礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

陸軍は何をするかわからないといった恐怖

2019-05-06 00:26:33 | コラムと名言

◎陸軍は何をするかわからないといった恐怖

 古谷綱正解説『北一輝「日本改造法案」』(鱒書房、一九七一)の解説〝二・二六事件と「日本改造法案」〟から、「二・二六事件の性格と影響」の節を紹介している。本日は、その三回目(最後)。昨日、紹介した部分のあと、改行して、次のように続く。

 蹶起部隊が、こういった政治構想を一応持っていたこと、また軍隊を動かして、その圧力で政権を動かそうとしたこと、これは彼らが自分で権力を握ろうとしなかったとはいえ、やはりクーデターの性格をはっきり持っていたといえる。ただ、彼らが天皇を絶対視し、天皇の号令を待ったところが、外国のクーデターとは違う点である。彼らは、天皇に代って、権力の座につこうなどとは、それこそ夢にも考えなかった。このことは、天皇が味方になってくれない限りは、决して成功しないクーデターであることを意味する。戦前は、内閣は天皇の大命降下によって組織される。この体制を認めるのなら(蹶起将校たちは、この天皇制をもっとも大事にしているのだ)いくら彼らが真崎〔甚三郎〕首班を望んでも、天皇が承認しなければ実現しない。蹶起部隊の圧力をもって、天皇に強要するなどという〝おそれ多い〟ことは、もちろん彼らの念頭にはない。たとえ、青年将校たちが綿密な政治プログラムを持っていたとしても、天皇の〝大御心〟を読み違っては、決して成功するはずのないクーデターだったのである。
 事件が鎮圧した翌日(三月一日)、陸軍省は早速、
「今次の不法出動部隊(者)を叛乱軍(者)と称することとす」
 という次官通牒を全軍に告示した。初めは蹶起部隊とか行動部隊と呼ばれ、ついで騒乱部隊といわれていたのが、ここではっきり叛乱軍とされた。こうして、日本陸軍はじまって以来の大事件といわれる二・二六事件は、あっけなく終ってしまったのである。
【一行アキ】
 しかし、この事件の影響は、あとあとまで残った。二・二六事件を起した皇道派は排除され、陸軍はその反対派が指導権を握ったのではあるが、一般の国民は、そんな区別はしなかった。二・二六事件によって、陸軍は何をするかわからないといった恐怖が、ひろがった。一般国民だけでなく、事件の内情に通じていた政治家でさえ、同じような気持にとらわれていた。
 一九三七年一月、広田〔弘毅〕内閣が倒れたあと、宇垣一成大将に組閣の大命が降った。陸軍があげてこれに反対し、陸相推薦を拒否した。宇垣大将は、みずから現役復帰して陸相を兼任するか、天皇の命令で陸相選任といったことまで考えたが、湯浅〔倉平〕内大臣はこれを拒否した。宇垣大将は大命拝辞のほかなかった。この裏には、宇垣内閣を強行すれば、陸軍がどんなことをやるかわからないといった恐怖がなかったとはいえない。
 また、太平洋戦争直前の一九四一年十月、第三次近衛〔文麿〕内閣が総辞職したあとも、後は海軍に組閣させたらという案もあったが、これも陸軍がどんな動きをするかもしれないといった恐怖から、東条〔英機〕陸相が後継者になった。
 こういった大きい動きだけでなく、陸軍は二・二六事件以後は、ことあるごとに横車を押した。陸軍の指導権は統制派に移っていたのに、皇道派が起したクーデターの実績は、陸軍が外部に与える大きな圧力となった。これが、ついには戦争への道をつっ走る大きな動因となった。二・二六事件は、首謀者たちの意図した点とは関係なく、日本をファシズムと戦争へかりたてることになったという事実は否定できない。
 戦争は皇道派が排撃していた統制派によって、始められた。しかし、その楔機は皇道派の起した二・二六事件であった。これは皮肉なようにもみえるが、しかし皇道派が主導権を持っても、戦争は避けられなかったと思われるのは前に指摘したとおりである。そういった点を考え合せると、二・二六事件を頂点とする統制派と皇道派の争いも、大きくみれば、陸軍部内の派閥争いに過ぎなかったと評価できそうである。
 二・二六事件の首脳が処刑されてからわずか一年後、そして北一輝、西田税の処刑されるよりも一ケ月余り前、一九三七年七月七日、日本は中国との戦争に突入し、あとはもうかけ足のように大きな戦争へと進んでいったのである。

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