◎「大御心に待つ」という政治プログラム
古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件の性格と影響」の節を紹介している。本日は、その二回目。昨日、紹介した部分のあと、一行、アキがあって、次のように続く。
二・二六事件は、「改造法案」が改革の手段として指示した戒厳令を布くことには成功した。ただ、この戒厳令は、国内維新のためであるか、逆に蹶起部隊を鎮圧するのが目的であるのか、はじめははっきりしなかった。青年将校たちは、戒厳の宣布をかならずしも要求はしていなかった。しかし、戒厳が下令され、蹶起部隊が戒厳部隊に編入されたと知ったときは、わがことなれりと喜んだ。つまり戒厳部隊であれば、それが討伐の対象になるおそれはないはずである。これこそ維新の第一歩だと信じたのも無理はない。
戒厳令が閣議できまったのは二十六日の夜八時過ぎだった。そして夜半すこし前、枢密院の本会議で可決された。杉山〔元〕参謀次長は午前一時過ぎ(二十七日)戒厳司令部の編成、戒厳司令官に整備司令官の指揮転属の件などの御裁可をうけた。そのとき天皇は「叛徒を徹底的に始末せよ。戒厳令を悪用してはならない」といわれた。悪用とは、軍がこれを国内維新遂行の道具に使ってはならないということである。杉山参謀次長ら、統帥部もその考えであった。この考えは参謀本部作戦課長石原莞爾大佐が強く推進していたといわれる。
このとき、すでにこの戒厳令の性格ははっきりしていたのである。公布されたのは二十七日午前三時だった。蹶起将校たちは、戒厳令公布に万歳を叫んだが、それはまったく見当違いだったわけである。
【一行アキ】
二・二六事件は、血盟団事件や、五・一五事件のようなテロではなく、クーデターであった。ただ、クーデターの目的は権力奪取にあるという意味では、趣きを異にしている。蹶起将校たちは、みずから権力の座につこうとは、まったく考えていなかった。蹶起部隊の代表として、軍首脳部と折衝に当った香田清貞大尉は、処刑されるときの遺書にこう書いている。
「天日を暗くする特権階級に痛棒を与え、国体の真姿を顕現し、国家の真使命を遂行し得る態勢をなさんことを企図せるなり」また、村中孝次も「丹心録」にこう記している。
「吾人は不義討滅し――その結果として大詔宣布民心一新即ち維新――を以て目的として主眼となしたり。而してこれが達成に全努力を傾倒せり」
つまり、自分らが立って、君側の奸を倒せば、あとは同憂の士がこれを収拾し、それがまた天皇の〝大御心〟に沿うものと信じていた。蹶起したあとの具体的な政治プログラムはほとんどなかったといっていい。ただ、決行の趣旨を、陸相を通じて天聴に達せしむることは陸相に対する要望事項の第一として、強く要求している。これは、天皇に申上げてくれというだけでなく、御嘉納をいただくことを前提としている。そして天皇の大号令によって、維新に進むというのである。「大御心に待つ」これが、いわばプログラムであった。
だから、陸相への要望事項も、宇垣〔一成〕、小磯〔国昭〕、建川〔美次〕の三将軍の逮捕、根本博大佐、武藤章中佐、片倉衷少佐の罷免など、いわゆる奸臣の排除に主眼があった。そしてあとは、斉藤劉〈リュウ〉少将、満井佐吉中佐(相沢事件の弁護人)山口一太郎大尉(本庄繁侍従武官長の女婿)などの工作にまかせるといった態度だった。
もっとも、陸相への要望事項には、直接入ってはいないが、維新を断行するための強力内閣については、構想を持っていないではなかった。それは真崎甚三郎大将を旨班とし、柳川平助中将を陸相とする案だった。(皇道派の荒木貞夫大将を関東軍司令官にしろというのが、陸相への要望事項の中で、ただ一つの具体的人事としてあげられているが、これは荒木大将の行政能力を信頼できないで、あらかじめ首班からはずしておこうとしたためだともいわれている)
この工作には、満井佐吉が主として当っていて、真崎首班が参謀本部側の強い反対でつぶれると、代案として山本英輔〈エイスケ〉海軍大将の首班を主張したりした。こういった工作も、蹶起部隊が叛乱と規定され、奉勅命令まで出るにおよんで、すべて瓦解した。そしてやがて広田弘毅〈コウキ〉を首班とする内閣が生れるのである。【以下、次回】