◎嘉納治五郎、東京大学で戸塚彦助の柔術を体験
必要があって、井上哲次郎の『懐旧録』(春秋社松柏館、一九四三)を読んでいたところ、講道館柔道の発祥にかかわる記述があった。本日は、これを紹介する。なお、この記述は、井上が、加藤弘之博士の功績を紹介している箇所の一部である。
更に今一つ茲に述べて置き度いことがある。それは明治十二年〔一八七九〕であつたか十三年〔一八八〇〕であつたか、ハツキリ覚えないが、その頃のことである。加藤〔弘之〕博士が柔術といふものも大学で一遍やらせてみたらどうだらうといふやうな話から、段々進んで、大学の講堂に畳を敷いて道場となし、柔術の先生を招んで〈ヨンデ〉やらせた。その先生はもと幕臣で、戸塚彦助といふ人であつた。この人は当時千葉県に在つて監獄の教師をして居つた。それを招んでやらせたのであるが、戸塚は自分の弟子を七、八人連れて来て、そして先づ自分が柔術の型をやつて見せた。何でもその頃は六十歳位の年配であつたと思ふ。それで先生が型をやつてみせた後で、弟子達が相互に取組をやつた。いづれもなかなか強さうな弟子達であつた。で、講堂には大学の教職員及び学生が一杯来て居つた。戸塚といふ人は何でも幕末に講武所で柔術をやつて、最後に勝つた人であるといふ話であつた。つまり柔術では当時この人に及ぶ人は無かつたわけである。ところが、茲に注意すべきことは、その弟子が取組をやつて居る間に、大学の学生の中から著物〈キモノ〉を脱いで道場に出て、その弟子達と取組をやつたものがある。弟子達もなかなか強かつたと見えて、その学生は真赤になつてやり合つた。それが嘉納治五郎君であつた。が、嘉納君はそれ迄柔術をやつて居つたので、確かに自信があつたから出て取組をやつたのである。その後戸塚といふ人は何時死んだか分らぬが全く聞えなくなり、その弟子達もどうなつたか、さつぱり聞えなくなつてしまつた。嘉納君の方は東京大学を卒業してから、益々柔道の側に於いて種々な流派をも研究して、之を折衷し、その道に於いて次第に上達し、終に講道館を立て、多くの青年子弟に柔道を教へ、今日の如く講道館一派の柔道が起つて来たやうな次第である。最近はこの柔道が世界的となつて偉大なる歴史的意義を有するやうになつたが、嘉納君が当時戸塚の弟子と取組をやつて、大いに苦闘したのが非常な刺戟となり、つひに大成するやうになつたと思ふ。加藤博士が柔術も何かの参考になるであらうと思うてやらしたのが、今日のやうな偉大な世界的の結果を来す〈キタス〉やうになつた原因であると思はれる。
柔道は昔は柔術とのみ云うたのであるけれども、どうしても柔術は修養と結び附けんればならぬといふ考からして、嘉納君が柔道と名附けたのである。今では柔術といふものは殆んど無くなつて、柔道といふ名称のみが世に行はれてゐる。もしも徳川時代に柔道と云つたことがあつたならば、それは余程稀な場合であらう。嘉納君の話では、柔術は必ずしも江戸時代に陳元贇〈チン・ゲンピン〉によつて伝へられた拳法に始つたものでない。室町時代の末に已に〈スデニ〉柔道に似た「小具足【コグソク】腰【コシ】の廻【マハリ】」と云ふことが竹内中務大夫〈タケノウチ・タカツカサタイフ〉勝盛によつて始められた。それが抑々〈ソモソモ〉柔術の初めであらう。かう云ふ話である。なほ柔術の起りに就いては江戸時代初期の兵学者松宮観山の『学論』中に陳元贇によつて伝へられた拳法より柔術の起つたことが論ぜられて居る。縦ひ〈タトイ〉柔術が拳法から起つたにしても、日本では何事によらず決してその侭にして置かないで、ずつとそれを立派なものに為すのが在り来り〈アリキタリ〉の風であるから、やはり柔術は日本のものと云つて宜からう。柔術の起原発達に関する研究は姑くこれを措いて、大学と柔術即ち柔道と嘉納君との関係、なほ遡つてこれを考へれば、柔道と加藤博士との関係、これは殆んど世人の知らざるところであらうと思ふからして、茲に附け加へて述べて置く次第である。〈33~36ページ〉
文中、「竹内中務大夫勝盛」とあるが、勝盛は、あるいは「久盛」の誤りか。
なお、井上哲次郎は、一八七七年(明治一〇)に東京大学に入学し、一八八〇年(明治一三)に卒業している。すなわち、東京大学に柔術家の戸塚彦助およびその門弟が招かれ、講堂で実演をおこなったとき、井上は同大学の学生だったと思われる。おそらく、講堂内で実演の模様を見学していた学生のひとりだったのだろう。