◎加藤典洋さん亡くなる(攘夷から開国への「転轍」)
昨二一日の東京新聞によれば、評論家の加藤典洋さんが亡くなられたという。亡くなったのは、今月一六日で、死因は肺炎だという。七一歳。
昨年の一月二八日に池袋の丸善で、加藤典洋さんの講演会があったので、参加した。テーマは「福沢諭吉」だった。そのときは、お元気そうに見えたが。
この講演の前、勉強のためと思って、『もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために』(幻戯書房、二〇一七年一〇月)を購入し、一読した。昨日、訃報に接したあと、書棚から取り出し、少し読み直してみた。冒頭に置かれた論文「もうすぐやってくる尊王攘夷思想のために――丸山眞男と戦後の終わり」が、やはり、最も力が入っていると思った。本日は、追悼の意味をこめて、同論文の一部を引用させていただこう。
しかし、いかに自分の「正義」(「誠」)を言い募っても、また相手がいくら理不尽であろうとも、そのままぶつかったら、植民地にされてしまうだけではないか。そういう感慨が、実際にこの過激な思想を実行すると、その結果として、やってくる。つまりは実行を通じて「内在」の思想は、「関係」の壁――関係の絶対性――にぶつかり、はじめて「関係の世界」にふれる。そうしてはじめて、それを避けるには、その「内在」の論理だけではダメだ、という明察が訪れ、次善の策への模索が共通の課題となりせりあがってくる。その契機を私は先にあげた拙著『日本人の自画像』では、「内在」から「関係」への〝転轍〟と呼んでいる。
日本列島で、もっとも対外的危機感を募らせたのは本州と九州の「突端」に位置する薩長そして水戸だった。そのうち、薩長が、攘夷に走り――「内在」の尊皇攘夷思想を実行し――、薩英戦争(一八六三年)、下関戦争(一八六三~六四年)でこてんばんに欧米列強に負けることで、「関係」の尊皇開国思想へと「転向=転轍」し、尊皇攘夷思想の革命性を「革命」の実行に結びつける。また、これに対し、朝幕双方への「近さ」もあり、その過激思想を欧米列強を相手にそのままに実行することのなかった水戸は、外国軍とぶつからずにテロ (井伊暗殺)へと向かい、〝転轍〟の機会を逸する。そして、そのためだろう。天狗党の乱(一八六四年)など、内紛を募らせ、原理主義がいよいよ過激化し、孤立した果て、どうなるかの例を示し壊滅している。ここでは論じないが、両者の差は、尊皇・攘夷の論の観念的な純度の差、尊皇論と攘夷論の質的差異と拮抗関係の強度の違い、ならびにこの転轍=転向の契機の有無にあったというのが、私の考えである。〈四七~四八ページ〉
文中、『日本人の自画像』という書名があるが、二〇〇〇年三月、岩波書店刊。現在、『増補 日本人の自画像』(岩波現代文庫、二〇一七年一月)。