礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり(陸軍大臣告示)

2019-05-01 01:09:48 | コラムと名言

◎蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり(陸軍大臣告示)

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件の経過」の節を紹介している。本日は、その三回目。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 川島〔義之〕陸相は、これを聞いたあと皇居に行き、ここで軍事参議官と侍従武官長、参謀次長、警備備司令官が集って会議が始まった。陸軍首脳部には事態を収拾するはっきりした方針がなかった。結局、午後三時半に、次のような陸軍大臣告示が東京警備司令部から発表された。
「一、蹶起の趣旨に就ては天聴に達せられあり。
 二、諸子の真意は国体顕現の至情に基くものと認む。
 三、国体の真姿顕現(弊風を含む)に就ては恐懼に堪えず。
 四、各軍事参議官も一致して右の趣旨に依り邁進することを申合せたり。
 五、之れ以外は一に〈イツニ〉大御心〈オオミゴコロ〉に待つ。」
 この「告示」は蹶起部隊を喜ばせた。「天聴に達せられた」というので、まるで目的を達したかのように「万歳」を叫ぶ連中もあった。
 一方、第一師団は午後二時四十分、天皇の裁可を得て、戦時警備令下に入った。そして、午後三時には、蹶起部隊を「警備部隊」に編入して、その占拠している地域の警備を命じた。これも蹶起部隊の要望どおりである。蹶起部隊は叛乱軍ではなく、皇軍の一部として、第一師団の小藤〔恵〕第一連隊長の指揮下に入ったのである。蹶起将校たちが、一時は「わがこと成れり」と喜んだのも無理はない。
 このように川島陸相以下、軍政部の方は、まるで叛乱を容認するようなあいまいな態度をとっていた。しかし、統帥部はかなり冷静にうけとめていた。参謀本部では朝早く、部課長会議を開いて協議したが、この時すでに断固鎮圧の方針を決定していたようだ。その日の午後には、甲府、佐倉、水戸などの連隊の東京派遣を上奏して允裁〈インサイ〉をうけている。鎮圧に備えての兵力である。そして夜半すぎ、二七日の午前三時には戒厳令が公布された。川島陸相は戒厳令には消極的だったが、統帥部の強い要求で発動された。ついで、午前八時二十分には、奉勅命令を仰いでいる。これが、あとで「叛乱部隊を原所属に帰還せしめよ」という〔香椎浩平〕戒厳司令官に発せられた奉勅命令なのである。
 この奉勅命令は二十七日の朝、東京警備司令官香椎浩平〈カシイ・コウヘイ〉中将に内示された。しかし、本交付は二十八日午前五時とされた。この期間に説得解散を行なうが、そのときまでに撤退しなければ、この命令によって撤退を強行するというものである。
 この間蹶起将校たちと、陸軍首脳部の間にはいろいろと折衝があった。かなりの曲折もあるが、当初と違って、次第に蹶起部隊側は不利になってきたのを認めなけがばならなかった。その裏には、天皇自身が、初めからこの蹶起部隊を叛徒、叛乱軍として、それを鎮圧するのが急務という判断を下したことがある。蹶起の精神だけは汲んでもらいたいという本庄〔繁〕侍従武官長の言葉もしりぞけた。「精神のいかんを問わず国体の精華を傷つけるものである」という意味の天皇の言葉は決定的となった。杉山〔元〕参謀次長以下の統帥部が、この方針を体して動いたという事実を見逃せない。【以下、次回】

 最初のところに、「川島陸相は、これを聞いたあと皇居に行き、ここで軍事参議官と侍従武官長、参謀次長、警備備司令官が集って」とある。この記述の通りだとすると、集まったのは、軍事参議官のほか、川島義之陸軍大臣、本庄繁侍従武官長、杉山元(はじめ)参謀次長、香椎浩平警備備司令官ということになる。このときの軍事参議官は、荒木貞夫・真崎甚三郎・林銑十郎・阿部信行・植田謙吉・寺内寿一(ひさいち)・西義一(よしかず)・朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)・梨本宮守正王(なしもとのみや・もりまさおう)・東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)であった(ウィキペディア「二・二六事件」)。

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