「あと少しの我慢」と娘を励ましつつ、学校からの非情な仕打ちに耐えさせた。 まったくもって、指導力が無いなら全員強制で正規の授業としてプール指導など実施するな!と吐き捨てたいものだ。

 更には給食食材に対するアレルギーにて、学校現場で少数ながらも死者を出し続けている現状。
 
 究極を言えば、今年3月11日に5回忌を迎える東日本大震災の大津波により、学校が指導を誤ったばかりに、多数の児童生徒(及び保護者)の死者を出すに至り廃校になった義務教育現場…

 児童・生徒が学校に(言葉が悪いことは認めるが)“殺された”実例を挙げるときりがない程だ…


 多少ではあるが事情を持つ子どもをこの世に産み落とすしか手立てが取れなかった一女の母として、どうして五体満足にこの世に生を受けている子供達を学校現場が殺し続けるのか!?!
 実際、学校教育に対し憎しみに近い思いをもって、私はこの問題を直視し続けてきている。

 ろくでもない教育しか出来ないのならば、いっそ義務教育などやめたらどうか?!
 との私論は極論と理解していつつ、少なくとも、学校を信じてそこへ毎日最愛の子供を通わせる親達の思いをもう少し汲めないものか?? とずっと心を痛めて来た。


 昨日(3月2日)発表された我が上記の懸念に対する“文科省の今後の指針”をネット上で発見したため、以下に紹介しよう。

 学校での授業や登下校時に起きた事故などで、子どもが亡くなった時の対応について、文部科学省が2日指針案を公表した。 遺族の要望があれば、自治体が調査委員会を作って原因を調べることを初めてルール化したのが特徴だ。 3月中にもまとめ都道府県などに通知する。
 指針案では、水泳授業中の事故や地震、津波などの自然災害、給食アレルギーなどで幼稚園児や小中学生、高校生らが死亡したら、学校は3日以内をめどに関係する教職員から聞き取り調査する。
 さらに、遺族の要望があるか、再発防止のために必要と判断すれば、市町村教育委員会といった学校の設置者が弁護士や学識経験者で構成する第三者調査委を立ち上げ、原因を調べて報告書をまとめる。 責任追及が目的ではないとした。
 このほか、遺族と学校の連絡を取り持つコーディネーターを各教委に置く遺族支援策も盛り込まれた。
 現在は国の指針がなく、事後対応は学校や自治体に委ねられている。 遺族が原因や経緯を知りたい場合、訴訟を起こしたり、自治体に調査開始を働きかけたりしなければならない。 文科省の調査では、2005〜13年度に災害共済給付が支給された死亡や大けが403件のうち、調査委が設置されたのは2割だった。
 (以上、ネット情報より引用したもの。)


 最後に、原左都子の私論でまとめよう。

 え~~!!
 こんな簡単な指針を、何故今まで文科省は一度たりとて国民に対し発表して来なかったのか?!?
 すべてを自治体教育委員会の判断に任せて、放置して来たのか!?!

 まさに驚くばかりだが、少なくとも義務教育として学校へ強制的に通わせている児童生徒の命は、その法制度を立ち上げている大本である文科省が率先して守り抜くべきだ。

 まあそうとは言えども、今現在マイナス金利及びアベノミクス経済崩壊であえいでいる自民党政権文科省に子供の命を期待したところで、要するに自民党政権が選挙戦に勝ちたいだけの方策に過ぎず、何の実効性の保障もないのだろうな……

 ここはやはり国民親御さん達、学校教育現場に於いて可愛い我が子の命が犠牲になる事などないよう、是が非でも我が子の命は親自身で守り抜きましょう!!