◎朝鮮政府、一圜銀貨・十文銅貨・五文銅貨を鋳造
土屋喬雄著『渋沢栄一伝』(改造社、一九三一)から、別篇の一「朝鮮に於ける渋沢栄一」という文章を紹介している。本日はその二回目。昨日、紹介した部分のあと、次のように続く。
朝鮮には古来本位貨幣なく葉銭【えふせん】と称する数種の銅銭と真鍮銭【しんちうせん】とが流通するのみで、後【のち】当百銭、当伍銭等鋳造せられたが、何れも粗悪、幣制紊乱【びんらん】、貨幣の信用地に墜ち、物価の騰貴、貿易の不便甚しかつた。我国との諸関係密となるに従つてその不便は痛切に感ぜられたので、我国の指導下に朝鮮政府をして二四年〔一八九一〕我が幣制に做ひ一圜【けん】銀貨、十文【もん】、五文銅貨を鋳造せしめ、更に二十七年〔一八九四〕八月日清戦役中新式貨幣発行章程を発布し新貨幣制度を制定せしめた。この制度は銀貨本位制をとり、銀五両、一両の二種の外【ほか】白銅貨、銅貨及び黄銅貨【おうどうくわ】等発行せられたが、間もなく発行利益の多かつた白銅貨のみ濫発せらるゝ様になり、又公鋳の外特許料を納めて私鋳を許可し、遂に官製の刻印を貸下げた官吏さへあつて偽造貨頗る多く、外国殊に我が大阪近傍その他岡山等の地で鋳造されて盛んに輸入せられたので、白銅貨の本位貨幣に対する相場は暴落するに至つた。かゝる有様の下にあつては、新式貨幣発行章程第七条の「新式貨幣が多額に鋳造せらるゝまでは暫く外国貨幣を混用するを得【う】」といふ規定に拠つて韓国法貨たるの効果を有してゐた我が一円銀貨の流通高が激増したのは当然であつた。然るに我が国は明治三十年〔一八九七〕十月一日より金貨本位制となり一円銀貨は当然朝鮮市場よりも回収せられねばならなかつたが、かくては粗悪なる韓銭を愈々跋扈【ばつこ】せしめ、我国貿易にとって不利益甚しいので、第一銀行は三十年八月「朝鮮国幣制私議」なる意見書を日本銀行に提出し、一円銀貨に刻印を捺して従前通り韓国貿易市場に通用せしむべきことを論じ、仁川釜山の日本人商業会議所又同様の意見を上申したので、遂に日本銀行、政府、並びに韓国を動かして貿易業者のために何等の不利益を蒙らしむることなきを得た。
当時朝鮮は日露英米等の注視の的であつた。就中【なかんづく】露西亜【ロシヤ】は東亜経略の歩【ほ】を満韓地方に延ばし、遼東還付〔一八九五年五月〕後はいよいよ力を注ぎ三十年十一月には韓国政府に迫り、アレキシーフを韓国財政顧問となし、三十一年〔一八九八〕二月には露韓銀行を起して財政経済上に於ける第一銀行の地位を奪取せんと企て、遂に韓国政府に説いて刻印は円銀は納税に用ふることを停止せしめ、次で公私一般の授受をも禁止せしむるに至つた。然しながら日英の共同戦線は鞏固【きやうこ】に、韓廷の非露国派の勢力漸く復活してアレキシーフは任を解かれ、露韓銀行は三ケ月にして閉鎖の破目【はめ】に陷った。しかしながら刻印付円銀の禁止令なほ解けなかつたので、渋沢は自ら渡韓して、交渉斡旋に力【つと】め、七月遂に目的を達し、我国貿易を泰山の安きに置くことを得た。【以下、次回】