礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

菅船長や丸山駅長の責任自決は良心の発露である

2019-07-02 08:45:17 | コラムと名言

◎菅船長や丸山駅長の責任自決は良心の発露である

 蒸し暑い天気が続いているが、先日、戦中の教育雑誌に載っていた文章を読み、思わず背筋が凍りついた。『国民教育〔初六〕』第三巻第四号(一九四三年七月)という雑誌の巻頭にあったもので、タイトルは「熾烈なる責任感」。筆者は、同誌の「編輯者」であった曽根松太郎(一八六九~一九四五)である。

   熾 烈 な る 責 任 感   曽 根 松 太 郎

 長崎県北松浦郡調川〈ツキノカワ〉村伊万里〈イマリ〉線調川駅長丸山七郎氏(四七)は、灯火漏洩〈ロウエイ〉申訳なしとの熾烈なる責任感から自決を遂げられたといふ記事が新聞紙上に報道されてをる。之を読み洵に〈マコトニ〉頭の下がる話であると深く感動された事である。事の仔細は、丸山駅長が四月五日夜勤務中、駅の構内で貨車の脱線事故が惹起し、急を要するその復旧作業が闇夜では出来ず、折も折、警戒警報が発令中で、遂に灯火を漏洩した。この重ね重ねの出来事に付、同駅長は深くその責任を痛感し、一切の関係事務を完了した後、立派に自決しお詫びにかへられたのである。曩きに〈サキニ〉長崎丸菅〈カン〉船長の責任自決事件あり、海と陸の違ひこそあれ、同じ重要なる輸送陣営の人として、丸山駅長の責任自決も、菅〔源三郎〕船長同様銃後の感激を呼んでをる。之に対して八田〔嘉明〕鉄相は、これ全く国鉄精神の発露であるとなし、故人の霊前に供ふべく、見舞金一封と鄭重なる弔辞を丸山さき夫人に贈られたといふ。予は菅船長の武人に劣らぬ責任自決に対し、「日本人魂の真骨頂」てふ題下に之を称揚したのであるが、丸山船長の崇高なる責任自決についても亦同様讃歎〈サンタン〉の声を禁じ得ぬものである。
 ここに菅船長について想ひ起す話がある。長崎丸の沈没については、菅船長に何等責任が無いといふ判決が下された事は、当時の新聞に報道せられた所であるが、菅管船長は熾烈なる責任感によつて自殺を遂げられたのである。その際、菅船長が夫人に残された遺言の中に、「自分は今責任上自決する。それについて洵に済まぬ事は、遺族に対して尠し〈スコシ〉の貯金の残してない事である。自分の亡き後、定めし生活に困らるる事であらう。今後の生活について、子供と共に如何に苦労する事であらうかを想ふ時、真に断腸の感がする。だが併し皆が生活難に苦労する時、それが長崎丸沈没の為溺死された方々の遺族に対するお詫びであると思つて辛抱して貰ひ度い」との意味が書かれてをるのである。実にその崇高なる責任精神について敬仰〈ケイギョウ〉の意を深くする次第である。
 海軍では、言訳が通らぬ、言訳は無価値のものだとされてをると聴かされ、如何にも海軍であると感じた事である。事実、言訳は、自己の責任逃れの為になさるる事が多いのであつて、それだ断じて許さるべき事ではない。「理窟と鳥黐〈トリモチ〉とは何処にでもくつつく」といはれてをる。言訳も往々にして自己の責任を少しでも軽くし度いといふ心理から、そとに理窟をくつつけてなさるるのであるが、されば責任感の乏しい人々のなす事であるといつてもよいであらう。自己の責任は、他に対してなさるる言訳によつて軽重の定まるものでなく、唯、自己の良心のみよく之を知る。言訳によつて他を欺く事は出来るが、欺くべからざるものは実に自己の良心である。菅船長や丸山駅長の熾烈なる責任自決は、実に良心の発露であるといへる。言訳の許されぬといふ事は、流石〈サスガ〉は海軍魂の涵養せらるる所以であると感ぜられた事である。
 我が教育界にも師魂が燦〈サン〉として輝いてをる。大阪城下大手前広場に白堊〈ハクア〉の教育塔の高く聳えてをる事が、明らかにそれを物語つてをる。又、国民学校令実施後に於ける鈴木・佐々木・桑野・小國・保田・龍崎訓導の殉職事蹟については、その都度本誌に報道した所である。今や我が国が米英打倒と大東亜建設に邁進しつつある時、教育者の双肩にかかる使命はいよいよ重大である。願はくは全国の国民教育者諸君が、この戦争を身近に感じ、この時局の間に呼吸し、他山の石以て我が珠を磨き、一層熾烈なる責任感を喚起し、斯道〈シドウ〉に精進られんする事を要望し熱望して已まぬ〈ヤマヌ〉次第である。(五月十六日稿)

 調川駅の丸山七郎駅長の自決事件は、当時すでに、九州北部に対する米軍の空襲が予想される事態になっていたことを示す。ちなみに、九州北部に対する最初の空襲は、一九四四年(昭和一九)六月の八幡空襲である。
 また、「長崎丸沈没」とは、戦中の一九四二年(昭和一七)五月一三日、貨客戦長崎丸が、長崎港外で、日本海軍が敷設した機雷に触れ沈没した事故をいう。死者、行方不明者三九名。海軍の不手際による事故で、船長に過失はなかった。
 いずれも、責任を取る必要がないような事件で、自決しているケースである。にもかかわらず、そうした「責任」の取りかたが、当時、称賛を浴びたらしい。少なくとも、この文章を書いた曽根松太郎は、このふたりの自決を称賛し、「他山の石」とせよと言っている。そのことに対して、「背筋が凍りついた」のである。

*このブログの人気記事 2019・7・2

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする