◎「近世の名僧南條文雄博士」井上哲次郎
井上哲次郎の『懐旧録』(春秋社松柏館、一九四三)の紹介を続ける。本日は、「近世の名僧南條文雄博士」という文章を紹介する。ただし、最初の数ページ分のみ。
近世の名僧南條文雄博士
上
南條文雄博士は近世の名僧中殊に傑出の人で、明治以後梵語学の率先であつたことは周知の事実であるが、また徳望を以て一世に勝れて居つた〈オッタ〉沙門であつた。南條博士の詳細なる伝記はいづれ別に編纂する人があるであらうし、又その梵語学者としての功績に就いては高楠〔順次郎〕博士のやうな人が書いて伝へらるるであらう。唯自分は南條博士と長い間友人関係があつたので、自分が南條博士の逸事と思ふやうなこと及び南條博士の人格に対する感想を述べて、学者の参考に供したいと思ふのである。
南條博士は美濃大垣の人で、父は渓英順といふ真宗の僧であつた。が、二十三歳の時、越前の僧南條神興氏の養子となつて、それから南條と称するに至つた。この養父の神興といふ人は嘗て南條博士が教へを受けた人でやはり真宗の僧であつた。南條博士は幼名は恪丸と云つた。而して嘉永二年〔一八四九〕の生れで、昭和二年〔一九二七〕東京に於いて病没された。時に七十九歳であつた。博士の生存中は自分より六歳の年長であつた。が、今日では、自分が十歳の年長者となつて居るやうな次第である。南條博士の名は文雄【ぶんゆう】といふのである。ところが三省堂の『現代百科辞典』には南條文雄【ふみを】としてある。これは固より〈モトヨリ〉間違であるが、よく人は文雄【ふみを】と云つたものである。明治年間には矢野文雄といふ人も居られたやうな次第で、文雄【ふみを】と誤つて居るのはさう深く咎む〈トガム〉べきではない。併し、南條博士が云つて居られたが、嘗て博士が英国に滞在して居られた時に、日本から為替が来たが、宛名が南條文雄【ふみを】となつて居つた。名前が違つて居るといふので、その金が受取れないで、非常に困つたといふ話をして居られた。いつたい「文雄」と書いて四通りの読み方がある。一つは博士の名の如く「ぶんいう」と読むのであるが、又一つは「ふみを」と読む。ところが今は故人となつたが、日蓮宗の人で「法華経」を英訳した加藤文雄といふ人があつて、その名を「ぶんのう」と読んだ。それから徳川時代に浄土宗の学僧で文雄といふ人があつた。これは同じ文字を書いて「もんのう」と読んだ。この文雄は悉曇〈シッタン〉学者であり、音韻学者であつた。さういふやうに同じ「文雄」といふ字を四通りにも読むのであるから、間違の起るのも決して怪むに足らないが、但し南條博士の名は「文雄【ぶんゆう】」と云つたのである。
博士は明治九年〔一八七六〕本願寺法主〔大谷光勝〕の命を受けて笠原研寿氏と共に英国に留学を命ぜられ、共に時の有名な梵語学者マックスミュレル氏に就いて学ばれ。マックスミュレル氏は、自分も度々〈タビタビ〉会談した人であるが、もと独逸人であるけれども英国に帰化して、オックスフォード大学に教鞭を執つて居つた。笠原氏の方は不幸にして肺病に罹り、その業を終へずして帰朝し、幾く〈イクバク〉も無く他界されたのである。南條博士は、足掛〈アシカケ〉九年間英国に滞在して梵語を学び、『大明三蔵聖教目録〈ダイミンサンゾウショウキョウモクロク〉』を英訳し、多少の説明を加へて出版された。但し『続蔵〈ゾクゾウ〉』、『又続蔵〈ユウゾクゾウ〉』はこれに加へられなかつた。その他マックスミュレル氏と共に『大無量寿経〈ダイムリョウジュキョウ〉』、『阿弥陀経』、『金剛経』、『般若心経』等の梵本を刊行され、明治十七年〔一八八四〕に米国を経て帰朝された。それから明治二十年〔一八八七〕に入竺〈ニュウジク〉して仏跡を辿り帰途上海から天台山にも登られた。而して日本に於いては帝国大学に於いて梵語学の講師として教鞭を執り、帝国学士院のともなり、いろいろ学界に功績のあつた人である。【以下略】