礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ(戒厳司令部)

2019-05-02 03:07:13 | コラムと名言

◎今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ(戒厳司令部)

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件の経過」の節を紹介している。本日は、その四回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 二十八日午前五時に効力を発した奉勅命令は次のようなものである。
「戒厳司令官ハ三宅坂附近ヲ占拠シアル将校以下ヲ以テ速ニ現姿勢ヲ撤シ各所属部隊長ノ隸下ニ復帰セシムべシ
  奉勅          参謀総長 載仁親王」
 ところが、当の責任者である戒厳司令官香椎〔浩平〕中将は、皇道派に同情的だった。そして、「平和解決の唯一の手段は、昭和維新断行のため御聖断を仰ぐにある」と、自分が参内して上奏するといい出した。そして「本来自分は彼等(蹶起部隊)の行動をかならずしも否認しない。とくに皇軍が相撃つということになれば、彼等を撤退させる勅令の実行は不可能になる」とさえ主張した。しかし杉山〔元〕参謀次長の「奉勅命令に示されたとおり、聴かなければ討伐するほかない」という強い反撃にあって、やっと納得した。
 こんないきさつもあって、叛乱鎮圧の行動が起されたのは、二十九日の朝になってからだった。飛行機からは帰順勧告のビラがまかれた。
「     下士官兵ニ告グ
一、今カラデモ遅クナイカラ原隊へ帰レ
二、抵抗スル者ハ全部逆賊デアルカラ射殺スル
三、オ前達ノ父母兄弟ハ国賊トナルノデ皆泣イテオルゾ
               戒厳司令部」
 そしてラジオは、例の「兵に告ぐ」を繰り返して放送した。
 叛乱軍と規定されると、下士官以下はほとんど戦闘を交えずに帰順した。野中四郎大尉は自決し、安藤輝三大尉もビストルで自分の頭を射ったが、これは未遂に終った。また、湯河原の牧野〔伸顕〕伯を襲撃した河野寿〈コウノ・ヒサシ〉大尉は重傷を負って熱海の陸軍病院に収容されていたが、三月五日病院裏の山林で割腹自殺をした。こうして〔二九日〕正午ころには、さしもの動乱もおさまり、午後には幹部たちも逮捕された。
 この公判廷は、三月四日に特設された。非公開のまま審理が進められ、七月五日には早くも判決があった。
 香田〔清貞〕、安藤、栗原〔安秀〕ら元将校十三名と、民間側の村中孝次、磯部浅一ら四名、計十七名が死刑、蹶起将校の中で死刑を免かれたのは五名で、いずれも無期禁固であった。五・一五事件などにくらべて、その判決のきびしさが目立っていた。
 北一輝も、まだ事件の終らない二月二十八日に、早くも憲兵隊に逮捕された。西田税は三月四日に警視庁に捕われ、いずれも軍法会議に送られた。そして翌一九三七年八月十四日、二人とも二・二六事件の首魁〈シュカイ〉として死刑をいい渡された。
 その判決理由は「北輝次郎(一輝)、西田税の両名は、わが国現下の情勢を目し、建国精神に悖り〈モトリ〉悪弊累積せるものとなし、痛く国家並に皇軍の前途を憂慮するに至りたるは、これを諒とすべきものありと雖も、苟も〈イヤシクモ〉皇軍を利用して国家革新の具に供せんことを企図し、密に〈ヒソカニ〉一部青年将校らに接近し、急進嬌激〈キョウゲキ〉なる思想を注入宣伝し、終に〈ツイニ〉統帥大権を破壊するの結果を招来するに至らしめたるは、その罪責重旦大なりと認むベく、よって前記(死刑)の如く処断せり」
 判決をいい渡されたとき、西田が裁判官に何かいおうとしたが、北に制せられて無言で退場した。処刑は判決のすぐあと、八月十九日に行なわれた。西田が「天皇陛下万歳を三唱しましょう」というと、北は「いや私はやめます」と答えた。
 公判中に、法務官の一人は「北、西田はこんどの事件には関係がないんだが、殺すのだ。死刑は既定の方針だからやむをえない」といっていたと伝えられている。

 奉勅命令の署名「載仁親王」は、閑院宮載仁親王(かんいんのみや・ことひとしんのう)のことである。

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