礫川全次のコラムと名言

礫川全次〈コイシカワ・ゼンジ〉のコラムと名言。コラムは、その時々に思いついたことなど。名言は、その日に見つけた名言など。

岩戸を開いて燦然たる陽光をアジヤの天地に遍照せしめん

2019-07-05 01:30:06 | コラムと名言

◎岩戸を開いて燦然たる陽光をアジヤの天地に遍照せしめん

 雑誌『国民教育〔初六〕』の第三巻第四号(一九四三年七月)から、「必勝教育の徹底的実践」という文章を紹介している。本日は、その二回目。

 () 日本の独立を堅持する事は大東亜の護持
 然し、お互日本人は茲で必勝の信念の内容や具体性に就いて、どれだけ了解し把握し、更にこれを日々の生活に活かしてゐるかを自問し自答し、三思三省する必要があると思ふ。必ず勝つ教育を徹底せしむるためには、断じて必勝の信念の内容を全的に了解体得しなければならぬ。
 それがためには、今次の大戦役の目的を明徴にし、全日本人殊に教育者の如き国家の指導的地位に立つ者がその目的を正しく確認し確信することが絶対に必要である。
 支那事変の当初、評論界に於ては征戦の目的に就き各種各樣の意見が述べられてゐた。中には領土は限定されてゐる上に、人口は幾何級数的に増加し、剰へ〈アマツサエ〉食物は算術数的にしか増加しない、この現実から必然的に到達する結論こそ戦争だ、と大見得〈オオミエ〉を切つて、一部の喝采をさへ博したものさへあつた。如何に健忘症であつても、忘れてはゐないであらう。
 兵を動かすは、畏くも〈カシコクモ〉現津神〈アキツカミ〉天皇の大権であつて、常に天ツ神、御祖神〈ゴソシン〉の神慮を仰ぎ、発動せられ給うてゐる。
 兵は国家の大事にして死生の地、存亡の道なり、察せざるべからざるなり。故に之を経するに五事を以てし、之を校ふるに計を以てしてその情を索む〈モトム〉。と孫子は語つてゐる。そして一に曰く道……と示してゐる。
 然り、孫子たらずとも兵は国家の大事に違ひない。然し日本に於ける出師〈スイシ〉は、常に神慮聖断によるものであつて私議すべきものでなく絶対である。常に聖戦であり、光明と真秩序を創造しそれぞれの国家と民族に正しき所を与へる大乗的戦争である。重ねて言へば、昭々たる道に循ふ〈シタガウ〉道義のいくさである。
 然るに米英のアジヤ進出を見よ、世界を横行せし事実を見よ。常に民族的利己心の貪婪に根ざす覇道的侵略的戦争以外の何ものでもなかつたではないか。
 世界地図アジヤの地図は、英米の強盗的偽作図と言つても過言ではない。岩越元次郎氏の言によれば、この地図をそのまゝ信じてゐるのは,一種の迷信だ。
 日清の役に日本が敗北してゐたと仮定せよ、或は口シヤに敗退してゐたとせよ。満洲事変に挫折してゐたとせよ。或は国際連盟に盲従してゐたとせよ。
 思ふだに戦慄を感ずるではないか。アジヤの地図はどうなつてゐたであらうか。暗夜に白い牙歯〈キバ〉をむき出しにして、ニヤリとしてゐる英米ユダヤの顔が描き出されるではないか。
 親愛なる東亜の民族は、すべてがすべて奴隷となり、アジヤの天地は黯黮〈アンタン〉たる妖雲に覆はれ、天日のために悲惨な状態となつてゐたのは火を見るよりあきらかである。
 アジヤ近代史は、英米ユダヤの侵略史といつても過言ではない。
 岩戸を開いて燦然たる陽光をアジヤの天地に遍照せしめんとする崇高なる使命は、神国日本の天命である
 日本を包囲し、日本の独立を打倒せんとせし彼等の野望は、世界の宝庫としてのアジヤを存分に掠奪し山分けをし、たくましい労働力を有する民族を奴隷化して彼等のみ繁栄せんとするの吸血鬼、鬼畜無道の所行以外の何ものでもないのだ。
 神の国日本、道の国日本がその神聖なる独立を護持することは、ひとり日本のためではない。
 建国以来一系の 天皇、永遠に亘る一人の天皇を奉戴せる唯一の民! 汝は地上の万国万民、一切のものに向つて、人は皆一天の子にして、天を永遠の君主とする一個の帝国を建設すべきことを教へんがために生れたりとは、フランス詩人ポール・リ・シヤールが大正五年〔一九一六〕二月十五日川島鳳外に呈した詩の一節である。
 全宇宙の中心座にその御柱として坐し給ひ、八紘を天照し、大稜威〈オオミイツ〉四海に遍き〈アマネキ〉万邦蒼生をして正し所を与へ給うこそ日本天皇の大理念であらせらる。
 日本がその独立自存を護持することは、アジヤを護持することであり、世界の真秩序を創造することである。大義を世界に宣揚し、坤輿〈コンヨ〉を一宇たらしめ、兆民を子育〈コソダテ〉せんとするのが至聖崇高なる大乗的目的である。而も大調和の理念を惟神〈カンナガラ〉の国家成立の生命としてゐる以上はその国家の独立と尊厳を死守することは大東亜を護り世界の正位を堅持する所以である。
 日本の独立が破壊されることは、大東亜の滅亡を意味し、世界は覇道によつて攪乱され、優勝劣敗弱肉強食の修羅場の巷と化するのは必然である。【以下、次回】

 孫子の言葉を引いた箇所に、「之を校ふる」とあるのは原文のまま。あるいは、「之を校ぶる」(これをくらぶる)の誤植か。

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